54人が本棚に入れています
本棚に追加
17
次にその顔を見たら一言言ってやろうと思っていた。彼にとっては仕事の延長線なのかもしれないが、孝弘はこれまでにも再三忠告してきた。
「ノワに煙草勧めたのって野田さんですよね?」
孝弘が投げた質問に野田の顔が上がり、刹那的な時間を空けて振り返る間が肯定だと思った。彼が喫煙者なのは前々から知っていたので、煙草のにおいを纏ったノワが野田の名前を出した時も合点がいった。キャスターなんて咽せ返るようなバニラを吸うのは珍しいと思ったけれど。
「小坂さんには内緒ってお願いしたのになぁ」
腕を組み、困ったように独り言つ野田だが、真のところは困っている風ではない。
「スタッフさんから聞きました」
無理に口を割らせた手前の小さな嘘。そんな孝弘の嘘にも野田は驚きを見せなかった。ノワの口を封じた所でいずれ知られるだろうと、薄々分かっていたに違いない。
「あれは小林さんからの煙草です」
「は…?」
想定外な返答に、孝弘は息が洩れるような疑問符を発した。この業界に関わる人間だと知っている者は多い。カメラマンの小林は、気に入った被写体に自身の煙草を差し出す。
それは周囲に向けた一種のマーキング的なもので、カメラマンとして名高い小林からのお眼鏡を断る人間もまずいなかった。
「でも、垣原くんは煙草を受け取りながらも、火は僕から貰いました。自分は小坂たかひろの再従兄弟という肩書き以外、大した値打ちもないと…。噛みつくつもりはない。けど尻尾を振るつもりもないってことでしょうか」
愉快そうな物言いにも関わらず、容易に想像が出来るアングラな光景。ノワは類い稀なる容姿や才能があるわけではないが、己のテリトリーを嗅ぎ分けることが出来る。野田がノワを誘う理由はそんなところだろう。しかし、それでは困るのだ。
「これ以上ノワに関わるなら、流石に野田さんでも怒りますよ」
真正面から目を見据え、孝弘は半ば脅迫じみた声で言った。野田もその気迫が冗談でないことを察したらしく、組んだ腕を解き孝弘と対峙する。
「彼に大人の手が介入することは、そんなに嫌ですか?」
今まで何度も見たはずの呆れ切った表情に、孝弘はハッとした。ノワが芸能界に興味がないことは知っているけれど、嫌っているわけでもないのだから、現時点でのこれはエゴでしかない。それは決して華やかさだけでない世界から遠ざける、庇護的な意味合いもあるのだけれど、孝弘の独り善がりな我儘も共存していた。今の野田の問いかけはそんな痛い所を突くものだ。しかし、孝弘がバツが悪そうに視線を落とすと、今度は意外な言葉が降りかかる。
「軽率だったことは謝罪します。それから、今後は垣原くんを値踏みするような扱いもしないつもりです」
あれだけ惜しいと言っていた存在から、こうも容易く手を引くだなんて思わなかった。最悪の場合、事務所の上の人間にノワの存在が持ちかけられていることさえ、心の隅で危惧していたというのに。
「どうして急に…」
「小坂たかひろの二の舞になると思ったから」
「俺の?」
理由として挙げられたのは、これもまた予想外な孝弘自身。
「垣原くんを見ていると、昔の小坂さんを思い出します。容姿の話ではなくて、何者かになりたいと躍起になっている姿が」
ノワと一緒にいて、似ている似ていると言う周囲の言葉は、きっと容姿だけでなかったのだと気付かされた。無論、野田のように意識的にではなく、大半の人は容姿だけを見て言っていただろうが。
「たかが数年のマネージャーですが、僕は貴方を一番近くで見てきたつもりです。貼られた情報ばかりが独り歩きをするやるせなさも、その苦しさも」
