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日本から帰国した翌朝、ノワはリビングを寝起きの頭で見渡した。しかし、そこにいると思っていた存在はなく、レオがテレビの前でチャンネルをザッピングしている。 「Où est passé Oscar?(オスカーどこ行った?)」 見当たらない愛犬の所在を問うが、振り返ったレオも心当たりのない顔をしていた。 「N'est-il pas dans la chambre de Noix?(ノワの部屋にいるんじゃなかったの?)」 ルイはもう仕事に行っている時間なので、散歩ではないだろう。踵を返したノワは廊下の先に半開きのドアを見つけ、なんとなく心当たりを思いついた。外階段を上りゲストハウスのドアを前にすると、中から驚きの声が聞こえ、含み笑いの後にノックをした。間も無くして開けられたドアの向こうには、まだ眠そうな孝弘が立っていて、ノワの予想通りオスカーと一緒だった。 「すみません。普段はゲストハウスには勝手に入らないんですけど」 「それは別にいいけど…。お前、どっから入った?」 「そこの窓じゃないですか?オスカーなら外の所を回れますし」 階段を逸れた細道を指すと、孝弘は納得したらしい声を溢した。日中の暑さとは裏腹に、夜間がぐっと涼しかったので窓を開けていたのが原因らしい。更に言えば、日本と違ってフランスの建物に網戸という附属物が基本的に存在しない。大型犬であろうと、堂々と窓から侵入が可能だった。 「ところで今からそこのマルシェに行くんですけど、孝弘さんも行きませんか?」 それが今朝の本題だった。ゲストハウスに泊まる旅行客にも勧めがちではあるけれど、現地の人間からしてみれば至って日常的な催し。日本で言うスーパーマーケットは近くの都市まで出なければならないので、普段は近隣の小売店で済ませることが大半だった。二人が身支度を済ませて向かった広場には、既に多くの出店と人が集まっていた。 「すげぇー。海外って感じ」 日本ではあまり見られない光景に、孝弘は感嘆の反応を見せた。これでも都市部に比べれば小規模なのだが、ノワも初めて見た時は孝弘と同じようなことを言った気がする。 「ここは地元向けなので、野菜とかの品質にばらつきがあるんでけど、その分安くて……」 孝弘を見上げたまま話すノワは、途中後ろにいた人物と軽く肩がぶつかった。 「Désolé……」 言いかけた謝罪は振り返った相手に途切れ、無言で硬直する。まさかこんな所で過去に付き合っていた人間と会うなんて、きっとお互いが思ってもいなかった。これだから顔馴染みばかりの田舎で恋人なんて作るものではない。いざこざが生じた場合が面倒でしかなく、それがまさに今の状況だ。 「孝弘さん、行きましょう」 言葉を発しようとした男性を無視して、ノワは隣の手を引いた。孝弘は何も言ってこなかったけれど、先程の男性は誰かと聞かないことが、自分たちの関係を察している気がしてならなかった。しかし、ノワは少し歩いた所で繋いだ手を客観視し、人目の多い場であることに慌てて解いた。だが、すぐにそれを追ったのは孝弘で、ノワは弾かれたように顔を見上げる。 「迷子防止」 眠れなかったあの夏の夜と同じ、耳に甘い囁き声。マルシェの賑やかさに紛れたはずのその言葉は、ノワには存外ハッキリと聞こえた。ここが日本だったら、孝弘もノワの手を追いはしなかったに違いない。今まで散々友達以上のことをしてきたというのに、初めてまともに手を繋いだなんて、世間に知られれば笑われるだろう。 「さて、どこから見て行く?」 「端から一周しましょうか。人に頼まれたものもあるので…あっ、あのお兄さんの店、ロカマドゥール(ヤギのチーズ)が美味しいんです。絶対孝弘さんも好きですよ!」 ノワは目当ての店を指差しては孝弘の手を引いた。あの小坂たかひろに荷物持ちをさせるなんて、木崎の言葉を借りるならば、日本中の女性を敵に回したといったところだろうか。買い物を終えた二人は、広場から少し歩いた小さなカフェへと向かった。