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定期券を翳す機械が置いてあるだけの、改札機も駅員もいない無人駅。入れ違うたった二本の線路の向こうには、紅葉した山々が見えた。そんな中に佇む孝弘にノワは強い違和感を覚える。
「孝弘さん、こういう田舎似合わないですね」
「それは馬鹿にしてる?」
「馬鹿にはしてないです。ただ事実として」
祖父母に会う為に再び訪れた片田舎は、東京よりずっと秋が色濃かった。畦道を挟み広がった水田には穂先が垂れ、木々を飾る柿の実り。孝弘とここで再会した夏、ノワは都合が合わず祖父母の元を訪れていなかった。
留学中に一度は顔を出そうと思っていた中、体調を崩した祖父が少しばかり入院するとのことで、再びこの地を踏んだ次第。孝弘が一緒に来るとは思っていなかったけれど。
「こんにちはー」
呼び鈴を鳴らしても反応がない家に向かって、ノワは挨拶を投げた。しかし、相変わらず返事はなく、小鳥の囀る長閑な陽気が漂うばかり。
「出かけてんのかな」
「ですかねー」
どうしようかと二人が立ち尽くしていれば、背後で砂利の擦れる音がした。振り返った先にいたのは、ノワの記憶より年を重ねた祖母の姿。孝弘にとっては大叔母にあたる女性だ。
「ノワくん?あらあら、随分と大きくなってー。相変わらず別嬪さんねぇ」
「あ、ありがとう」
「ひろくんはまた身長伸びたんじゃない?」
「流石にもう伸びてない…ってか、その呼び方やめない?俺もう三十路だよ?」
「何言ってるの。私からしたらミルク飲んでた時と大差ないわよ」
それは言い過ぎなのではないかと思ったが、笑い飛ばす様に二人は目を見合わせ苦笑した。祖父の容態を聞けば、畦道から落ちて骨折した時から体調を崩しがちだったのだとか。移動手段の限られた田舎なので、病院にいてくれた方が逆に安心だと祖母は言う。
祖父の着替えなどを預かり、一時間に数本しか出ていないバスで隣町の病院へ向かう最中、ノワは記憶よりやや発展した車窓を眺めた。
「こっちは結構変わりしたね」
「そら十年以上経ってるしな」
隣に座る孝弘はあっけらかんと言い切った。久方ぶりに会った祖父も祖母同様に年を重ね、ノワはなんだか自分だけ取り残されたような感覚に陥る。
「ノワくんえらいでっかくなったなぁ!この前までこんなんだったろ?」
「それは言い過ぎ言い過ぎ」
過剰に小さく見積もられた背丈を表す手に、ノワは苦笑混じりで否定した。どうやら祖父母にとって数年前の出来事は、ついこの間のことらしい。
「孝弘くんは相変わらず忙しそうだな」
「お陰様で」
「ちゃんと食ってるか?俺らのことあれこれ気にかけてくれるのはありがたいけど」
「いいよ、それぐらい。子供の頃からお世話になったし」
二人の会話に、今でも時々交流があることをぼんやりと感じた。現地に到着した時の孝弘の反応や、祖母と対面した際の会話にノワほど久しさを感じなかったのは、つまりそういうことなのだろう。他愛もない話題に花を咲かせ、そろそろお暇しようかなんて空気になった時、祖父は思い出したように孝弘へ目をやった。
「そう言えば、美也子には最近会ってるか?」
その名前に孝弘の体が強張る。そして徐に目を細め、首を横に振った。ノワは聞いてはいけない名前を聞いた気がした。
「俺、先に行ってますね。購買で飲み物買いたいですし」
自分がこの場にいては話し難いかもなんて、気を回したつもりで、本当はノワ自身がその場にいたくなかった。混雑した総合病院の待合室にいるのは落ち着かず、建物から出てすぐの自動販売機の横に置かれたベンチへ腰かける。
(俺の留学が終わったら、孝弘さんどうするんだろう…)
また元のように女性と関係を持つのだろうか。若しくは今もノワが知らないだけで、誰かしらと関係があるかもしれない。目を背け続けていた関係の期限に漸く気付き、ノワの襟足を秋の涼やかな風が抜けた。
「購買ってここだっけ?」
弾かれたように顔を向けると、いつの間にかそこにいた孝弘が口の端に笑いを滲ませる。どうやら気を使って出て行ったことには気付いていたらしい。
「なにがいい?」
