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20
日本からずっと西にある片田舎で、孝弘は忘れていた息の仕方を思い出した。長らく人前に立つ界隈にいた所為か、人目を憚らない環境に少しだけ違和感がある。それでも、見知らぬ土地で漸く肩の力が抜けたことは確か。
「せっかく遠い所から来たのに、有名な観光地もなくて退屈じゃないですか?」
久しぶりに再会した日、晩酌の席でルイが自嘲的に言った。しかし、もしここがパリのような大都市だったら、今の孝弘は少し辟易としたかもしれない。
(生まれも育ちも東京だからなぁー…)
ゲストハウスの部屋を出た孝弘は、東京の喧騒とかけ離れた景色に目をやった。そして階段を降りる途中、微かに人の話し声が聞こえ、母屋の方に誰か来ているのだろうかと。階段を下りきった先には、玄関先で女性と立ち話をするルイがいた。
「Oh, peut-être êtes-vous un parent de Louis, selon la rumeur ?(あっ、もしかしてあなたが噂のルイの親戚ね?)」
孝弘を見るなり女性はしゃぐような口調で言った。
「J'ai entendu dire que vous aimiez notre vin. Les raisins de cette année sont d'une qualité particulièrement bonne, alors revenez l'année prochaine.(うちのワインをあなたが気に入ったって聞いたの。今年の葡萄は特に質が良いから、また来年もおいでよ)」
「今年採れた葡萄は特に質が良いから、またフランスにおいでって」
「あぁ、なるほど。もしかしてそこの畑の葡萄?ノワにちょうど収穫時期って聞いたんだけど」
「Ces raisins viennent de ce champ, n'est-ce pas ?(その葡萄はそこの畑の物だよね?)」
「Oui c'est vrai. Les tournesols sont en pleine floraison et sont magnifiques en ce moment, c'est donc une bonne idée d'y aller.(えぇ、そうよ。今なら向日葵も盛りで綺麗だから行ってみるといいわ)」
「あっ、もうそんな時期か。孝弘さん、向日葵は見に行かれましたか?」
「向日葵?」
ルイを介した会話は、孝弘に分からない所でワインから花へと話題が移ったらしい。向日葵と言えば日本のイメージが強かったので、フランスにもあるのだと密かに驚いた。
「有名なんだ?」
「そうですね。花屋でもわりと見ますし、カジュアルな雰囲気で渡しやすさがあると思います。あと食用油とかに使われたり」
改めて考えると、街や店で何かと花が目に入るとは思っていた。ルイの発言からも、花を飾り、贈り合うことが文化として定着した国柄なことが伺える。
「せっかくだし今から行ってみようかな」
「是非是非。広場から反対方向へ真っ直ぐ行った所です」
「そう。ありがとう」
どうやら近場らしい説明に踵を返すと、ルイの足元にいたオスカーが腰を上げた。
「待て待て。お前は留守番だよ」
孝弘が慌てて止めると、ルイと女性が声を上げて笑った。何が気に入ったのか分からないが、オスカーは何かと孝弘について来たがる。朝起きた時、夜にはいなかったはずのオスカーがベッドに忍び込んでいる環境にも、この数日で慣れてしまった。
「よければ一緒に行ってやってください。歩いてれば勝手について来ますから」
「え?でも、リード…」
「近所や公園なら付けない人が多いので大丈夫ですよ」
そう言われ恐る恐る歩き出すと、ルイの言う通りオスカーは半歩後ろをついて来た。孝弘はなんとなく後ろを気にしながら、ルイのざっくりとした道案内を頼りに足を進める。
しかし、暫くして見慣れない道に出てしまい、立ち止まっては辺りを見渡す。この国での一人歩きは初めてでもないけれど、決して慣れたわけではない。これは完全に迷子だ。携帯電話の翻訳機能を使い、近くの人に聞こうかと考えていると、足元にいたオスカーが突然駆け出した。弾かれたように振り返った孝弘は、駆け寄るオスカーに身を屈めた一人の男性を捉える。
「C'est Oscar après tout. Je suis avec un mari inhabituel aujourd'hui.(やっぱりオスカーだ。今日は珍しいご主人と一緒だね。)」
男性に撫でられ尾を振る姿を見るに、面識があるらしい。そして孝弘と向き直った男性は、その容貌を頭の先から爪先までなぞった。
「孝弘さん」
「え?」
「正解?」
小首を傾げた男性は得意げに破顔した。明るいブロンドの髪は夏の日差しに照らされ、毛先に星屑を散らばしたように見えた。目元から鼻の頭に刻印された淡いそばかすの斑点が、涼やかで健康的な印象を与える。
