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「なんで髪伸ばしてんの?」 ベッドの縁に腰掛けたノワへ問うと、人差し指に絡めた毛先が振り返った反動ですり抜けた。ハーフアップに纏めたそれを孝弘が解く時、ノワの表情はどこか期待しているように見える。 「癖毛で短いと跳ねるからセットが大変で」 端的な返答にそうかと納得しつつも、その素っ気なさに昨晩の大人気ない言動が脳裏を掠めた。今更と言われれば否定も出来ないが、良心が痛まないというわけでもない。 「怒ってる?」 「なにがですか?」 後ろから抱き寄せ顔を覗き込むと、本当になんのことだと目が訴えていた。どうやら昨晩のあれやこれやを怒っているわけではなさそうで、孝弘は疑問符を浮かべた。この際だから、ノワが孝弘の恋人が何かだと勘違いしている母親の存在を明かしてしまおうか、そんなことを考えていると何やら悟ったらしい様子で苦笑をされた。 「怒らないですよ。だって俺たち、元々こういう関係じゃないですか」 読み違えた返答でありながら、当然といった言い方に孝弘は物寂しさを覚えた。 しかし、ノワの言うことは真っ当で、認識としては間違いない。ただ、孝弘が勝手に拗らせた感情を持ち込んでしまっているだけ。ノワは顔に似合わず随分と悪い男だ。無自覚に真綿の糸で首を絞める辺り、意図的な孝弘よりタチが悪いかもしれない。 「小坂さん、一段と詰めてきたなぁ」 「やっぱり前回は調子が悪かったんですね」 ドラマの撮影現場で、映像を確認する監督とスタッフの会話を小耳に、孝弘は漸く肩の力を抜いた。売れっ子と言われる地位を自負していながら、心の片隅では不安や緊張が若手の時とあまり変わらない。 「たかひろくん」 トイレから戻った矢先に名前を呼ばれ、パイプ椅子に座った木崎が隣を叩いているのを見た。どうやらそこに座れと言うことらしい。 「差し入れありがとう。スタッフさんも美味しいって言ってたけど、あれどこの?」 「あぁ、焼き菓子ですか。知り合いから教えてもらった店ので、どこのだったかな…」 「もしかして例のわんちゃん?」 にこやかに小首を傾げられ、孝弘は数秒ほど木崎を見つめた。そして彼女が指す人物を理解すると、呆れ気味に顔を顰める。 「木崎さん…」 「ごめんごめん。だってあの子、なんだか似てない?シベリアンハスキー」 鋭い指摘に孝弘は閉口した。これだからこの人は侮れないのだ。最近になって漸く辿り着いた答えにもう到達している。木崎と体の関係を止めたのだって、その心の内を覗かれているような洞察力が一因だった。同業者としては学びも尊敬もあるけれど、あまり近過ぎる関係は危ない。 「それでそのわんちゃんのことだけど、どこかで見たと思ったら子役やってたのね」 続けられた話題に、孝弘はその呼び名を指摘する余裕もなく思考を掻っ攫われた。 「たかひろくんが芸能界入りする前だったし、貴方のご両親とは界隈が違うから、親戚筋なのを知ってる関係者は少ないんじゃないかしら」 「ほ、本当ですか?その話」 「養成所の履歴に名前があったもの。確か二年ぐらい在籍してたわよ」 ノワがテレビやネットをあまり見ず、芸能関係に疎い理由はそれなのだろうか。自分が離れた世界を積極的に見たくないという心境は、決してありえない話ではない。しかし、孝弘と会うことにノワから嫌悪は感じられなくて、疎んでいる様子もなく、疑問が疑問を呼んだ。 (もしかして今までのが全部演技とか?) 根拠のない理由が思い浮かび、慌てて思考を振り払った。そんなことをしてノワにどんな利益があるのだろう。そう否定した直後、孝弘は自身のマンションでノワと野田が鉢合わせた時のことを思い出した。異性の影が途絶えない孝弘が女性といる場面を撮られた所で、今更大した火種にもならない。 だが、それが九つ年下の同性の再従兄弟だったらどうだろう。同じ男なら大抵のことは疑われないだろうが、ノワが孝弘との関係を公にするとしたら話は変わってくる。 (…って、流石に考え過ぎか) 数日考えた後、自宅でシャワーを浴びるノワを待ちながら、孝弘は少しでも疑ってしまった己を鼻先で笑った。あれだけ自分に懐いていた再従兄弟が、自身を週刊誌に売るなんてありえない。それこそ利益などないのだから。 (出演作とか宣材写真、ネットに残ってないのかなー……) 些細な好奇心から検索サイトにノワの名前を入れてみるが、いくら画面をスクロールしてもそれらしい見出しは出てこなかった。