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霞む視界に映したその部屋は、寝起きのノワの思考回路では知らない部屋同然だった。ベッドに寝転んだまま考え、昨日は孝弘と会わなかったのだと漸く思い出す。日本に来て一週間経ったけれど、予約したこのホテルへは果たして何時間滞在しただろう。孝弘とは夜に会うことが多く、大抵そのまま孝弘の自宅に泊まってしまうので、ホテルの部屋は荷物置き場となっている気がしなくもない。約束の時間まで今日はどこへ出かけようかと考えていれば、枕元の携帯電話が鳴り、画面には野田の文字が表示された。 「お久しぶりです。今、小坂さんと一緒ですか?」 通話を繋ぐや否やの意図不明な質問。それはいつも一緒にいると認識されているからなのか。ノワは気恥ずかしさに呑まれ、瞬時に返答が出てこなかった。 「一緒じゃないです」 「よかった。ちなみに今日の昼から、ご都合がついたりなど…」 「特に決まった予定はないので大丈夫ですよ」 「本当ですか?空いてます?!」 野田の食い気味な反応に、ノワは益々分からなくなった。しかし、話を聞いてその過剰な反応の意味を知る。どうやら素人モデルの撮影で、現役大学生の男性が一人欠員してしまったとのこと。 「急なお願いで本当に申し訳ないのですが、写真映えのする現役大学生が他に思い当たらないんです。無所属でないと駄目なので、事務所の子を使うわけにもいきませんし…。あとこれ小坂さんに知られると嫌がるので、出来ればあの人には内緒で…!」 声だけで分かる必死な様子に、ノワは返答を迷った。これといった予定はないので行ってもいいのだけれど、いくらなんでも場違いではないだろうか。しかし、野田には留学時、撮影現場の見学をさせてもらうなどの恩もある。 「分かりました。俺はどこに行けばいいですか?」 暫し悩んだ末、ノワは野田の頼みを聞くことにした。説明からして他にも演者はいるであろうし、小さな記事だと言うのそこまで気負う必要はないだろう。指定された施設に向かうと、予想通りノワと同じ年頃の男女が数名いた。 「垣原くん」 ノワの存在に気付いた野田が、一緒にいた学生たちに断りを入れこちらへ向かって来た。 「本当にありがとうございます。助かります」 「いえ…。でも、こういう経験は殆どないんですけど、大丈夫ですか?」 「大丈夫ですよ。カメラマンが指示してくれるので安心してください。髪も少し弄っていいですか?」 「はい」 「じゃあ一旦あっちにお願いします」 野田に促され、ノワはヘアメイクをされた後に隅の椅子で待機した。あの大衆の視線を拡大したようなレンズ越しに見られるのは、果たして何年ぶりだろう。 親の仕事関係者の誘いで養成所へ所属したこともあったが、オーディションの経験ばかりあって、ノワに語れる経歴は一つもない。何者にもなれず、何者になりたいかも分からないまま、スタジオ内で忙しなく動く関係者を漠然と羨望した。それは彼ら彼女らの職業をではなく、大袈裟に表現するなら生き方そのものを。 「わーんちゃん」 頭上から降ってきた声に、ノワはまるでシャボン玉が弾けたように意識を浮上させた。その呼び名に覚えはないけれど、距離感からして自分に向けられたものだと思った。視線を向けた先には、薄らと記憶に残る長い黒髪の女性。 「木崎さん?」 直接顔を合わせるのは数える程もないけれど、存外彼女の名前はすぐに出た。 「久しぶり。たかひろくんから日本に来てるとは聞いてたけど、覚えててくれてよかった」 「お久しぶりです。どうして木崎さんがここに?」 「野田さんとそこの廊下で会って聞いたの。前にたかひろくんが珍しく仕事ドタキャンしたのも、わんちゃん関連って聞いたんだけど、相変わらず仲良いのね」 「あー…。帰国する俺を見送りに来てくれた日のことですかね。留学が終わる日にちを伝え忘れていて」 どこか見透かしたような物言いに、ノワは濁した返答をした。すると木崎は少しばかり目を見張り、驚いた表情を見せる。 