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大叔父の見舞いに向かった日の夜、薄暗闇に浮かんだノワの表情が、孝弘の脳裏にこべりついて離れてはくれなかった。
しかし、一方で翌日のノワはと言うと、なんてことない態度をしていたのだから、悔しく思わなかったわけではない。東京に戻って来てからはまだ一度も会っていないけれど、このところ孝弘はどうも大人の仮面を被り損ねる。
「…さん、小坂さん!」
呼ばれた名前にハッとして、顔を上げた先にはこちらを見るスタッフがいた。
「小坂さんのシーンに移りますけど、大丈夫ですか?」
「大丈夫です。すぐ行きま……あっ」
椅子から立ち上がった途端、手が当たったらしく机上の物が床へと落ちる。慌てて散らばったそれらを拾いながら、孝弘は普段通りでない自分を薄々感じ始めていた。今回は小説が原作の連続ドラマで、主題歌を流行りのバンドグループが担当するという話題性もあり、注目度はなかなかに高い。
(やっぱり求められるのはこういう役だよな)
孝弘が演じる役は女性の扱いが上手く、飄々とした言動が目立った。それでいてどこか影を帯び、アングラで裏がありそうな、二十代半ば頃からハマり役だと言われてきた適所。しかし、カメラを回されてすぐ、得意としていたはずの役に違和感を抱いた。
(この台詞、こんな感じだったか…?)
それはまるで、噛み合わないパズルのピースを無理矢理に嵌め込む感覚だった。いつもなら演技を始めると視界の端から消えたカメラが、今日は目について仕方がない。
「小坂さん、もしかして方針変えました?」
止められたカメラの後に、そんな訝しむ監督の言葉が追い討ちをかける。結局は何度か取り直したが、別のシーンに移っても足のもつれるような演技は直らず、随分と撮影を押してしまった。
(やらかしたなぁー…)
休憩でスタジオを離れた孝弘は、廊下の末端にあるやや開けたフロアのソファに腰掛けた。今までも役に上手く乗れず、撮影を押してしまったことはある。それこそデビュー当初は何度もNGシーンを出した。何年も前に戻ったかのような状況から天を仰げば、ひょっこり顔を出した一人の女性に気が付く。
「木崎さん」
名前を呼ぶと、木崎は屈託のない笑みを浮かべた。孝弘が演じる役の姉で、年齢こそ変わらないけれど、芸歴で言えば先輩に当たる。
「お疲れ様」
「お疲れ様です。すみません、撮影押してしまって」
「やだぁ、たかひろくんがしおらしくなんてしないでよー。せっかくの顔が台無し」
大袈裟に嫌がって見せ、溌剌と笑う木崎に孝弘は体の強張りを解いた。その芯のある性格には飾らない華があり、決して埋もれることの出来ない才能だと思った。
「得意だったんじゃないの?こういう役」
「俺もそう思っていました」
「あら、自覚はあるのね」
くすくすと笑う木崎の言う通り、こういった役はハマり役だと孝弘も自負していた。しかし、現状は果たしてどうなのか。
「火遊びが足りないからじゃない?周りだとちょっと噂よ。あの女の影が途絶えない小坂たかひろの次なるお気に入りは誰かって」
マットなティントリップで染められた木崎の唇が囁き、孝弘はその様をただ感心した目で見ていた。木崎の魅力はさばけた性格とは裏腹な、重くのしかかる蠱惑的な雰囲気。孝弘はそこに今回の役と類似する点を感じていたが、目の前にすると少し違う気もしてきた。
「また私と遊んでみる?」
「勘弁してください。本気でもないのに」
「本気じゃないから相手にしたくせにおかしなこと言うのね」
そこを指摘されると孝弘は何も言えなかった。確かに孝弘は、本命彼女の座を狙うような女性を相手にしたことはなかった。お互い甘い嘘を吐きながら、軽く遊ぶ感覚しか受け付けず、そのうちの一人だったのがこの木崎。ノワと再会してからは誰とも関係を持っていないので、周囲は次の女性の影を探っているらしい。そんな不名誉な事態も、原因は過去の孝弘の行いでしかなかった。
その時ちょうど、携帯電話の液晶画面にノワからの返信が浮かび、以前関係があった女性と二人っきりな状況を咎められた気になった。これも孝弘の自業自得なのだけれど。
「たかひろくん、本命は大事すぎて手が出せないタイプでしょ」
「え…?」
「どうでもいい相手の扱いは上手いくせに、大好きなあの子の手は握ることすら出来ない」
しなやかに伸びた人差し指が携帯電話を指し、意味深に細まる目元が何物かを見透かす。
「図星?」
「図星、と言うか…。これはただの再従兄弟ですよ」
「えっ、たかひろくんの再従兄弟?見たい、見せて見せて!」
論点が逸れたことに安堵し、孝弘は携帯電話のアルバムを開いた。それはノワが家族へ送る用に一緒に撮ったもので、せっかくだからと孝弘にも送ってくれた。写真を見せた途端、面白がった木崎の反応は一転し、考え込むように口を閉ざす。
「この子、名前なんて言うの?」
「ノワです。垣原ノワ」
「ふーん…。どこかで見たことがある気がするんだけど、芸能活動とかしてる?」
「いえ、特には。テレビやネットをあまり見ないらしくて、芸能界の知識は殆どないぐらい」