揺るがない野田の視線に孝弘は唇を固く結んだ。両親の名前が重く感じるのも、レッテルが貼られるのも、ずっと自分がないからだと思っていた。実績と経歴があって、何者かになることが出来たのならば、両親など関係なく自分を見てもらえるのだと信じていた。しかし、この男性は初めて会った時から、色眼鏡で孝弘を見てはいなかったのだ。
「僕は小坂さん程の存在を、一人も二人もサポート出来ませんから」
そう言った野田は携帯電話を取り出すと、開いた画面を孝弘に差し出した。何かと思いつつ受け取れば、メールで届いた映画のキャスティング候補に孝弘の名前がある。監督は日本国内だけでなく、海外でも評価の高い作品を多く手がけた男性。業界の第一線で重鎮の立場に君臨し、受賞した経験は数知れず。
彼が手がける作品は繊細で心地の良い温度がありながら、エンドロールには切なさが喉元に重く溜まる。孝弘はいつか彼の作品に出演したいと思っていた。けれど、素直に嬉しいと感じる反面、僅かな懸念が浮かぶ。携帯電話から目線を上げると、野田も同じ感情らしい面持ちをしていた。
「東さんの噂…。野田さんも知っていますよね?」
孝弘の核心を濁した質問に、野田は無言で頷いた。東というその監督は輝かしい経歴と手腕の底に、仄暗い噂がある。彼は恐らく二世芸能人を好ましく思っていない。いくら適任だと言われる役者でも、二世芸能人はキャスティング候補から落とされる。そしてその理由はいつも決まって取ってつけたような、中身のない上っ面じみた物だった。無論、公言されているわけではなく、あくまで噂の範疇ではあるのだけれど。
「まぁ、内輪で考えた所で仕方ないですよね。落とされたら落とされたで、本当に別の理由があるのかもしれませんし」
孝弘はそう話に区切りをつけたが、上手く笑えた自信はなかった。野田に携帯電話を返し、まだどこか納得しきれていない彼を置いて廊下へと出る。気にならないと言えば嘘になるけれど、こればかりは本人にしか分からない。撮影現場へと向かう孝弘が名前を呼ばれた気がしたのは、突き当たりの喫煙スペースの側まで来た時だ。
「本当の理由は、小坂さんが二世芸能人だからなんじゃないか?」
後ろを振り返ったのは見当違いで、声の主は喫煙スペースと廊下とを隔てる仕切りの向こう。すりガラス越しに二つの黒い影がぼんやり浮かんで見えた。
「例えそうだとしても、異性関係のスキャンダルを心配しているとか、もっと周りが納得する理由をつければいい。それをどうしてそう適当な理由で落とす?こんな理由ばかりで落としていたら、二世芸能人だから落としたと誰だって気付くじゃないか」
半ば詰め寄るような物言いをする声にも、孝弘は心当たりがあった。東と同じ大学に在籍していた旧友で、作品の人気も引けを取らない監督の一人。東に真正面から意見が出来る、数少ない人間でもあった。
「二世芸能人ってのは親の名前で食ってる人間のことだろ。散々親の力でもてはやされてきたくせに、都合が悪くなった時だけ無関係だなんて、そんな道理の通らないことを言う人間に俺の作品は預けられない」
声を荒げもしない東の返答は、相手にされていない表れだと思った。まるで雨戸を閉めるかのような静かな拒絶に怒りはなく、ただ孝弘は指先から体温が抜けるのを感じる。野田のように信じてくれる人がいるのは確か。だが、それは全体の何割だろう。一歩外に出れば所詮この有様だ。
数日後に出版された芸能情報誌も、そんな孝弘の諦観に追い打ちをかける。名前こそ伏せられているけれど、掲載された情報を掻い摘めば孝弘のことを言っているのは明確だった。
「俺と親に血縁がないとか…。別に今更そんなのどっちでもいいですけど、DNA鑑定でもして乗り込みますか?」
「今からNYにいるご両親に連絡を取ったとしても、結果が出るのは早くて一週間から十日後かと」
「冗談ですよ。真面目に返さないでください」