自動販売機にお金を入れた孝弘が問うので、立ち上がったノワはボタンの前で指を彷徨わせる。
「あっ」
「なに?」
「いえ…。ソーダのボタンを押したはずなんですけど」
携帯電話で時刻を確認していた孝弘が顔を向け、その手中にあるペットボトルを見ては目を瞬かせた。それはソーダではなく、隣に並んでいる緑茶だった。
「押し間違えたんじゃない?」
「そんなわけないじゃないですか。きっと補充する業者の人が間違えて逆に入れたんですよ」
ノワの言い分に孝弘が隣のボタンを押し、ペットボトルの落ちる音がする。しかし、受け取り口から取り出したのは先程と同じパッケージで、二人は揃って吹き出した。
「あははっ…!やばっ、なんも合ってないじゃん」
腹を抱えた二人の笑い声が田舎の夕焼けに響く。こんなつまらないことで笑う孝弘の飾らない破顔を知る人間は、果たしてこの世に何人いるだろうか。畦道を歩く後ろ姿や、無人駅に佇む横顔に抱く違和感をノワだけが知っている。祖父母の家に帰宅して、田舎料理で申し訳ないと言う祖母の手料理が並んだ食卓にまた昔日を思い出した。孝弘が今も祖父母と交流がある理由の、子供の頃からお世話になったという言葉。そして祖父の口から出た、知らない女性の名前がノワの心に引っかかる。
「お風呂溜まったからどっちか入りなー」
夕食後に祖母から声をかけられ、ノワと孝弘は顔を見合わせた。
「孝弘さん先どうぞ。俺、テレビのこのコーナー見たいので」
「そう?ならお先に」
腰を上げた孝弘を見送り、椅子に座り直した祖母との間にバラエティ番組の談笑が流れる。ノワはちらりと祖母の様子を伺い、恐る恐る口を開いた。
「孝弘さんって今もたまに来たりするの?」
「んー?年に一回来たり来なかったり。お中元とかお歳暮は毎年送ってくれるけど」
「へぇ…。昔から親戚の集まりにも一人で来てたよね」
「そうねぇ。親は二人とも仕事で忙しかったろうし」
その物言いは他人行儀じみていて、なんとなく上辺くさかった。孝弘の両親が仕事で忙しいのは本当だろうし、祖母もそれは知っていただろうけれど、中学生が一人で親戚の集まりに参加する状況に思うところがある風だった。
「でも、孝弘くんがまさか今もノワくんにべったりなんてね」
「え…?」
それは初めて言われたことだった。幼少期のノワが孝弘に懐いていたことは自他ともに認めているが、その逆は身に覚えがない。
「あの子、ノワくんがいないと飼い主に捨てられた子犬みたいな顔するのよ。出先でノワくんが迷子になった時だって、どっちが迷子なのか分からない様子で」
色褪せない思い出でも語るような祖母の口振りを、ノワはただ黙って聞いていた。
間も無くして出て来た孝弘と入れ替わりで風呂へ入り、二組の布団が並んだ畳部屋に在りし日が脳裏を掠める。部屋が昔はもっと狭く感じたのは、兄弟や他の従兄弟も一緒だったからだろう。孝弘と同じ部屋で眠るのは初めてではないし、同じベッドで眠る以上の行為だってしたのに、何故だかこの空間は嫌に昔を彷彿とさせた。
「寝れない?」
暗闇の中、ぽつりと落とされたその囁きは耳に毒だった。閉じていた瞼をゆっくりと開き、ノワは抑えきれない鼓動に唇を結ぶ。偶然でしかないと言い聞かせながらも、孝弘にとってもあの夏の夜が刻印なのではないかと錯覚してしまう。
徐に開けられた布団に硬直して、静かに首を横に振った。静寂に刻まれたのは、冗談だとでも言いたげな孝弘の掠れた含み笑い。ここには鈴虫の音も手持ち花火の残り香もなかった。あの頃の無邪気な憧憬だって存在せず、どうしようもない欲望ばかりが蔓延る。
「したくなっちゃうから」
拒否した理由を述べれば、孝弘の表情から笑いが消えた。倫理観を問われようと今のノワには正常な判断が出来ない。これ以上、自分が知らない女性の名前を聞きたくなかった。一層のこと早く結婚してくれればいいとさえ思う。そうすれば自分につけ入る隙がないと諦められるのだ。
でないと留学期間が終わる時、ノワはきっとこの感情を置いていくことが出来ない。
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