「あの小坂たかひろが仕事ほっぽって、空港まで追いかけて来たなんて、随分と都合のいい月九ドラマね。日本中の女を敵に回すわよ」 「そ、そんなつもりは…。と言いますか、さっきから思ってましたけど、わんちゃんって俺のことですか?」 「あ、やば」 ノワからの指摘で木崎は失言に気付いたらしい。初めて会った時は下の名前で呼んでいた記憶なので、裏では別の呼び方をされていたことが少し面白かった。 「馬鹿にしてるつもりはないの。初めて会った時にハスキーに似てるなーって思って、たかひろくんの前でずっとそう呼んでたから癖で…」 「別に大丈夫です。孝弘さんとなんで俺の話をするのはよく分かりませんけど」 「たかひろくんが匂わせてくるのよ。あんな大きいのにまとわりつかれてよく鬱陶しくないわね。あの人、面倒くさくない?」 少しうんざりしたような口調は、経験があるからだろうか。孝弘と木崎に嘗て体の関係があったことは知っていて、もしかしたら木崎が煩わしさを感じたのが別れの理由なのかもしれない。 「木崎さんは面倒だと思っていましたか?」 ノワは考えるより先にそんなことを言ってしまった。遠回しなマウントかもしれないなんて、疑いたくもないことを思った自分が憎い。木崎はノワを数秒ほど見つめ、人差し指に絡ませた毛先をするりと解いた。 「全然」 「えっ?」 「面倒くさい男だったら連むわけないじゃない。たかひろくんがそんな男になるのはわんちゃんにだけでしょ?」 木崎はまるで当然のように言ってのけた。ノワはその言葉の意味を理解出来ず、閉口してしまう。そもそも孝弘を面倒だと思ったことがあるかと言われると、ノワはそれこそ口を閉ざすだろう。 九つも年上のくせに稚拙な嫉妬をするし、大人気ない独占欲を隠しもしない。寝ている時にノワを抱き寄せる癖も物理的に重くて、自分の背が大きいという事実を考えてほしい。やめてくれれば快適だとも思う。だが、嫌かと言われるとどうだろう。 「それはそうと、わんちゃん気をつけなね」 一人考え込むノワに距離を詰め、やや声量を下げた木崎が囁いた。猫目に伸びたアイラインとマットなリップがすぐそこにあり、性格とは裏腹な蠱惑的な様にノワは場違いにも感心をした。 「何がですか?」 「カメラマンの小林さん。腕もいいし悪い人ではないけど、撮りたいと思った相手は逃がさない質だから、お眼鏡に適うとしつこいわよ。芸能界入りしたいなら話は別だけど」 「なんだ、そんなことですか。こんな平凡な人間にそれはないですよ」 「あのねぇ、そういう話じゃ…まぁ、細かいことはいいわ。とにかく小林さんから煙草の……」 「垣原くん、お願いします」 軽い受け答えのノワに呆れた木崎の言葉は、スタッフの女性が呼ぶ声に途切れた。ノワとしては、子役として一度も仕事を貰えたことがないのだから、つまりそういうことだと思う。証拠に撮影は滞りなく、最後に活動経験があるかと一言聞かれただけで終わった。 終了した人から解散していいと言うので、野田へ一言挨拶をして行こうと思ったノワは、近くのスタッフに野田の居場所を聞いた。恐らく休憩で喫煙室にいるだろうと言われ向かうと、こちらに気が付いた野田がガラス越しに手を振る。 「お疲れ様です。帰る所ですか?」 野田が横開きのドアを開け、ノワは中にカメラマンの小林という男性もいたことに気がついた。 「あっ、すみません。におい苦手でした?」 「大丈夫です。吸ったことあるので」 自ら買って吸うまではないが、フランスは日本に比べかなりの喫煙大国だ。故に人付き合いと興味本位で多少の経験がないこともない。 「ノワくんだっけ。君も少し話さない?」 野田の向こうから投げられた言葉を追うと、小林が煙草の箱を差し出した。雑談をしようぐらいの軽い誘いだとは思うけれど、撮影の前に木崎が言いかけた忠告が脳裏を掠める。これは受け取っていいものなのだろうか。 「ありがとうございます」 ノワはお礼を言うと同時に喫煙室へと入った。目の前にあるのは、白地に薄い金のロゴをした銘柄。