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あの後、結局ノワは店には戻らず帰宅した。 どうせICカードには一駅分もチャージ金は入っていなかったし、落としたのがそこかも分からない店に行くのが面倒で新しく作り直してしまった。しかし、数週間経っても孝弘と見知らぬ女性の光景が脳裏にこびりつき、講義前に雑談をする友人らの話すら右から左へと流れる。 「見てみて、たかひろの特集!」 そう言って女子が広げた雑誌にノワは漸く意識が浮上した。相変わらずテレビはあまり見ないし、孝弘が掲載された書籍を買ったこともない。 「垣原、これこれ。前にお前に似てるって言った小坂たかひろ」 「へぇー…」 再従兄弟(はとこ)と明かすタイミングを見失い、この間も食事を共にしたとは言えず、ノワは素っ気ないふりの相槌(あいずち)を打った。 「親はモデルなんだっけ?」 「そうそう。夫婦揃ってスキャンダル途絶えないって感じの。あれ、結局離婚したよな」 「確かそうじゃない?親も親なら子も子って言うか、小坂も大概(たいがい)だけど」 「え?」 曖昧に進む話題の中で耳を疑い、思わず本音の声が出た。慌てて口を閉ざしたが、友人らはさして気にする風もなく続ける。 「女の影がコロコロ変わるんだよ」 「昔はもっと髪色とかピアスも派手でさ。そんなだから、小坂の女絡みのスキャンダルなんて週刊誌も大して騒ぎ立てないし」 「でも、正直たかひろ相手なら一回限りでもアリって思わない?」 「分かるー。遊びでもあの顔は許せるっていうか」 女子も混ざり広げられる話に、ノワは置いてけぼりを食らってしまった。あの孝弘が実は奔放だなんて、未だに納得が出来ない。実はそんなのは全て噂なのではないか、尾鰭背鰭(おびれせびれ)なのではないかと、悪足掻(わるあが)きのような思考回路が止められなかった。 (でも仮に噂じゃなかったとしたら…。全部本当だったとして、俺は孝弘さんを嫌いになれる?) あの夏の夜も、繋いだ手の熱も、幼少期の記憶のなにもかも。 今更自分以外の誰かと奔放(ほんぽう)な関係だったところで、過去のそれらを全てなかったことにするなんて出来るだろうか。 雨の降り始めた窓の外に目をやり、ノワは数週間前に会ったきりの孝弘を思い浮かべた。夏の変わりやすい天気はまるで恋愛感情と同じで、アルバイトが終わる頃には朝の予報と全く異なる天気に見舞われた。 (洗濯物干して出た日に限って…。最悪) なんとか帰宅した玄関からベランダを見て、思わず溜息が溢れる。横雨で壁にもならない無意味さに、途中から傘を閉じてしまった為にすっかり濡れ鼠だ。取り込んだ洗濯物はカーテンレールに並べ、肌寒さから足早に浴室へと向かった。 部屋の呼び鈴が鳴ったのは、シャワーを浴び終えてドライヤーを手に取った時。誰だろうかと疑問に思いながらドアを開け、そこに立つ相手にノワは瞠目(どうもく)した。その反応は相手の孝弘も一緒だった。 「部屋間違えたかと思った」 「え?」 そう言った孝弘が首元を指差すので、ノワは納得と同時に下ろした髪を撫でる。肩に付く程の長さのそれをいつもはハーフアップでまとめていたから、下ろしている姿が違う人物に見えたのだろう。 「急にどうしたんですか?」 ここにいる理由を問うと、孝弘はポケットから見覚えのあるパスケースを取り出した。 「これ、前に行った店に忘れてったろ。店の人が俺に連絡くれてさ」 「わざわざありがとうございます。それもこんな天気の日に」 「昼間だと大学でいないだろうなーと思って。夜は俺が仕事で遅くなっちゃうし」 流石は人気俳優といったところだろうか。 