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15
快晴の空を飛行機が横切った。
真っ青なキャンバスに尾を引く飛行機雲は、長く見ていられない程に白く眩しい。約束の時間より早く待ち合わせ場所に着いた孝弘は、屋内展望フロアで飛行機を数えていた。今回は待ち人に再三釘を刺されたので、真夏にも関わらずマスクと帽子を着用している。腕時計で何度目かの時間の確認をし、もうそろそろかと落ち着きなく思考を巡らせていると、少しばかり離れた位置から注がれる視線に気がついた。
孝弘はカウンターに着いた頬杖を解き、数メートル先の再従兄弟に思わず腕を広げる。
「なんですか?」
「おい、そこは駆け寄って来いよ」
伝わらないジェスチャーと意思のすれ違い。再会のムードは見事に崩れ、ノワは普段通りの足取りで孝弘の元まで来た。
「会って駆け寄るとか、飼い犬じゃないんですから」
そう呆れて笑うノワに、彼をわんちゃんと呼び続ける女性が脳裏を掠めた。孝弘が何度訂正しても直らないので、最近に至っては諦めている。
「飯って食べた?」
「機内食で済ませました。それより時差ボケで眠くて」
「ならうちで軽く寝る?俺も今日は一日オフだから、起きたら適当に食べに行こうか」
本当は今すぐ抱きしめたかったけれど、半年ぶりの対面に多少の遠慮があった。それでも、向かった孝弘の自宅で眠る安心し切った姿に、自制心は面白い程に容易く崩れる。背後から伸ばした腕でその体を抱き寄せると、身じろいだノワが顔を振り向かせた。
「ひろくん…?」
「んー?」
幼少期に使われていた懐かしいその呼び名。
抱いた襟足に鼻先を埋めれば、ノワが擽ったいとでも言いたげにむずがり微笑を刻む。そして交わった視線に誘われ、どちらからともなくキスをした。
「まだお昼なんですけど」
手の甲に触れ示唆した悪戯な声は、躊躇する言葉の意味とは裏腹にどこまでも耳に甘い。しかし、締め切ったカーテンで部屋が薄暗いだけで、隙間から注ぐ日差しはノワの言う通り夏の昼間そのもの。
「嫌ならやめる」
それは少なからず本音だった。寝ているところを起こして説得力がないかもしれないが、ノワが乗り気でないなら今ここで手を出すつもりはない。けれど、口の端に微笑を浮かべたノワは、眉尻を僅かに垂れさせた。
「意地悪」
恍惚とした目色で随分と矛盾したことを言う。孝弘は解いたノワの髪を梳き、深く溺れる感覚を思い出した。
まるで炎天下でネクターを飲むような喉の渇き。そして陽炎の中に佇んでいると錯覚する息苦しさ。自分が溺れていることを知りながら、引き返すことの出来ない光景に孝弘は喉を鳴らす。結局、起きたら適当に食事に行こうなんて話は、事後には外出が億劫になっていたことから流れてしまった。
「この状況、本能に忠実すぎますね」
コーヒーカップを片手にキッチンに立つ孝弘は、横でサンドイッチを頬張るノワの言葉に硬直した。それは晩酌の肴として冷蔵庫にあった、チーズやスモークサーモンを適当に挟んだ即席の物。確かに二人がしたことと言えば、寝て、ヤッて、食べての三大欲求を満たす行為全て。
「途中からわりと記憶ないです」
「俺も何回ヤッたか覚えてない」
発展性のない会話に思わず乾いた笑いが溢れる。マグカップをシンクに置いた孝弘はあることを思い出し、ダイニングテーブルに準備していたそれをカウンター越しに差し出した。
「うちのカードキー。昼間殆どいないけど適当に居てくれていいから」
ノワが在日するのは二週間程度と聞いていた。流石にその期間の全てのスケジュール調整は難しく、夜遅くまでいない日もあるので、在日中はここに泊まってくれればいいと思っていた。しかし、そんな孝弘の思考とは対照的に、ノワは緩く首を横に振る。
「孝弘さんがいる時しか来ないので大丈夫です。ホテル取ってますし」