日本の煙草なんて詳しくないけれど、その紫煙の軽さからタールが低いことは察せられる。 「火、貰ってもいいですか?」 ノワは受け取った煙草を咥えると、野田の返事を待つ間も無く先端を重ねた。小林が差し出しかけたライターは宙に留まり、静寂に火の移る微かな燃焼音が縮れる。 「甘いですね」 煙草を口から離し、まるで微笑するかのように呟いた。バニラの甘い匂いが空間に充満し、小林が唇で弓形を描く。 「撮影の時、活動経験はないって言ってたけど本当?」 そんな質問の中で向けられた視線は、遠い昔に経験した記憶があった。いや、細かいことを言えば留学で日本に来た時や今日も、少なからず身に覚えがある。値踏みをする興味深げな視線は慣れているはずだったのに、日本を離れている期間が長くすっかり忘れてしまっていた。 「養成所に所属していた時期はあります。けど、出演作はエキストラを含めて一つもありません。何者にもなれず、売れなかった人間に活動も何もないかと」 「なるほどね」 「それに何者でもないのは今も変わらないので、小坂たかひろの再従兄弟という物珍しさを除けば、値打ちなんてありませんよ」 「あれ、君…たかひろくんの再従兄弟なんだ」 「え?」 小林の反応は想定外で、ノワは隣の野田に顔を向けた。すると、野田は無言で首を横に振る。今までの彼の言動からして話していると思っていたし、今日の撮影に呼ばれたのも、小林に雑談の誘いをされたのも、孝弘の再従兄弟という肩書きがあるからだと思い込んでいた。 「すみません…。今のなしで」 聞かなかったことにしてほしいと願い出れば、野田と小林が同時に笑い声を上げた。自ら弱みを見せるなど間抜けにも程がある。 「いいね。撮影の時から思ってたけど、君いい雰囲気してるよ。普通にしてると年相応なのに、水面下に悪い色気を飼ってる感じ」 「あ、ありがとうございます…」 ノワは反射でお礼を言いつつも、なんとなく語尾が萎んでしまった。今までそんな褒められ方をされたことはなくて、嬉しいのかどうかもよく分からない。なんとも言えない困惑した表情をするノワは、覗き込むようにした野田と視線が合った。 「垣原くんって、やっぱりこちらの業界に興味があったりしませんか?」 そんな前触れのない質問に疑問符を浮かべながらも、今の上手く回らない思考では問いに対する答えを探すだけで精一杯だ。 「ないです」 「そうですか…。じゃあ、何者にだってなれますね。台本のない舞台なんですから、エキストラにだって今ならきっとなれますよ」 少し残念そうに頷いた後、野田はノワがずっと抱えていた、大凡人には伝わらない感情を口にした。 世の中に名前の一つも出せなかった養成所時代。失意は役名が与えられなかった点ではない。その他大勢になりたかったのに、ノワは一人だけ馴染めず間引きされていた。それは、三十数人で一クラスの教室に佇む、毛色の違う自分を嫌でも彷彿とさせる。ノワが孝弘や木崎を羨望せず、妬ましくも思わないのはそんな感情からきていた。 (この髪も目も、子供の頃に比べたら全然浮かなくなったけど…) ノワは野田と小林に挨拶をし、その足で孝弘の自宅マンションへと向かいながら考える。しかし、今までの経験として変なタイプの人間に好かれることが多く、見た目云々の話ではない気もしてきた。無論孝弘も例外ではない。 ノワは以前押し付けられたっきり、一度も使用していないカードキーで家主のいない部屋へ入った。昨夜は留学先の大学で知り合った友達と、徹夜でゲームをして朝帰りしてしまった為に、まだ夜とも言えない時間にも関わらず欠伸が出た。孝弘の明確な帰宅時間は分からないし、帰って来るまで寝てしまおうかと座ったソファでまた一つ欠伸が出る。睡魔に負け寝転んだノワが目を覚ましたのは、肩を揺すられる手に気付いた時だ。 「おはよ。ノワ、うちで寝るの好きだな」 そう言って笑う孝弘に、ゆっくりと上半身を起こした。それに関しては孝弘の自宅にあるソファやベッドの寝心地がいいのがいけない。ノワが泊まっているホテルも質が悪いわけではないが、孝弘の自宅と比べるとやはり見劣りする。 