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図らずも久しく対面した両親が帰国したことを、孝弘は人伝に聞いた。改めて話したいこともないのでそれはいいのだけれど、安易に掘り返された傷が今も尚ささくれている。そんな中でネットニュースに自分の名前を見つけたのは、まだ目もしっかり開かない寝起きのことだった。 「久々に撮られましたね」 立ち寄った事務所の一室で野田が広げたのは、著名な芸能雑誌。そこには木崎と並ぶ孝弘が写っていて、今朝ネットニュースで見たのと同じ熱愛報道を仄めかす記事が掲載されていた。 「ホテルに入る所でもなければ、相手が交友の広い木崎さんですし…。以前に交際の噂が立っていることもあってか、ネットでの反応は特に心配はなさそうです」 慣れていると捉えるべきか、見解を話す野田は至って落ち着いていた。恐らくこの写真が撮られたのは、孝弘が両親と事務所で鉢合わせた時の夜。無論、木崎とは食事をしただけであるし、野田の言う通り世間も今更こんな小さなネタには飛び付かない。 しかし、ノワがこれを知ったらどうだろう。自分と別れた直後、早々に次の女性に手を出したと思われやしないか。 「記事自体も小さいので仕事に影響はないと思いますが、一応お伝えだけはしておきます」 「はい。すみませんでした」 「あれ、気にされてます?」 意外そうな野田の反応に、孝弘は何とも言えなかった。今回の記事がボヤにもならないのは今までの行いが故で、良いのか悪いのか判断しかねる所ではある。それに何より、ノワがこの記事を知っているかどうか、どう捉えたかが気になった。 「食事ぐらい好きに行ったらいいじゃないですか。今回に関しては木崎さんですし。異性と二人でなんて数え始めたらキリがないですよ」 「それはそうですけど…」 「あっ、もしかして垣原くん?引かれないかの心配ですか?」 歯切れの悪い孝弘に漸く心中を察したらしい。正直、察してほしくはなかった。マネージャー相手に格好をつけたいわけではないが、小さい器だと思われたくない。 「それこそ今更では」 「やめてください」 容赦のない指摘に思わずストップをかけた。これ以上はささくれ程度ではなく、本格的に傷を負う気がした。 「まぁ、垣原くんのおかげで小坂さんのプライベートが浄化されていたと言えますし、彼にはずっと日本にいてほしかったです。確か今日辺りでしたよね?」 突然繋がれた話に孝弘は数秒ほど間を空け、小首を傾げた。今の情報で浮かぶ心当たりが一つもない。しかし、野田も同様に怪訝そうな面持ちをし、なんともおかしな空間になってしまった。 「先週だったかに挨拶に来てくれて、留学期間が終わるので帰国すると聞きましたが」 どうやら人間は、本当に驚くと咄嗟に声が出ないらしい。一年間いるものだとばかり思っていた孝弘にとっては、あまりに突然の出来事だった。呆然と立ち尽くし、足が地に着いていないような浮遊感を覚える。 「こ、小坂さん?」 野田の手が触れ、肩を跳ねさせた孝弘は呼吸が浅くなっていたことに気が付いた。いつかノワの留学期間が終わることも、自分は愛想を尽かされることも、捨てられることも、全て知っていた。分かりきっているはずだった。なのに、実際そんな現実に直面すればそれらが知ったかぶりだったことを自覚する。いつかなんて期間から目を逸らし続け、分かったふりをしているにすぎなかった。 「時差、確か七時間ぐらいでしたっけ」 動けない孝弘の隣で、腕時計に目をやった野田がぽつりと呟く。 「向こうには正午頃に着きたいと言っていたので、もしかしたら……」 「すみません!あとお願いします!!」 野田の言葉を遮ったのは、孝弘の声と駆け出す足音。仕事を放り出して、後始末を野田に押し付け、どれほどの人間に迷惑がかかるか。しかし、この機会だけは今の立場を天秤にかけても、手放してはいけない気がした。フランスへの直行便は二つの空港から出ているが、距離からして恐らく羽田空港だろう。孝弘はすぐそこの通りでタクシーを拾うと羽田空港まで急がせた。 だが、駆け込んだ空港のロビーで途端に迷う。息を整えながら辺りを見渡した所で、搭乗時間も、ゲートも、ノワの実家がどこにあるのかも分からない。調べようもない。それに、今になって何と言い繕えばいいのか。 (あんな突き放し方しておいて…) 多くの人々が行き交う景色は、まるで磨りガラスでも挟んだみたくぼやけて見えた。結局は甘えていたのだ。子犬のような毛並みがシーツに散り、襟足を抱く瞬間が堪らなく好きだった。肉親の体温すら覚えていない孝弘は、その無償の温もりに何年も縋っていた。あの夏の夜に眠れなかったのは、手を握ってほしいと願ったのは、果たしてどちらだったのだろう。もう何もかも遅い事態に自身の愚かさを噛み締め、せめて遠くから見送りぐらいはと近くのエレベーターに足を向けた。 (電話したら出てくれたりしないかな) ポケットに入れた携帯電話を取り出すが、通話ボタンをタップする勇気がない。ここまで来ておいて、鉢合わせたらどうしようなんて全く思っていないということもなかった。 