しかし、多忙を極める中なら余計に、一言連絡を入れてポストにでも投函した方が都合がいいのではないか。そんな疑問を口にしようか迷っていると、隣の部屋で鍵の開く音がした。ノワはパッと顔を向け、咄嗟に孝弘の手を取る。玄関先から有無を言わさず引き込んだ室内は、ドアが閉まると遠くで雨音がするだけの静まり返った空間になってしまった。 「こ、こんな所に孝弘さんがいるってバレたら不味いですよ。普段マスクとかしないんですか?」 数足の靴で満杯になるようなほぼ正方形の玄関。近すぎる距離にノワは交わった視線を逸らし、手を離しては一歩下がる。自分の生活圏に孝弘がいるというのは、なんとも不思議な光景だった。 「ごめんごめん。ノワといるとなんか昔に戻ったみたいで、そういうの忘れがちなんだよね」 微かに笑って言う孝弘にノワは返事が出来なかった。またそうやって思わせぶりなことを言う。どうせ自分のことは再従兄弟としか思っていないくせに、触れてもくれないのに、期待だけはさせるのだ。 百年の恋も覚めるなんて常套句(じょうとうく)がこの恋に通用するならば、どれほどよかっただろう。 「俺は昔に戻れないです。孝弘さんが変わってしまったから」 募った感情に任せて出た言葉は半ば攻めるような物言いになってしまって、孝弘がまたあの自嘲(じちょう)的な笑みを浮かべた。 「もしかして週刊誌でも読んじゃった?」 どう変わったか聞きもしないのに、悪い方の変化を示唆するのは大凡(おおよそ)の心当たりがある証拠なのか。ノワは手を強く握り、隠しもしないその奔放さを睨みつけた。 「俺、子供の頃から孝弘さんに懐いてましたよね?優しくて、カッコよくて、ずっと憧れてた…。それなのに、久しぶりに会ったらこんな絵に描いたようなどうしようもない男になってるなんて、陳腐(ちんぷ)な話すぎて笑い話にもならない」 「あははっ…!手厳しいなぁ」 「前に言ってた彼女も本命か怪しいですよね。どうせみんなに言ってるでしょ」 「相手だって同じだよ。どうせ俺以外にも遊び相手がいる。恋愛がしたいわけじゃないからどっちでもいいんだけど」 そう諦観したように言うわりに、細められた孝弘の目は寂しそうに見えた。一度蓋を開けてしまった感情はもう止められなくて、ノワは孝弘の胸ぐらを掴み引き寄せる。 「だったら俺でもいいんじゃないですか?」 毛先も触れそうな距離感で射抜いた目の奥に狼狽えを見た。ノワは自身の発言が孝弘の思考の範疇(はんちゅう)になかったことを理解して、嗚呼やはり自分は再従兄弟止まりなのだと切なくなる。 「恋愛がしたいわけじゃない性欲処理なら、手近な理解のある人間の方が都合がいいんじゃないですか?」 戯言(たわごと)のつもりだった。 それなのに孝弘があまり間に受けるから、なんて相手の所為(せい)にして。どうしようもない男と知りながら、嫌いになれない自分が何よりも滑稽(こっけい)だと嫌になる。突き離せないのならば一緒に堕ちる所まで堕ちてしまえばいいと思った。 「大人を揶揄(からか)うと痛い目を見るよ」 「揶揄ってません」 胸ぐらを掴む手に孝弘のそれが触れ、冷静に嗜められた。その仕草や発言は明らかな子供扱いで、ノワの神経を逆撫でる。 「男は抱けませんか?」 反射的に拒絶しないということはつまりそういうことなのだろう。窓の外は大雨で決して幻想的でない光景。乾き切らない洗濯物がカーテンレールに並び、微かに湿った匂いがする。アパートの六畳半、ワンルーム。日常と非日常の狭間で、ノワは孝弘から()れる香水にただ寂寥(せきりょう)を感じていた。
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