「そんな無防備にされてると、俺としては複雑なんだけど」 ソファの脇に屈み、小首を傾げた孝弘にノワは目を瞬かせた。 「孝弘さんに防備する必要とかありますか?」 それは間違いなく本心であったが、どうやら孝弘の中にあるスイッチを押してしまったらしい。ノワの手の甲に指先が触れ、いつもの微かな香水の香りがした。しかし、孝弘が一寸先で止まり、その表情が俄かに曇るのを見る。 「どうしました?」 「今日、誰と会ってた?」 質問に対して返されたのは、答えではなく質問。ノワは内心どきりとした。これは孝弘の勘が鋭いのか、はたまたノワに詰めの甘さがあったのか。 「誰って……大学の、友達」 咄嗟に誤魔化しを口にすれば、孝弘は無表情のまま鼻先で軽く相槌を打った。それはどの意味なのかとも思ったが、首筋に唇を寄せた孝弘にハッとする。 「ちょっと待ってください。多分煙草の匂いすると思うので先にシャワー…」 「いいよ、移った匂いぐらいそのままで」 「違っ…俺が吸ったから、キスも待って!」 必死に体を押し返すけれど力は互角で、ノワは逃れるように顔を背けた。目の前の男は追い詰められた獲物にすら尾を振ると知りながら、その手の体温に昔から弱いことは嫌と言うほど知っている。横髪を梳いた指が耳を掠め、ノワは伏せた目をキツく瞑った。 「嫌?」 その最後の最後で問いかける狡さが毒だと思った。肌理をなぞる指先の感覚が、ノワの背筋に悪い快感を走らせ完全には拒ませない。恐る恐る視線を戻した先で、孝弘が存外寂しげな目をしていることに気が付いた。 「ノワってさ、今まで付き合ったやついた?」 そんな脈絡のない恋愛の話題は、交換留学で日本に来た時もした気がする。 「いなかったわけではないですけど、ロクな相手じゃないことも多いですよ…?」 そんな返答に、やっぱりとでも言いたげな顔をされた。日本で再会した時はフランスでモテたかどうか聞かれただけで、過去の交際経験は言っていなかったが、もしかしたらそれがいけなかったのか。 (でも、彼氏に二股をさたとか、彼女の兄に迫られたとかそれぐらいで、敢えて話す内容でもないしな…) 結果、弟に〝駄目男製造機〟なんて不名誉や命名をされたけれど、ノワから言わせてみれば自分が製造したのではなく、相手が元々そうだっただけのこと。そんな人間ばかり好きになるのも、好かれるのも、生まれ持った性として諦めるべきかもしれない。 「んで、その次に付き合ったのが、散々女遊びした挙句に九個下の再従兄弟に欲情してる男?こんなのに惚れられた心境はどうよ」 俯瞰した物言いで、孝弘は完全に開き直って言った。ノワの前にいるのは、手料理で女性ウケしそうな物を出してきたり、接し方も明らかに女性の転がし方を熟知したような男だ。そんな男が自身の扱い方に手を焼き、狼狽える様を前にしてどうだと自ら問う。 「堪らないですね」 思わず出た本音に、呆れると同時に興奮する孝弘を見た。しかし、本当なのだから仕方がない。 「今日、本当は誰と会ってた?」 再度された質問と至近距離から注がれる目線に、ノワは背筋を震わせた。それは向けられた圧によるものなのか、どうしようもない性による興奮なのか。 「言わないつもりなんだ?」 うっそりと細められた目の奥は、愉しそうに笑っていた。解かれない髪に孝弘の手が触れ、いつもと違うその髪型に違和感を抱かれたのだと悟る。そして、鼻先におやつをチラつかせるくせに、決して与えようとしないその触れ方がノワの癖を逆撫でた。頭が逆上せたように熱く、理性と判断が面白いほど容易く濁る。 「野田さんに、頼み事をされて…」 喉を鳴らし口にした名前を聞いて、孝弘が満足気にノワの呼吸を奪った。解かれた髪の先が肩に下り、野田との約束を破ってしまった罪悪感が塗り替えられていく。この砂糖菓子を前にしたならば、ノワはパブロフの犬にだってなるのだろう。
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