そこまで説明しても、木崎は疑問を残したまま。休憩後の撮影もなんとか乗り切ったけれど、不完全燃焼な結果に孝弘は木崎と飲む話になった。
「ねぇーやっぱり例の再従兄弟くん、どこかで見たことあると思うのよねー」
お互い何杯目かの酒を過ごした頃、木崎がカウンターに頬杖を着き渋い顔をする。
「またその話ですか?」
「直接会ったら思い出すかも。ここに呼べないの?」
「そんな飼い犬やなんかじゃないんですから」
孝弘はそう呆れた口調で言ったものの、ノワのアルバイト先がこの辺りだったことを思い出した。今日が出勤日なのかも、シフトが何時までなのかも知らないが、近くで飲んでいるから来ないかと連絡を入れれば、存外早く既読が付いた。
暫くして店の引き戸が開き、店内を見渡すハーフアップ。カウンターに座る孝弘に気付いたノワは、パッと表情を明るくさせた。
「孝弘さ……」
「えー!かわいー!髪ふわふわのわんちゃんみたーい」
ノワの声に木崎のそれが重なり、丸く見開いた目が見知らぬ存在に疑問符を浮かべる。よく考えると、孝弘は自分以外の誰かがいることを伝えていなかった。だが、困惑した面持ちのノワが次に口を開いた時、今度は孝弘が戸惑いを見せる。
「もしかして、美也子さんですか?」
まさかノワがその名前を覚えているだなんて、孝弘は欠片も思っていなかった。恐らく、見舞いで訪ねた大叔父との会話から拾ったのだろうが、どうしてノワがその存在を気にかけるのだろう。
「残念、私は美也子さんじゃなくて木崎さん。にしても、本当に芸能関係は分からないのね。自分で言うのもなんだけど、そこそこ売れてる方よ」
「それは本当にそうです」
「いや、えっと…知ってますよ!あの、化粧品かなにかの広告、新宿駅で見たことあります。有名な方ですよね」
「わぁーざっくりした認識」
「すみません…」
「嘘嘘、怒ってないから。ほら、ここ座りな」
酔っ払いの相手をさせるのは申し訳ないと思いつつ、孝弘も木崎には頭が上がらない所があるので、少しばかり付き合ってほしい。店を出る頃には、ノワをどこかで見たことがある顔なんて発端をすっかり忘れ、存外弾んだ会話の余韻だけを残してお開きになった。
「木崎さん、素敵な人ですね」
木崎と別れ、二人っきりになった途端にノワが呟く。それがどことなく含みを感じるのは、孝弘の後ろめたさからだろうか。
「あの人とはもう何もないよ」
焦って要らない補足をしてしまい、直後に孝弘は後悔をする。ノワの反応が気になって恐る恐る顔を向けると、こちらを見上げる目と視線が合った。
「じゃあ、美也子さんは?」
そう問いかける声は心なしか小さく、語尾が震えて聞こえた。それこそ都会の雑踏に掻き消されてしまいそうな程。
「おじいちゃんが孝弘さんに、美也子さんと最近会ってるか聞いた時から、もしかして特別な関係があった人なんじゃないかって…」
こちらを見る目は、孝弘の脳裏から離れないそれと酷似していた。年相応な容姿にいじらしい発言。そんな中で飼われたコケティッシュは、薄暗闇の中で見ると余計に。
「すみません、忘れてください。面倒ですよね」
こんな場面にも関わらず、孝弘は昼間の撮影で演じた役を思い出した。彼は決して人を手玉に取り、掌で転がすだけの男ではない。どこか無垢で純情で、子供のように際限がなく、貪欲だ。奥底に生々しい欲をとごらせた人間臭さですら紙一重で芳香と化す。
パズルのピースが嵌まったかのような心地いい音に、ノワが言う美也子が恐らく自身の母親であると知りながら、孝弘はそれを明確にすることを躊躇した。
「特別か特別じゃないかで言えば、どうだろう…。いい思い出ばかりじゃないから何とも言えないかな」
狡い返答だと思った。大人として、人としてもあまりに姑息だ。そう分かっているはずなのに、欲に心を掻き毟られるながらも、健気に見張るノワの目に興奮して仕方がなかった。
「もう何年も会ってないし、よっぽどのことがない限りは会うつもりなんてないよ」
口先だけのようそうでないような、薄っぺらくも真実を含んだ言葉。こんなことを囁かれた相手は、騙されている可能性を頭の片隅に、きっと抗うことが出来ない。そして追い詰められたノワは、思惑通り孝弘の体温を求めた。玄関で靴を脱ぐ間も惜しみ、呼吸を奪うのだって余裕がない表れだった。
「っ、は…ぁ、んっ……孝弘さ、…」
「ん?」
「耳、塞ぐのやめてください」
「なんで」
キスの合間に胸元を突き放され、理由を問う孝弘にノワは瞬きを一つ。
「音が頭に響くから、なんか…恥ずかしいですし……」
言葉を詰まらせながらも、逸らさない視線が覗き込むようにした孝弘を射抜く。そんなことを言われて制御出来る人間がいるならば、目の前に連れて来いと心底思った。
(いいな、この目)
ギリギリまで張り詰めた琴線を思わせる危うさが、孝弘の背筋を震わせた。時折舌に触れる八重歯と頬を擽る癖毛。わんちゃんのようだと言った木崎の言葉を頭の片隅に、孝弘は以前から漠然と考えていたノワと酷似する犬種を、溺れゆく感覚の中で思い出した。
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