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「小坂さん、大丈夫ですか?」 そんな野田の言葉に顔を上げると、バックミラー越しに目が合った。孝弘は膝の上で開いていた台本を閉じ、短く息を吸う。 「大丈夫ですよ。今日の撮影も良かったでしょう?」 「それはそうですけど…」 口籠る野田の言いたいことは分かる。けれど、大丈夫でないと口にした途端、息を吐いたその瞬間、足が止まって何もかもが駄目になる気がした。現状に胡座をかいた末に周囲から追い抜かれるなどこの業界では日常茶飯事で、一度足を踏み外せば面白いほど容易く堕ちていく。 「側から見て順調ではありますけど、前に自宅で倒れていた時と同じと言いますか…。スケジュールなら調整しますので、どこかでオフの日を作りましょう」 野田の声には心配が滲み出ていて、本当に出来たマネージャーだと思った。 しかし、今の孝弘は自由時間を与えられた所で何をしたらいいのか分からない。広さばかりある自宅のベッドに一人が怖くて、最近はソファで寝てばかりだった。冴えた目を映画や酒で誤魔化す眠れない夜、隣に擦り寄ってくる温い癖毛だってもういないのに。 「野田さんって確か家に犬いましたよね?」 「え?あ、はい。よく覚えてますね」 野田に視線を向けたまま問うと、少しだけ不思議そうにされた。それもそうだ。孝弘が野田の飼い犬の話を持ち出したのなんて初めてに等しい。 「動物と暮らしてると、やっぱり癒し効果とか感じるんですか?そういうのなんて言うんでしたっけ。心理カウンセラーみたいな」 「動物セラピーのことですか?」 「それです。犬カフェとか行ったら癒されるんですかね。てか、猫カフェは猫が専属でいるのに、犬カフェは自分の所の犬と一緒に行く店が多くありません?あれややこしくないですか?なんなんですかね」 「言いたいことは分かりますけど、僕に問われても……と言うか、小坂さん本当に大丈夫ですか?かつてない程よく分からない会話してますよ」 怪訝そうにする野田を見て、確かにそうだと孝弘は車窓へ視線を戻した。自分から距離を置いたくせに今更心許ないだなんて、到底口に出来るものではない。 「猫カフェでも犬カフェでも行きたいならいいと思いますよ。女性と遊ばれるより安心ですし」 冗談めいた野田の声に目を瞬かせ、孝弘は思わず微笑した。ノワとの関係を終えたにも関わらず、今までのように異性と関係を持つ発想がなかった。 埋まらない穴を実感しては、ほらやっぱりなんて。クリスマスムードに染められた街並みを眺めながら、想定内な現状に自嘲した孝弘は、目的地の事務所の前で一足先に下ろしてもらった。建物へ入り、何やらいつもと違う空気感を感じる。 「あっ、小坂さんお疲れ様です」 鉢合わせたスタッフもどこか様子が違って見えた。簡単に説明するなら、何か隠し事があるような雰囲気。 「お疲れ様です。何かありました?」 「いえ、あの…」 トラブルでも発生したかと疑問を投げた直後、フロアの奥から顔を出した人物に孝弘は瞠目する。その二人とはもう何年も会っておらず、自ら進んで会うつもりもなかった。子供の頃の記憶でさえ、この両親とまともに過ごした期間は如何程だろう。 「久し振り」 「そうですね」 端的な挨拶に同じく端的な相槌が続いた。孝弘と事務所の異なる両親は仕事の拠点を海外に置くようになり、離婚したくせに今もこうして一緒にいるという理解が出来ない関係性。孝弘と両親の関係が思わしくないことなど事務所の人間のみならず、業界関係者や視聴者ですら知るものは多い。たまたま居合わせ雑談していたらしい木崎が横目に移り、居心地の悪そうな表情が見て取れた。 「そんな警戒しなくても来週には帰るわよ」 「別に警戒しているわけではないですけど、うちの事務所に顔を出すなんて珍しいなと思っただけです」 他人行儀じみた会話を繋ぎ、可笑しな光景だと思った。間違いなく血は繋がっているはずなのに、その容姿を除けば血縁を信じることが出来ない。高校生の辺りからまともに会話した記憶がなく、今更どう接したらいいのか孝弘は分からずにいた。 「そう言えばさっきスタッフから聞いたんだけど、孝弘に珍しくお気に入りの子がいるって話」 父親の発言になんの話だと眉を寄せ、しかしすぐに脳裏を一人の人物が掠めた。 