運転席にいる野田にそうは言ったものの、如何なる時だって本気なのが彼の美徳だ。良くも悪くも包み隠さない言葉は、不安な時こそより一層信頼に値する。
「明日の新見カンパニーの新商品公開記者会見は、もしかしたらこの騒動に触れられるかもしれませんね」
孝弘は思わず溜息を吐きたくなった。公の場に姿を出せば、確実にこのタイムリーな話題を持ち立つ記者がいる。
「商品は俺だろ。俺を食い物にしてくれよ…」
己を見世物にしろと心底思った。我が身を見られてこその仕事だと。それなのに、話題になる度に付き纏うのは両親の名前。カメラの前に立ち、舞台に上って、作品をなぞり、誰かを演じることで何者かになれるのだと信じていた。けれど、孝弘がなりたかった誰かとは、果たしてこれだったのだろうか。
「小坂さん、やはり一度どこかで広めに休みを確保しませんか?」
「え?」
「一週間やそこらにはなってしまうかと思いますが、前にこの話が出た時も結局流れてしまいましたし」
野田がその提案をするのは今回が初めてではない。心配してくれているのは分かるし、ありがたい話ではあるのだけれど、孝弘は張り詰めた糸を弛ませる瞬間が怖かった。その瞬間、自分が何者でもなくなって、迷子になるような気がする。
「大丈夫ですよ。今回だって、出来るだけ空けたいなんて我儘を通してくれたじゃないですか」
それはノワが日本にいる間の話。少しでも一緒の時間を確保したくて、可能な限りスケジュールを調整をしてくれた。孝弘は車窓から見たビルに自身が掲載された電光掲示板を見つけ、まだ大丈夫だと短く息を吸う。
「じゃあ、お疲れ様です」
止めてもらった車のドアを開け、孝弘は大通り沿いで下車した。携帯電話を開くと、例に洩れず夕食を共にしようと約束したノワからもうすぐ着くとの連絡が入っていた。目的地の飲食店が見えた所で、孝弘はタイミングよく着いたらしい見知った背中を見つける。しかし、そこにある姿は一つではなく、何やら話す素振りのノワと見知らぬ女性。その手に握られた携帯電話に、孝弘は直感的に嫌な予感がした。
「宮本くんのアカウントに上がってた劇団の方ですよね?よかったら写真とか…」
ノワに向けられた女性の質問はやけに鮮明で、冷ややかな汗が浮かぶ。以前、孝弘が所属していた劇団の飲み会で、劇団員がSNS上げた写真に写ったノワが、デビュー前の新人ではないかと噂されたことがあった。この時、冷静に考えれば割り込むでべきでなかったのだけれど、咄嗟に孝弘はノワに伸ばされた女性の手を止めてしまった。
「すみません。そういうのはちょっと…」
驚いた様子の視線に見上げられ、やってしまったと遅すぎる気付き。孝弘が割り込まなければ、最悪ノワが自分ではないと突き通せたかもしれない。
「え、嘘…本物……?」
数秒程して漸く声が出たらしい女性に、ノワは孝弘の腕を掴んで走り出す。二人は逃げるようにその場を立ち去り、暫く走った建物の影で息を吐いた。
「びっくりした…。まさか、孝弘さんがあのタイミングで来るとは」
ノワは近くに先程の女性がいないことを確認し、困ったように笑う。証拠もなければ悪いことをしたわけでもないので、大事にはならないだろうが、結局予定していた店に行くどころではなく、二人は孝弘の自宅に逃げ込む他なかった。
「ごめん」
助けるどころか、ややこしくしてしまっただけの行動に、孝弘は向かいに座るノワへ謝罪する。その手には帰りがけに買った、コンビニの焼き鳥があった。
「俺、コンビニの焼き鳥も好きですよ」
ノワは謝罪の意味を読み違えたまま、唇の端に付いたタレに舌を出した。その様にふと和んでしまって、孝弘は訂正する気も湧かずにただ頷く。しかし、ノワと会うのは今日のように夜ばかりで、食事をして、孝弘自宅に泊まるというお決まりコース。これではセフレでいた頃と変わりない。ノワが不平や不満を口にしないことをいいことに、孝弘は自分が一方的に甘えているような気がした。そう分かっているはずなのに、やはりその温もりを手放すことが出来ない。
