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18
遠いどこかへ行きたいと思った。
誰も自分のことを知らないどこか。場所なんて漠然とも決まっていないけれど、大衆の視線から逃れられるのならどこだってよかった。そして辿り着いたのが言葉も文化も、何一つだって馴染みのない国。孝弘は初めての土地を踏み締め、知らない風の匂いや雑踏を吸い込んだ。
「俺さぁ、てっきりパリに住んでるのかと思ってた」
「まさか。周りは畑ばっかりの田舎ですよ」
ヘルシンキ空港でノワと合流した後、飛行機を乗り換えて到着したフランスの中心部。そして更に乗り換えた電車に揺られ、下車した駅で孝弘の前に広がったのは石造りの外壁と歩道。赤瓦の三角屋根が連なり、カフェのテラス席が歩道にまで飛び出す。十分に栄えてはいるけれど、日本とは全く異なる風景に遠い所まで来てしまったと思った。
「さて、ここからはバスなんですけど、本数がかなり少ないので……あっ、ブリス!」
振り返ったノワが声を上げると、近くを走る軽トラックが止まった。そして、運転席の窓から男性が顔を出す。
「Voulez-vous monter à l'étage ?(上の通りまで行く?)」
「Oh, allons-y Je vais livrer des légumes à la boutique de Selene.Voulez-vous rouler à l'arrière ?(あぁ、行くよ。セレンの店まで野菜を届けるところだからね。後ろに乗って行くか?)」
「merci.(ありがとう)知り合いです。近くまで行くそうなので乗せてもらいましょう」
ノワ曰く、知り合いを見かければよく道すがらの荷台に乗せてもらうのだとか。二人は荷物の野菜よろしく荷台に座り、都会の喧騒からまた少し離れる。走行中の追い風に髪を掬われながら、孝弘は遠くに広がった畑を見つけ、子供のような単純な興味で目を見張った。緑色の一帯は野菜だろうか、黄色の一帯は花か何かだろうかと。
「なぁ、あの藤棚みたいなのなに?」
「ワイン用の葡萄畑です。もう少しで収穫ってところですかね」
「あっちのは?」
「あっちはラベンダーだと思います。初夏ぐらいから咲くのでもう終わってしまったんですけど、盛りの時期は綺麗ですよ」
ノワとそんな話をしていれば、軽トラックはやや開けた広場のような場所で止まった。荷台から降りると、近くには建物と同じ石造りの噴水があり、日本で言う住宅街の中にある公園のような場所だろう。
「Cela a été utile. merci.(助かったよ。ありがとう)」
「C'est OK. Au fait, il semblait que Raquel avait quelque chose à voir avec Nowa l'autre jour.(構わないよ。ところで、この間ラケルがノワに用事がある感じだったけど)」
「あっ」
男性と言葉を交わすノワは、何かを思い出したらしい反応で頭を掻いた。その声から察するに、あまりよろしくない方の気付きだ。
「まずい、忘れてた…。孝弘さん、取り敢えずうちこっちです」
ノワはそこまで見えていた三階建ての建物を指差し、早足で案内をした。所々を蔦が張った階段を登り、玄関のドアを開けると、地面を走る音が近付いて来る。人間の足音にしては軽やかで、ノワの後ろに続いた孝弘は、白地に灰色の毛とブルーグレイの目と対面した。まるで絵に描いたような、見事なシベリアンハスキーだった。
「Leo! monsieur Takahiro est arrivé, alors s'il vous plaît, montrez-lui sa chambre ! !(レオ!孝弘さんが来たから部屋に案内して!!)」
ノワはその頭をおざなりに撫でながら上の階へ向かって叫ぶ。
「すみません、レオに部屋まで案内させるので。すぐ戻って来ます」
「あぁ、了解」
孝弘の返事を聞くや否や、ノワは再び外へと駆け出した。一人取り残された孝弘が斜め下に顔を向けると、同じくこちらを見たシベリアンハスキーの尾がパタパタと揺れる。
(こう見るとやっぱり似てるな…)
木崎がノワをわんちゃんと呼ぶ理由。孝弘が豊かな毛並みをぎこちなく撫でていると、上の階から一人の少年が降りて来た。その容姿は写真で見た以上にノワと似ていて、咄嗟に何も言えない程には驚いた。髪は結べる程長くはないし、背丈もいくらか小柄ではあるけれど、ノワを少しばかり幼くさせるとこんな感じかもしれない。
「Suis-moi s'il te plait.(ついて来てください)」