そこの店主である老女にマルシェでの買い物を頼まれていて、お使いをした日はいつも朝食をご馳走してくれる。 「こっちの店ってテラス席多いな」 孝弘はカフェオレのカップを片手に、斜め向かいにもある飲食店へ目を向け呟いた。 「確かにそうですね。そもそもテラス席が好きって人が多い気がします。お酒を飲むにしても、食事でも休憩でも、雨が降っていない限りは当然テラス席、みたいな」 それは雨季がなく、日本に比べ気温の上下が緩やかな気候が理由なのか。それとも国民柄の話なのか。孝弘とは日本で何度も一緒に食事をしたけれど、個室か、もしくはそれに近いパーテーションで仕切られた店が殆どだった。 「こういうの初めてですね」 「ん?」 「こんな明るい時間に街中でデートするの、初めてですね」 一度は聞き返され、今度はその初々しさを明確な言葉にする。そして、孝弘がしてやられた顔になるのを見た。散々女遊びをしておいて、この恋人は本質的な所が純であるとノワは思う。 「ノワってこっちだといつもそんな感じなわけ?」 「そんな感じ…?」 孝弘が指すものが分からず疑問符を浮かべると、一瞬だけ表情を固まらせ、あぁそうかと納得したらしい反応をされた。 「無自覚なのが余計に悪い男だわ」 「孝弘さんにだけは言われたくないです」 名誉か不名誉かで言われればき後者の方。年下の再従兄弟を弄んでいた男にだけは、そんな言われをされたくはない。 「そんな感じってのは、日本にいる時とはまた少し雰囲気が違うなーって意味。その人の部屋に入るみたいな、生活圏に踏み込めた感じがして嬉しいなって」 ぼんやりとした説明に、ノワもまたぼんやりと理解した。言われてみれば確かにそれはそうかもしれない。交換留学の際に孝弘が入ったノワの部屋は半年契約の借家で、私物という私物も日用品や教材ばかりだった。お互い言っていない過去も多く、体の関係から始まってしまったことがいい例で、恋愛の順序として何もかもが逆なのだ。 「大して面白いものでもないですけど、俺の部屋来てみますか?」 孝弘があまりに興味ありげに言うものだから、ノワも深く考えずに誘ってみた。帰宅した二人は買い出しの荷物をキッチンに片付け、二階へと足を向ける。ちょうどその時、上の部屋からレオが下りて来た。 「sors et viens.(出かけて来る)」 「Ah, bon…(あぁ、そう…)」 レオの報告に対してノワはやや歯切れの悪い相槌を打った。 「quoi ?(なに?)」 「rien.(なんでもない)」 すれ違い際、双方が訝しげに質問と返事を投げる。正直ノワからしてみれば、わざわざ言わなくとも十六の弟が昼間にどこへ出かけようが気にはならない。今までは勝手に出かけていたのに急にどうしたのかと思ったが、恋人と自室へ向かっている現状を思い出し、遠回しに気を使われたのだと悟った。 「レオ、なんて?」 「出かけてくるって」 レオの言葉に含みがあったことは伏せ、ノワは再び階段を上り始めた。自室のドアを開けると、後ろで孝弘が僅かに驚くのと同時に立ち止まった。 「えっ、なんか…意外」 「意外?もしかして散らかってるって意味ですか?」 「いや、そうじゃないけど…。こういう感じだとは思ってなかった」 一体どんな部屋を想像していたのかノワには分からないけれど、部屋のあちこちに置いた出自が不明な置物や飾りを指して言っているのだろう。それらは全てノワが出先で買ったり、貰ったりした産物だ。壁の棚からチェストにまで陣地を広げ、写真を飾っていたり、雑多な雰囲気は否めない自覚はある。 「これってノワ?」 孝弘は部屋の中へ足を進めると、飾られた一枚の写真を指差した。そこには小学生と見られる男の子が数名写っている。 「そうですよ。まだこっちに来てすぐとかですかね。隣のは中学生だと思います」 「そっか、フランスは学生服とかないのか」 「そうなんですよね。あと中学と高校は殆ど一貫校みたいな感じで、校舎も同じ敷地内にあることが多いです。俺があちこち行くようになったのはこれぐらいからかと」 ノワは大学での交換留学とは別に、中学と高校でも他国へ短期的に行ったことがある。