冷えた指先は自分ではどうしたって温まらなくて、そんな時は決まって昔から夢に現れる魔物がいた。何度も夢の中で追われているのだから、これは夢だと知っているはずなのに、夢だと認識出来ない程の混乱が孝弘を襲う。けれど、その日は少しだけ違った。いつもは魔物から逃げているはずが、今回は何故か追いかけている。走って追いかけ、漸く掴んだその癖毛を知っていることに、そして容易く擦り抜けてしまうことにかつてない程ゾッとした。
「ノワ…?!」
孝弘は叫ぶと同時に起き上がり、速い鼓動の中で悪い夢かと息を吐いた。だが、ふと視線をやった隣に、寝る前はいたはずのノワがいない。背筋を生温かい汗が伝った。果たしてここは本当に現実だろうか。仮に現実だとして、正夢になってしまったのではないかと、平常時ではまずあり得ない思考が連鎖する。
「ノワ……おい、ノワ!」
ベッドから飛び降りた孝弘は、部屋の中を当てもなく彷徨った。リビングから果ては脱衣所までドアを開けてノワを探したが、どこにもいなかった。誰かに助けを求めようか。そもそも携帯電話はどこだろう。考えれば考える程に呼吸が上がり、孝弘は襟足に爪を立てた。
「孝弘さん…!」
背後から縋った体温に霧が晴れ、漸く視界が広がった。振り返ったそこには必死な形相のノワがいて、孝弘はまだ残る不安感に恐る恐る腕を伸ばす。
「ごめん…。少し、悪い夢を見て」
「悪い夢を見ると俺を探すんですね」
「ノワが連れ去られそうになったから…」
「ベランダにいましたよ。ちょっと電話をしていて」
孝弘の訥々とした言葉に返事をするだけで、ノワは決して深くは聞いてこなかった。悪い夢に理屈や常識が通じないことを知っているのだろう。まるで孝弘の抱える感情と一緒だ。両親の名前など関係なく自分を見世物にしろと思う傍で、大衆の視線に長年晒されすぎた疲弊がある矛盾。自分だけ守れればよかった時とは違い、一緒にいたい存在が出来て、身軽さだけでないことこそが愛おしいと思ったはずなのに。孝弘が小坂たかひろである限り、きっとノワには今回のような重荷を与える。寝ているのか、そうでないのか。よく分からないまま夜が明けようとしていた。ノワの眠りの浅さにも孝弘は気付いていて、数日後には手放さなければならない温もりを噛み締めていた。
「自分のことを知っている人間が誰もいない場所に行けたら、きっと楽なんだろうなー…」
ぽつりと呟いたそれは、きっと何年も募らせた本音だ。徐に上半身を起こしたノワが膝を抱え、裸足がシーツをなぞる布ずれの音。
「なら、そんな場所に限りなく近いどこかへ行ってみますか?」
孝弘はノワを見上げ、間も無くして微笑を浮かべた。
「いいね」
それは出来もしない夢物語で励ましだと思った。孝弘は自身が抱えるこの歪を明かす気はない。首輪であるそれを、ノワの足枷にはしたくなかった。
「今回は直行便じゃないので、乗り換えのヘルシンキ空港で結構待ち時間があるんですよ。上手くいけばそこで落ち合えると思います」
続けられた話に孝弘はゆっくりと瞬きをした。そして視線を落として考え、再びノワに目をやる。
「本気で言ってる?」
「孝弘さんが本気にするなら」
抱えた膝に頭を垂れ、笑みを結ぶ目尻は茶化している風ではなかった。半信半疑のまま野田に連絡を入れれば、十日の休みが確保された。孝弘は飛行機の搭乗券を購入し、頭だけが追いつかないままスーツケースに荷物を詰め込む。そして数日後、ノワを見送ったのと同じ空港のゲートを潜った。後に孝弘は、逃避行という言葉の意味を知る。
最初のコメントを投稿しよう!