飛行場を見渡せるデッキへと出た孝弘は、夜景と滑走路を眼前に白い息を洩らした。凍てつく風に吹かれ、閑散としたデッキの端にあるベンチへ腰掛ける。 ノワが乗っているのは滑走路に着陸しているあの飛行機か、それとも今は上空にあるあの飛行機か。こんなことをしても虚しくなるだけだと思いつつ、どうしてもやめられない。まるで優しい麻薬だ。物思いに耽る孝弘はその足が視界の端で止まるまで、キャリーケースを引く音も気に留めていなかった。ふと顔を向け、そこに佇むブルーグレイの目を見上げる。 「またそんな顔を隠しもしないで」 濃いブロンドの癖毛が、薄暗闇にぼんやりと明るく浮かんで見えた。ノワはキャリーケースに引っ掛けていた傘を取ると、雪の降り始めた空間に差す。 「孝弘さんに似た人がいるってちょっと騒ぎになってましたよ」 片耳に口を寄せ、小声で囁く声は紛れもなくノワのものだった。そう実感すると同時に手を掴み、孝弘は見張った目から涙が溢れそうになるのを感じた。 「ごめん」 二人きりの傘に短い謝罪が反響する。罪を並べるには時間が足りず、その三文字は大袈裟な表現ではなく今までのこと大体全て。今もまだ、ノワに慕われる程の人間である自信はないけれど、人から向けられた好意を受け止めたいと思う。 「孝弘さん、この世の誰もが完璧な人間を好きになると思ってますか?」 それは酷く難解で、不可解な問いかけだった。正解を出す以前に完璧の基準が分からない。ただ一つ言えるのは、孝弘自身が完璧な人間でないということ。 人間としての弱さも、恥も、汚さも持ち合わせた堕落の地に立っている。ノワはそれらから決して目を逸らすことをしなかった。繋いだ手が微かに震え、孝弘は白い息と共に苦笑を洩らす。 「完敗だよ、負けた」 孝弘はとうとう白旗を掲げ、降参を認めた。先程、側に立ったノワに気付いた時、その表情を見上げて木崎の言葉を思い出した。孝弘が立つここはノワのテリトリーで、彼は守られるだけの柔な人間ではない。どこからが仕組まれた罠で、質の悪い涙で、甘い毒か。降参した孝弘に季節外れの夏の魔物が舌を出す。 「夏にまた来ます」 「うん」 指先のすり抜けた手に傘の柄が残され、暫くして滑走路を離陸した飛行機をただ見上げていた。こんなことを言ったら怒られるかもしれないけれど、ノワはやはり役者なのだと孝弘は思った。自分以外の誰かになれないだけで、テリトリーという舞台で筋書き通りの自分を魅せる。きっと本人は無自覚だろうが、そこも含めて才能かもしれない。もし小坂たかひろの名前が海の向こうまで届いたならば、ノワは否が応でも自分を思い出してくれるのだろうか。後日のテレビ通話で孝弘がそんなことを言えば、可笑しそうに笑われた。 「孝弘さんが有名になるのは嬉しいですけど、外を歩き難くなるので複雑ですね」 「やめて、そういう可愛いこと言うの。日本とフランスがどれだけ離れてるか分かってる?」 「半日はかかります」 「やば、遠すぎ…。もう大学も日本に転校して、こっちに住んでくれよ。金なら俺が出すから」 「無茶言わないでください」 そうノワは笑うが、国内で他県とはまた違う遠距離感が煩わしくて仕方がない。彼を攫って自宅に軟禁が出来れば孝弘の欲は容易く満たされるものの、当然そんなわけにもいかない現実。 「そう言えば前に謝りそびれたけど、ノワが言ってた美也子さんがどうのって話」 「あぁ、孝弘さんのお母さんですか?」 すっかり過去のものとなりつつあった話を掘り返すと、予想外にもノワはあっさりと事実を口にした。曰く、孝弘のファンである友達から聞いたのだとか。 「孝弘さん、人のこと嫉妬させて楽しかったですか?」 その物言いは明らかに怒っていて、孝弘は唇を引き結んだ。楽しかったとは口が裂けても言えないが、申し訳ないことにノワの嫉妬は孝弘の大好物であったりする。 「ごめん」 沈黙や謝罪は認めることと同等だと知りながら、遠回しな肯定をしてしまった。しかし、それで許す方もどうなのか。こんな大人を好きになるだなんて、ノワは世の中の所謂駄目男に弱いタイプかもしれない。 「自分で言うのもなんだけど、その男の趣味どうにかならなかったわけ?俺よりマシなのその辺にいるだろ」 「失礼ですね。俺が誰でもいいと思ってるとでも?」 「そういうわけじゃないけどさ…」 「まぁ、散々女遊びをして、九個年下の再従兄弟にまで手を出した挙句に自分の方が溺れて、最後の最後で選ばれた側という現状に興奮してることだけはお伝えしておきます」 淀みなく言葉を並べた後、恍惚と細まった目に孝弘は豆鉄砲を食らった。幼少期の無邪気さはどこに置いて来たのだと思う反面、そんな所にこそ惹かれている自分にせせら笑う。 「どうしようもないな」 「お互い様です」 にこりと微笑むノワの表情に当てられ、孝弘は小さく息を吐いた。これも惚れてしまった代償だ。過剰摂取は危険だと知りながら、双方は優しい麻薬に身を溺れさせて行く。
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