鍵を持ったレオが玄関の外を指差すので、孝弘は取り敢えずついて行くことにした。外階段を上った先の建物は、ゲストハウスとして貸し出しているらしく、今回は孝弘が借りさせてもらう話になっている。通された部屋は日本で言う単身者用のマンション程の広さで、ベッドやテーブルなど基本的な家具は一通り揃っていた。
「Les toilettes se trouvent par cette porte et la salle de douche se trouve derrière. Soyez prudent car l'eau chaude met un certain temps à sortir.(トイレはこっちの扉で、シャワールームはその奥。お湯が出るまで時間がかかるから気を付けてください。)」
淡々と進められる説明は何一つ聞き取れないけれど、ドアを開け指差す先を見て、部屋の説明をしてくれていることを理解する。そんな最中、下から近付いてくる足音に気が付き、振り返った先に覚えのある青年を見た。静かな驚きを滲ませた孝弘に、青年は白い歯を見せて笑みを浮かべる。
「あっ、もしかしてルイ?」
「正解です!」
「うわっ、久しぶりー!写真はノワに見せてもらったことあるけど、デカくなったな」
「もうお酒も飲めますからね。孝弘さんはいける口ですか?」
「好き好き。日本酒でもワインでも」
「よかったー。アペロって言って、こっちでは夕食前の今ぐらいに軽く飲む人が多いんです。一緒にどうですか?」
ルイが再会直後に意気揚々と誘う物だから、その酒文化に前のめりな姿勢を見て、孝弘は思わず笑ってしまった。まだ日も高いのに、店のテラス席で飲んでる人がいるとは思っていたが、どうやらそういう国柄らしい。ノワがある程度飲み慣れた様子であるにも関わらず、酒はあまり飲む方ではないと言うのも、そんな環境で育ったからだろう。
「このチーズスナック凄い美味くて、市販のタラマに付けるのが定番なんです」
リビングに移動するや否や、ルイは手慣れた様子でグラスと酒瓶を並べた。勧められたのは日本の輸入食品店でも売られていそうなスナックチップス。淡いピンク色のペーストを付けて口に運ぶと、如何にも酒が進みそうな味に孝弘は瞠目した。
「なんだこれ、チーズの濃さヤバいな。日本でも売るべきだろ」
「俺はたまに日本食が恋しくなりますけどね」
「ルイはなんだかんだ中学ぐらいまで日本にいたからなー…。そうだ、空港で買ったやつだけど、お土産あるからよかったら二人で食べな」
孝弘はノワが持っていてくれた物を思い出し、彼のキャリーケースの側に放置された袋へと手を伸ばす。それは日本で定番なお菓子で、関東の駅やお土産売り場では大抵どこでも手に入る。
「Même un souvenir. (お土産だって)」
差し出した袋にレオが不思議そうな顔をするので、ルイはグラスを傾ける途中で補足した。孝弘はレオの寡黙な様子に大人びた印象を受けていたが、袋の中身を覗いた途端に表情が明るみ、年相応の無邪気さをそこに見る。
「Celui que mon père m'a acheté l'autre jour ! N'est-ce pas quelque chose que l'on ne peut acheter qu'au Japon ? !(これ前に父さんが買って来てくれたやつ!日本でしか買えないやつでしょ?!)」
興奮気味な様子で早口に捲し立てられた言葉は、孝弘には相変わらず理解が出来ない。しかし、喜んでくれていることだけは容易に伝わった。
「なんだこの可愛い生き物。ルイの弟可愛いな」
「あげませんよ?」
素直な感想への返しが謎の牽制。孝弘がルイに顔を向けると、グラスを置きにこやかに微笑まれる。
「孝弘さんのことは信頼しているので、最悪な展開までは疑っていません。けど、ノワのこと……俺らがまだ日本にいた時からそういう目で見ていましたか?」
穏やかに問いかける口ぶりだが、全く異なる目の奥に孝弘はモヒートを喉に詰まらせた。ノワは誰にも自分たちの関係を話していないと言っていたけれど、どうやらルイは薄らと察しているらしい。そして、レオのことを可愛いと言ったのも、変な意味で捉えられている。
「違っ、そういう意味じゃないって!自分に懐いてて可愛いなぐらいで…。てか、俺もその時は十五だぞ!俺をなんだと思ってんだ?!」
「うわっ、先に始めてる」
強く弁明する最中のそんな声に振り返ると、用事で出ていたノワがいた。
「ごめんごめん。ノワも飲む?モヒート作ろうか」
「んー。いや、シードルがいい」
