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後日談・2
フランス出身の風景写真家と言えば、まず名前が上がるその男性。
人物は趣味でしか撮らないことで有名で、公にはほとんど姿を出さず、さぞや気難しい人柄なのだと思っていた。しかし、初めて会った彼は野田より年齢が上のようなそうでないような、曖昧な容貌をしていた。明るいブロンドの髪は日差しに当たると星屑を散らし、涼やかな淡いそばかすが印象的だった。そして日本人と遜色ない巧みな言語で、飄々と笑い声を転がす。
「マネージャーの僕が言うのもおかしな話ですが、うちの小坂をそこまで買ってくださる理由とは一体…?」
日本から遠く離れたフランスの地で、野田は暫く抱えていた疑問を口にした。人物は趣味でしか撮らない写真家が、初めて仕事として受けたのが自身の担当するタレント。これほど名誉なことはない。そう思ってはいるけれど、単純に疑問だった。
「孝弘って芸能界に何年いるの?」
マルクは質問に質問で返し、椅子に座ったままチョコレート菓子を口に運ぶ。それは野田がマルク本人に頼まれて渡仏の際に持ち込んだ物だ。日本ではスーパーで買える庶民的なお菓子ではあるものの、随分と気に入っているらしい。
「デビューが十八歳なので…十四年、でしょうか」
「そんなに長くいるのに随分と素直だね」
マルクの言葉に野田はハッとした。正式な交際もなく女性と体の関係を持ちはするが、その点さえ目を瞑れば真面目な性格なのは知っていた。容姿や演技力の高さは無論あるけれど、あれだけ女性関係で週刊誌を何度も騒がせた孝弘が、世間や芸能関係者に疎まれきらないのは、根本が真面目で素直な性格故の態度だろう。
「結構遊んでるって噂も聞くど、付き合ってるとは絶対に言わない。付き合ってることにしてしまえば都合がいいのに、そうしないのは恋人に必ず愛を求めるから?」
普段の飄々とした態度とは異なり、時としてマルクは怖いほどに的を射た発言をする。まるで絡まった糸をそうするかのように、独り言じみたそれが野田の疑問を解いた。
「子供みたいな純粋を貴ぶのは日本らしさ。僕らは君たちほど幼さに縋らないけど、染まりやすくて色も抜けやすいのは役者としての才能の一つでしょ?」
何年も一緒に仕事をしていながら、小坂たかひろという俳優の価値を今になって言語化して聞いた気がした。彼の悪い男を彷彿とさせる雰囲気は間違いなく魅力的だけれど、根本が純情な点も使い方によっては武器となる。正にここ数年の孝弘だ。
「あっ、孝弘帰って来た」
マルクの言葉に顔を向けると、撮影が中断した時から現場を離れていた孝弘がいた。彼は見覚えのある一人の青年を連れており、野田の存在に気付いたらしい相手が会釈する。野田は自身の手前で足を止めた青年をまじまじと眺め、過去の記憶を遡った。
「ご無沙汰してます」
「垣原くん、ですよね…?」
「え?そうですけど、そんなに変わりました?」
辿々しい質問にノワは可笑しそうに笑う。初めて会った時から目を引く青年だとは思っていたけれど、月日を重ねた彼は以前より濃い雰囲気を纏っていた。視覚的な変化で言えば髪が少し伸びたぐらいなのに、何故こうも違って見えるのか。
「垣原くん、やっぱり今からでも芸能界とか…」
「野田さん」
思わず出た言葉は孝弘に遮られてしまい、マネジメント職としての衝動を止められた野田は顰めっ面で孝弘を見る。本音を言えば、喉から手が出るほどにこの青年が欲しかった。しかし、孝弘と交わした約束があるのも事実で、その溺愛っぷりを考慮すると下手に関与しようものなら職の契約を切られかねない。
(でも、本人がやりたいと言えば小坂さんも止めないだろうし、上の人間が垣原くんを見たらもしかしたら…)
そんなことを考えてしまうのは完全に職業病だった。遠いながらに孝弘と血縁があるだけあって容姿はそこそこ整っているし、何より人目を引く雰囲気がある。更に小坂たかひろの再従兄弟というネームバリュー。初動の掴みは確実に上手くいく。
「…ってことなんですけど、オフの日って作れそうですか?」
突然振られた質問に、野田は長考の間に話が進んでいたらしいことを知った。
「クリスマスマーケットは一ヶ月前からやってますよ。流石にクリスマス直前は孝弘さんが忙しくて無理じゃないですか?」
「なら、十一月の下旬ぐらいとか…。いけそうですか?」
「分かりました。なんとかしてみます」
野田はスケジュール帳にメモを残し、孝弘とマルクを撮影へ送り出した。そして取り残されたノワへと静かに距離を詰める。
「垣原くん、本当にいいんですか?」
「え?」
「僕としては、今すぐにでもうちの事務所に垣原くんを持ち込みたいですけど」
「あー。その話ですか」
ノワは野田の真に迫った態度に首を竦めて笑う。その興味のなさげな軽い反応が放浪感を強め、野田は彼を纏う雰囲気の一つだと思った。
「せっかくのお誘いですが、今の自分が好きなので」
以前は興味がないからと断ったノワは、今度は確固たる理由を述べた。野田はその変化に瞠目し、諦めると同時に目元を綻ばせる。どうやら彼は名のない誰かになれたらしい。
「大学は卒業したと聞きましたけど、仕事は何を?」
「通訳ガイドのアシスタントをしています」
「アシスタント?ガイドとは違うんですか?」
「大きな違いは資格の有無です。フランスで通訳ガイドの資格を取るにはフランス語とスペイン語に加えて、第三言語が必須になります。俺は第三言語として日本語と英語が使えますが、スペイン語は勉強中なのでまだアシスタントです」
大学は国際ビジネス学部だと聞いていたが、なんともノワらしい仕事だと思った。孝弘から聞いていた、彼の案内上手な面も納得がいく。ノワの頭の中にはこの地の文化や歴史が詰まっているのだ。
「それはそれとして、垣原くんなら恋人の三、四人はいますよね?再従兄弟にばかり構ってて大丈夫なんですか?」
「恋人が三、四人って…。それもう浮気ですよ」
「いないんですか?」
冗談として受け取られた質問がそうでないことを示すと、ノワの笑い声が途絶えた。
「んー…。まぁ、いるかもしれませんね」
あまり否定の意味をなさない返答にやっぱりと言いかけた時、ハーフアップの髪から覗いた首筋が目につく。肌に浮かぶその赤い痕が何か分からないほど、野田は鈍感ではない。
視線に気が付いたらしいノワが横目に野田を見やり、うっそりと目尻が細められる。乾いた夏の風が吹くこの遠いどこかの国で、野田は名前の思い出せない誰かを見た。
その賢しくも小生意気な様がきっと見る者を惑わせるのだ。
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