「えっ…は?何で?」
「何でって何ですか?」
「うちにいたらいいじゃん」
「でも…。そうしたら、孝弘さんとほぼ毎日顔合わせるってことですよね?」
何やら都合が悪そうな物言いに、孝弘は多大な衝撃と少しばかりの傷を負った。これはもしかして、付き合っていると思っているのは孝弘だけで、ノワはまだセフレぐらいにしか思っていないパターンか。そう迷走する傍で携帯電話のアラームが鳴り、引き戻された現実に慌てて音を止める。そろそろ家を出る準備をしなくてはならないのだが、孝弘の心情は全くもってそれどころではない。
「持ってても損はないんだから取り敢えず持っとけって」
強引にカードキーを押し付けると、ノワはまだ少し要領を得ない顔で手中に収めた。
もっと喜んでくれると思っていただけに、孝弘はこの空気の流れに不安を募らせる。信じていないわけではないけれど、一緒にいられる時間が少ないことも合間って、ほつれを引っ張られたように口を開いてしまった。
「あのさ、俺ってまだノワのセフレか何かなわけ?」
「は?」
「いや…ごめん、やっぱり何でもない」
つい零したそれは、あまりに稚拙で格好が悪い。撮影現場のスタジオで顔を合わせた野田には、気落ちした感情が伝わってしまったらしく、如何にも面倒そうな顔をされてしまった。
「垣原くんが日本に来てるんじゃなかったですか?」
明らかに普段と違う孝弘の様子に、野田が痺れを切らした口ぶりで聞いてくる。
「そうですよ」
「ならどうして…。一昨日まで機嫌良かったじゃないですか。あっ、まさか喧嘩したとか……って、流石にそれはないですよねー!」
冗談口調で笑う野田の声が部屋に響き、徐々にミュートする。肯定も否定もせず、目を合わせようともしない孝弘に野田の笑いは数秒後に途絶えた。
「昨日の今日で?」
途端に現実めいた声色で問われ、思わず口を固く結ぶ。そんなことは言われなくとも孝弘自身が一番分かっていた。
「何があったか聞いた方がいいですか?」
「そこは言われなくても聞いてください。まるで聞きたくないみたいな」
「まるでもなにも聞きたくないです」
「どうして?」
「いや、だって…失礼を承知で言いますけど、垣原くん関連の小坂さんってなんというか、結構アレですし」
結構アレとは、なにがどれなのか。
失礼を前提で言っている辺り、それなりな認識を持たれていることだけは分かる。孝弘は机上へと項垂れ、野田から視線を逸らした。話を聞いてほしくはあるが、内容がくだらないと言われる気がしてならない。
「昨日、ノワを空港まで迎えに行ったんですよ」
「あぁ、行くって仰ってましたね」
「夜は適当に食べに行こうかって話をして」
「はい」
「俺はてっきりうちに泊まるものだと思ってて」
「ん?あっ、はい」
「そしたらホテル取ってるとか言い始めたんですよ。俺ん家に泊まればいいだろ、そんなの!二週間ぐらいさぁ!!」
「小坂さん、面倒くさいです」
「はぁ?!」
「そんな束縛彼氏みたいなこと言ってると今に嫌われますよ」
徐々にヒートアップした不満の末、孝弘が見たのは冷め切った野田の目だった。完全に呆れている時のそれだ。
「そろそろ再従兄弟離れしたらどうですか?」
悟すような物言いに孝弘は閉口する。
正直な話をすれば、一番言われたくなかったことかもしれない。恋人関係であることを加味しても、少し構いすぎかもしれないと薄々分かってはいた。
(でも、首輪を付けるわけにもいかないし…)
そんなことを考えている時点で改善する気はないのかもしれない。仕事を終え帰宅しても、誰もいないであろう部屋を想像して思わず溜息が出る。こんなことなら今朝の発言は飲み込んでおけばよかったなんて、手遅れなことを思いながらドアを開けると、見慣れないスニーカーが玄関に鎮座していた。孝弘の物でなければ持ち主は一人しかいない。