もちろん日本ほど遠くに行くことは出来なかったけれど、個人的に行った地域もあるし、学校のカリキュラムの一環で行った国もあった。 「この辺の写真がスイスです。電車で数時間程度なのでパリに行くより近いと思います。こっちがドイツで……あっ、これは山脈の所を走ってるトロッコなんですけど、天気が良かったから景色も最高だったんです!」 自分探しの旅なんて大それた話ではない。初めてこの地を踏んだ時の感覚が忘れられず、いつの間にか癖になっていただけのこと。誰も自分のことを知らないどこか。初めての風の匂いや雑踏。遠い所まで来てしまった感覚は形容し難くもノワの感情を揺さぶった。 「一度、孝弘さんも景色の真ん中で振り返ってみてください。自分が背景の一つになって、世界に忘れ去られた気持ちになるんです」 そんな発言に孝弘は相槌を打ってはくれたけれど、上手く飲み込めない面持ちをしていた。ノワはそれも当然だと思った。主演が服を着て歩いているような男なのだ。エキストラや背景になるにはあまりにかけ離れている。 「日本は?」 「え?」 「ノワは日本にも来て良かった?」 普段は余裕綽々としているくせに、時折見せるそのいじらしさがノワを堪らなくさせた。縋るとは違う。甘えるとも異なる狡い問いかけ。 「もちろん。孝弘さんにまた会えましたから」 それ以外にも行って良かった理由はあるけれど、目に見える結果としては一番。記憶の中で思いを馳せる存在だったのが、今はノワの隣で無防備に笑う。床の上で指先がぶつかり、心なしか少なくなった瞬きにノワは唇を引き結んだ。部屋がノックされたのはまさにそんな時だ。 「っ…!」 双方の肩が飛び跳ね、慌てて距離を取ったのとほぼ同時にドアが開けられた。 「孝弘くん久しぶり」 「どうも…ご無沙汰してます。聡さんはお変わりないようで」 顔を出したノワの父親に孝弘は辿々しく返答する。久しぶりも、ご無沙汰してるのもいいけれど、ノックをしてから部屋を開けるのが早いとノワは文句を言いたかった。そんなのは今に始まったことでもないのだけれど。 「ゲストハウスもありがとうございます。急にお借りしてしまってご迷惑ではなかったですか?」 「全然。わざわざ借りなくてもうちに泊まってくれてよかったのに」 「流石にそこまでしていただくわけには…」 「そう?まぁ、孝弘くんがいいなら…。それにしても相変わらず硬いなぁ。子供の頃から大人びてるとは思ってたけど、芸歴が長いからか?」 聡が笑い混じりで言い、孝弘はちらりとノワの方を見た。しかし、ノワは孝弘との関係を誰にも言っていないのと同様に、職業も兄弟が本人に聞くまで伝えていなかった。故に父親にも話していないと首を横に振る。 「俺の職業のことご存知なんですか?」 「まぁ、仕事で日本にも行くからね」 「酷いですよね。父さん、俺たちに黙ってたんですよ?」 「それはだって聞かれてないから」 当然のように言ってのけた聡に、ノワはそれ以上掘り下げるのをやめた。両親は仕事で家を不在がちで、ゆっくり雑談なんてことが少ないのが原因だ。決して意地悪で隠していたわけではない。 「明日にはまた仕事で出るけど、夕方ぐらいに母さんも帰って来るから。予定がなければ孝弘くんも一緒に夕食なんてどうだろう」 「ありがとうございます。是非」 孝弘の返事に頷いた聡は、そのまま部屋を出て行った。途端、ノワと孝弘はほっと息を吐く。その様にお互い同じ心境であることを察し、目配せをしては苦笑した。 「恋人の実家にいる気持ちはどうですか?」 ノワは縮めた距離の間に問いを溢した。背徳感なんてものに快楽を求めるのは危険でありながら、その危うさは人間をこうも惑わせる。 「ノワ!ちょっといいかー?」 階下から叫ぶ声に、二人はまた同時に微笑を刻んだ。日も高いうちから抱く邪な感情を見透かしてか、今日はとことん焦らされる日らしい。ノワは重ねるだけのキスをして、不意打ちを喰らった孝弘に目尻を緩めた。 解けた手に残る体温を名残惜しく思い、部屋を出た先で、ノワは指先で擦った掌が薄らと汗ばんでいるのを感じた。
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