ノワはグラスを取ると、淡い琥珀色のシードルと炭酸水を注いだ。炭酸の入った飲み物を好む彼は、サイダーが好きだった子供の頃を彷彿とさせる。日本の片田舎で再会した時はアイスコーヒーを飲んでいたけれど、溶けた氷で薄まった上澄みにシロップを足す姿が、必死に背伸びをしているようで堪らなかった。ノワを幼くしたかのようなレオの容貌を見ていると、孝弘は自分では知り得ない時期の彼を考えてしまう。そんな視線に気付いてか、レオが少しばかり距離を詰める。
「Votre piercing vous a-t-il fait mal lorsque vous l'avez percé ?(ピアスって空ける時痛かった?)」
「ん?なに、これ?」
どうやら孝弘のピアスが気になるらしい。日本にいるノワに日本限定色のアパレル商品を買って来てと頼むぐらいだから、そういう類に興味があるのかもしれない。それとも年齢的な理由だろうか。
「ピアス空ける時痛かったのかって」
「あーね。別にロブは大して痛くないよ。昔はもっと空いてたけど、軟骨の方は多少勇気いるかも」
孝弘は携帯電話を取り出すと、インターネットで昔の自分を検索する。そして検索結果の写真を画面に表示した。
「えっ、これ孝弘さんですか?!」
「そう。ノワと同じぐらいか……いや、まだギリ高校生かな」
グレていたわけではないが、暗いブロンドヘアに複数のピアスをしていた時代。改めて見ると、確かに今よりこの頃の方がノワと似ている気がした。
「興味あるなら俺が空けてあげよっか?」
孝弘がレオの顔を覗き込めば、角のない目が意味を問うように瞬く。感情が素直に出る無邪気さは孝弘にとってわけもなく眩しい。
「レオは耳が薄めだから空けやすそうだし」
その傷一つない耳に触れると、言葉が通じない中でも意図を察したらしい。
「Me laisseras-tu un peu d'espace ? !(空けてくれるの?!)」
「ちょっ、と…待って!それは駄目!」
レオの言葉に続いたのは、停止を求めるノワの慌てた声。その発言にノワ自身も驚いたらしく、孝弘は無言で彼を見つめた。もしやフランスでは、学生がピアスを空けることはあまり好ましくないことなのか。
「い、いくらレオと俺が似てるからって、まさか未成年にまで手をつける気ですか?!」
「はぁ?」
前のめりで問いただすノワの発言は孝弘の予想とは全く異なるもので、思わず拍子の抜けた声を出す。
「垣原家のDNAに弱いにも程があるでしょ!」
「人聞き悪いこと言うなよ…。てか、さっきからルイもそうだけど、俺をすぐショタコンに仕立て上げるそっちの兄弟の方がなんなんだ?仮に十五歳のノワを連れて来られても手を出す気なんてさらさらねーよ!」
「そんなことで威張らないでください!あったら大問題ですが?!」
「それ、家族の前でする話ですか?」
そんな声に二人はハッとし、呆れ顔のルイに目をやった。売り言葉に買い言葉で盛大に不平不満を撒き散らしたが、痴話喧嘩もいいところだ。そして内容があまりにプラトニックからかけ離れている。
結局、ノワがこうも拘る理由を孝弘は理解出来ないまま、夕食の為に飲食店へ向かう話になった。ルイとレオも誘いはしたのだが、気を使われたのか自宅で済ませると断られた。ノワに連れられた店は自宅から徒歩圏内にある、二階建ての建物。小食堂という部類の飲食店らしく、料理も所謂フランス料理といった堅苦しさは感じられなかった。
「旨っ。正直当たり外れがあるって聞いてたけど、意外とそうでもないんだな」
「よかったー。ここの店は何頼んでも美味しいんですよ」
ノワは孝弘の反応に安堵した様子で煮込み料理を口に運ぶ。曰く、今もその美味しさが理解出来ない物もあるらしいが、田舎料理の方が癖がなく口に合うとのこと。孝弘は隣に座るノワを見て、料理と一緒に口に含みそうな横髪を耳にかけてやる。すると、振り向いた顔が照れたように破顔した。
「ノワもピアス空けたいならしてあげようか?」
ここに来る前の会話を思い浮かべ、孝弘は質問を投げた。しかし、咄嗟にノワが見せた表情はなんとも言えないもの。
「別にそういう意味では…」
煮え切らない物言いに孝弘はますます分からなくなった。ならば何故。単純な疑問に髪を退けた手を下ろしかけると、距離を詰めたノワの喉元に指先が触れた。
「でも、首輪をつけるなら俺だけでいいでしょう?」
そんな囁きに賑わう店内の雑踏が遠退いた。言葉に呼応して指を微動が伝い、生々しい質感から孝弘は唇を引き結んだ。首輪をつけたのは間違いなくノワの方であるのに、そのことに気付いているのかいないのか、狡賢い視線にまた飼い慣らされる。
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