「撮影現場も見学させたってんだって?一体どこの事務所の…」 「あいつに関わるのだけはやめろよ!」 その声は怒号にも聞こえ、孝弘は静まり返った場に苦々しく顔を顰める。自分がどんな気持ちで手放したかも知らずに、軽々しく詮索する言葉が孝弘を苛立たせた。 昔から関心なんてこれっぽっちも寄せなかったのに、今になってなんだと呆れか怒りかも判別がつかない感情が渦巻く。 「もう…過ぎた相手のことですから、関わらないでください」 孝弘は俯きがちに言い置き、早足で廊下を進んだ。改めて口にすると、過ぎた相手に出来てもいない中途半端な自分に泣きたくなった。車を駐車場に止めた後に来た野田は一部始終を見て何か言いたげだったが、淡々と仕事の伝達だけを行い詮索はしてこなかった。 一日のスケジュールを終える頃には擦り減った神経で表情さえ取り繕うことが出来ず、建物の外で出待ちしていた木崎に無表情を晒してしまった。にこやかに手を振る彼女に対して、良くも悪くも何も感情が生まれない。 「ここの焼き鳥すっごい美味しいの。あっ、一杯目何飲む?やっぱりハイボールって言いたい所だけど、梅酒も捨てがたいなー」 「木崎さん、テンション高いですね」 向かいの席でメニューを開き、日中の出来事など諸共しない口調で話す木崎。誘われるがまま飲みに来たが、孝弘は今の状態で酒に手を出すとヤケ酒になる予感しかなかった。 「テンション合わせてほしいなら下げるけど?」 「やっぱりそのままでお願いします」 それはそれで場が重くなる気がして、無理にでも明るくしてもらうことにした。そうでもしなければきっと孝弘はどんどん沈んでいく。 「たかひろくんが怒ってるのら初めて見たわ」 口角を上げた木崎の物言いは悪戯だった。これは完全に面白がっている。しかし、すぐに表情を落ち着かせ、机上に据えたグラスの側面に微かに爪を立てた。 「ごめんなさい。再従兄弟のこと勝手に詮索しちゃって」 「木崎さんの所為じゃないですよ。元はと言えば俺が…」 本当にどこから間違えてしまったのか。片田舎の墓地で偶然再会した時から、きっと何かがおかしかったのだ。 「まだこっち業界に未練があるんじゃないかって勝手に思っていたんですけど、自分は小坂たかひろを背負えないと言われました」 「そうね、私だって避けれるものなら避けたいわ。デビュー前なんて特に荷が重いもの」 「俺はノワにこの業界に入ってほしいわけではありません。本人も戻る気がないなら、せめて見たくないものから遠ざけてあげられないかと」 「それで突き放したの?」 「最初からこうするべきだったんですよ。俺と親戚筋なのが知れたら悪目立ちする可能性だってありますし」 そうなってしまう前に距離を置くことが出来てよかったのかもしれない。孝弘は半ば確信に近い気持ちで酒のグラスを傾けた。しかし、木崎は全てを飲み込みきれない面持ちで暫しの沈黙を繋ぐ。 「一回話した程度の人間が言うのもなんだけど、あのわんちゃん、そんなに柔なタイプかしら」 「え?」 咄嗟に疑問の声が出た。今の話を聞いて何故そんな結論に至るのか、孝弘は木崎の目をじっと見つめる。 「たかひろくんが今立ってるそこ、実はあの子のテリトリーだったりして」 言っている意味が分からなかった。孝弘にとってノワはいつまでもあの頃のままで、守りたい対象という位置関係を疑うことはない。 「わんちゃんに愛想尽かされたら慰めてあげる」 冗談なようで、そうでないような。憎たらしくも木崎のそれは性別問わず人の目を惹く。だが、そんな一足一動を感心するだけになってしまったのは、孝弘がノワを知りすぎてしまったからだろうか。 「愛想を尽かされるも何も、ノワにはもう会いませんよ」 「頑固」 「何とでも」 すかさず入れられた指摘を突き返し、孝弘は蟠りに目を瞑って酒を煽った。今はまだ気持ちの整理がついていないだけで、きっと暫くすれば元通りだと高を括っていた。別れたなんてのは大袈裟な表現で、ノワと再開した夏の前に戻っただけの単純なこと。そこに誤算があるとすれば、こんな寒い時期に手を離してしまったことだ。
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