養成所に在籍していたのも二年とのことだから、あまり著名な作品には出演していないのかもしれない。 ベッドに寝転がる孝弘は睡魔から瞼を重くさせ、徐々に近付く足音にも気付けずにいた。鼻先を掠めた匂いに意識が漸く浮上して、吐息も感じそうな距離にノワの顔があった。その近さに飛び起きた孝弘の手から携帯電話が離れ、床に落ちると同時に鈍い音が響く。 「あっ…ノワ、待って!」 慌てて手を伸ばすが既に時は遅く、携帯電話の明かりがノワの顔を照らしていた。 「これ、誰から聞きました?」 問いかけるその声は恐ろしいほどに凪いでいた。本当のことを言おうかどうか迷う孝弘に、ノワは携帯電話をベッド脇のチェストへと据える。 「調べても出てこないと思いますよ。オーディションは全て落選して、エキストラを含めても出演作品は一つもありませんから」 隣に腰掛けたノワが伏目がちに呟き、孝弘は背筋が冷えるのを感じた。安易にその経歴を調べてしまった軽薄さが重くのしかかる。 「親の仕事関係者から声をかけてもらったんですけど、どの役でも雰囲気が独り歩きをするそうです。目や髪色をカラコンだったりウィッグで隠すにしても、そうまでして俺を起用するなら、それなりの利点がなければ割りに合わないですよね」 そんな理由を聞いて、ノワは雰囲気があると言った野田の言葉を思い出した。日本人顔にその目色と髪色はアンバランスで雰囲気がある。けれど、どこにでもいる子供を求められがちな子役としては、分が悪い容姿かもしれない。それこそ飛び抜けた演技力などがなければ、その容姿というだけで選考から外されるのも頷けた。 「でも今なら、子役じゃなくて俳優としてなら…」 「俺は俳優の小坂たかひろを背負えません」 思わず口にしてしまった提案は、皮肉を含んだ物言いで遮られてしまった。そしてまた一つノワを傷付けたことを悟る。孝弘が人気俳優という地位に立つ今、芸能界入りしたノワは周囲からその血縁を喧しく持ち出されるだろう。二世芸能人としての呼び名を疎む孝弘は、その煩わしさを誰よりも知っているはずだった。 「続けていたら、もしかしたら今が違ったのかもしれません。でも、オーディションに受かることばかり考えて、売れるとは何なのか分からなくなって、周りの目が怖くなって…それで、見失ってしまったんです。俺はもしかしたらに人生をかける勇気がなかった」 諦観した声色に孝弘は唇を噛む。否定も肯定も出来なかった。子役や俳優に限らず、スポーツ選手でもアーティストでも、志す膨大な分母の上に立てる人間は全体の何割だろう。夢を叶えられず、世間に名前も覚えられず、潰える数の方が当然多い。 そしてそれを不幸と呼ぶのか、人生をかけられない程度かと、自問自答を繰り返す。 「やめようか、こんな関係」 驚く程に自然と出た言葉はノワを瞠目させた。似ていないとばかり思っていた目の前の青年に、孝弘は昔の自分を投影した。己の境遇を諦観していたのは果たしてどっちなのか。ノワのことは、あの夏の夜の情景と同じぐらい大切で、本当はもっと早く手を放すべきだった。 「ノワがこんな大人に付き合う必要なんてない。いずれこうなるはずだったけど…」 俯きがきだった顔を上げると、例の目を逸らさないノワがいた。しかし、その目いつもと少し異なり、水面に涙を湛えていた。孝弘は咄嗟に動揺を顔に出してしまい、慌てて表情を繕う。焦りを悟られてはノワの思うツボだ。 「泣けば絆されると思って……」 「思ってるけどなにか?!」 その声は思いの外大きく、孝弘は息を止めるように口を閉ざした。 「俺がどれだけ狡い人間か、孝弘さんは全く分かってない!泣いて孝弘さんが絆されるなら安いもんだし、どうにかなればいいと思ってる…!!」 一番泣かせたくなかった相手をそうさせているのは、年下を散々弄んだツケだろうか。強く握られた拳の下でシーツが皺を寄せ、思わず伸ばした手は弾かれてしまった。 「俺がどれだけ好きかも知らないくせに」 言葉をなぞる声は微かに震えていた。ノワはそのままベッドを降りると、逃げるように部屋を飛び出した。取り残された孝弘はノワがいた場所を呆然と見つめ、間も無くして深い溜息を吐く。いつかノワの方から手綱を放してくれると決断を委ねて、こんな所まで来てしまった。有邪気な大人は、きっともうあの夏の夜に戻ることが出来ない。
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