恐る恐る向かったリビングには、いつからいたのか間接照明だけの薄暗闇で膝を抱えるノワがいた。ソファに座る彼の手には、今朝渡したスペアのカードキーが握られていて、不貞腐れた目に孝弘は射抜かれる。
「ごめん。久々に会ってする会話じゃなかった」
別段、孝弘は謝罪することに不満があるわけではない。野田から言われた、再従兄弟離れすべきというのも客観的な意見として正しいと分かっていた。しかし、ただでさえ仕事で頻繁に会えないこの二週間、少しでも長く一緒に過ごしたいと考えていたのが自分だけのようで、それを虚しく思ってしまったのだ。
「俺、ここに泊まるのが嫌でああ言ったわけじゃありませんから」
その言葉で思い出したのは、この自宅に泊まり頻繁に顔合わせることを都合が悪そうにした、今朝のノワの表情。その時は衝撃ばかりで、理由を問う余裕が孝弘にはなかった。
「孝弘さんが仕事で忙しいのは知ってるんです。でも、直接会うのなんて半年ぶりで、孝弘さんを前に何もしないとか無理だと思うし、現に昨日だって我慢出来てなかったから…」
核心を濁す言い回しに少しばかり考え、理解すると同時に孝弘はどうしようもない愛おしさに苛まれた。そのままノワの隣に腰を下ろすと、膝を抱える体に身を預ける。ちょうど頭一つ分程の背丈の差で、孝弘の頬をノワの毛先が擽った。
「したくなるのでやめてください」
「したくなったら駄目なんだ?」
むくれた声に微笑混じりで聞き返し、抗えないと思ったのは恐らく同時。発端は何にしろ孝弘は今の仕事が存外好きで、それなのに初めてその職業を、その地位を煩わしいと心の片隅で感じてしまった。自分が顔の知れていない仕事をしていたら、今より多少はノワと一緒に居やすかったのだろうかと。どちらも手放せないくせをして、ついそんな欲張りなことを考えてしまう。
「孝弘さん、今更ですけどベッドでしません?」
散々キスをして、どこもかしこにも触れ、挿入した直後の提案。予想外なそれに孝弘は微笑を洩らした。
「本当に今更だな」
「そ、そうですけど…。でも、こんな所でしたらソファ汚れますし」
「汚してもいいよ」
「俺がよくないですから!」
挿入されたまま動かない現状に我慢ならない顔で、随分と矛盾したことを言う。それでもやはり頑なな意思を見せるノワに気付いていながら、孝弘は制止を求める声に聞こえないふりをした。
「ん、あ…っ、はぁ……孝弘さん、待っ…!ほんと、汚すって!」
必死に言葉を繋ぐノワを見下ろし、可愛いなぁなんて呑気ことを思う。昨日も行為に及んだというのに、生々しい光景に呆気なく呑まれ、射精直後の倦怠感に気を取られた。孝弘は自身の肩を押し返したノワを見上げては疑問符を浮かべる。
「もう一回、駄目ですか?」
白濁の滴る後孔を先端が滑り、そういえばゴムをつけ忘れたと今になって気が付いた。
過去に関係を持った相手とは一度だってそんなことはないし、そもそもソファでしたことがないのに、この恋人を前にするとどうも性急になる節がある。ノワは孝弘の返事を待っていられないらしく、腹部に手を着くと躊躇いなく腰を下ろした。
「あ"、ぁ…!」
上擦った嬌声に濁音が混じり、腰を揺らす度にノワの屹立から白濁が溢れる。
「ん、あ…っ、はぁ……んっ」
「気持ちいい?」
「んっ、いい…ぁ、あっ…!ん、ぅ…あ"っ…!」
最奥をこじ開けるように押し付けてやれば、瞠目するのに呼応して中が狭まった。それでも孝弘に止めてやるつもりなど毛頭なくて、過呼吸寸前まで早まった息を奪い、瞑られたノワの目尻に涙が滲む。
猛暑と呼ばれる日本の今夏。どうやら夏の魔物も凶暴らしく、差し出した砂糖菓子に小さな牙が立てられた。
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