「日本語、話せるんですね」
ポツリと呟いた孝弘に、男性は人差し指と親指で小さな物を摘むような仕草をして見せる。少しだけ話せるという謙遜らしい。
「でも、その喋り方は難しいからやめてほしいな。友達みたいに喋って」
彼が指す喋り方とは、敬語のことだろうか。確かフランスに来てすぐ、ノワにも同じようなことを言われた。過度な謙りや敬語は、日本語が話せる相手にでも会話をややこしく感じさせるだけだと。
「もしかしてルイの友達?仕事仲間とか?」
自分のことを知っているのだから、孝弘は垣原家に所縁のある人だと思った。だが、そんな予想とは裏腹に男性が首を横に振る。
「ノワの元カレ」
「嘘、違うな」
即座に言い切ると、男性は拍子抜けしたように閉口した。
「顔がノワの好みじゃない」
ノワは孝弘に負けず劣らず性癖を拗らせていて、特に容姿の好みが分かりやすい。こんな明らかに好青年といった雰囲気の男性は対象であるはずがなかった。マルシェで偶然ぶつかった男性とは何かあったらしい反応をしていたが、あれこそノワの元カレな確信がある。
「そうだ。近くに向日葵が有名な場所があるって聞いたんだけど、知ってる?」
孝弘は本来の目的を思い出し、努めて簡単な単語を選び質問する。
「あぁ、ここの近くだね。教えてもいいけど……少しカフェに付き合ってくれたら教えてもいいよ」
そんな返しに今度は孝弘が瞠目した。面白がるように口角を釣り上げた男性の、その視線をどこかで見た気がするのは孝弘の思い過ごしだろうか。
「どういうつもり?」
「ナンパ」
「はぁ?誰だよ、そんな変な日本語教えた奴」
軽口を叩くわりに適当には感じられない態度が気にかかり、孝弘は男性に誘われるがまま、近くのカフェへ入った。木下闇で陰るテラス席で、夏の心地いい風が二人の襟足を抜ける。
「夏はみんなこれ。夏のフランスに来たらこれを飲まないと」
そう男性が勧めたのは、見るからに涼しげな飲み物だった。グラスの中は向日葵を溶かしたように澄み、沈んだミントの狭間で炭酸が弾ける。軽く掻き混ぜストローの先端を吸った瞬間、孝弘は全く予想していなかった衝撃に口を離した。
「酸っぱ…!」
レモネードに近い味を想像していたが、比べものにならないほどの強い酸味をしていた。孝弘の反応は男性にとって予想通りだったらしく、面白そうに笑い声を発した。曰く、グラスの三分の一はレモン果汁とのこと。ミントの清涼感も相まってその酸味は鋭利ですらある。
「普通はシロップを入れて飲むかなー」
「それを先に言えよ」
孝弘は一言文句を言ってシロップを追加した。それでも強い酸味は健在だったけれど、決して嫌な酸味や清涼感ではない。
「俺のこと、なんだって聞いてる?」
ストローでグラスの中を軽く掻き混ぜ、孝弘は恐る恐る問いかけた。
「親戚のお兄さん。ノワと仲良しなんでしょ?」
ざっくりとした情報に、やはり詳しくは聞いていないのだと悟った。先程は結局、この男性も正体をはぐらかしたけれど、本当のところは一体誰の何なのだろうか。
「ノワが凄く夢中だから、どんな人なのか楽しみだったんだけど…。随分と可愛い人だったね」
孝弘は言葉の端に滲んだ、僅かな歪を見逃さなかった。男性に対しても可愛いは褒め言葉として通じるけれど、今の言い方は明らかに違う。嘲笑や見下しとはまた異なる、面白がるようなそれだった。
「馬鹿にしてる?」
細めた目で睨みつければ、男性は緩く首を横に振った。否定はしたけれど、果たしてどこまでが本当なのか。孝弘は途端に目の前の男性が胡散臭く感じた。
「ノワみたいなタイプが好きだろうなーって思ってるよ。僕も好きだし」
その好きはどっちの好きなのだろう。ノワとの関係を本当は知ってるのではないか。自身のことをどこまで聞いているのか。一度疑い始めたらキリがない。孝弘は彼の言葉に裏があるのではないかと全てを怪しく思い始め、注がれる視線の既視感を強く感じていた。
「幸せになる覚悟がないのは、欲張ってどちらかを失うのが怖いから?」
遠回りをしない男性の日本語は簡潔で、憎いほどに痛い所を突く。孝弘は交換留学で来日したノワを一度は突き放した。そして今は、仕事から距離を置いて西の片田舎に渡仏している。仕事と私生活、両方を抱えることを今までしたことがなかった。大事なものを多く抱えてしまったら、身動きが取れなくなるのではないかと、もしもの瞬間が酷くて仕方がない。
「Marc, qu'est-ce que tu fais ?(マルク、何してるの?)」
二人の静寂を破ったのは、ピリつくこの場とは正反対な声だった。孝弘が顔を上げると、垣根から姿を現したレオが立っていた。
「Une histoire pour adultes.(大人の話)」
マルクと呼ばれた男性がにこりと笑えば、レオの表情が不服そうに顰められる。
「孝弘はいつまでこっちにいる?」
「え?あぁ…明後日、かな。夜にリヨンの空港から帰る」
「分かった。道案内の約束だったね。ここを左に行って坂の下だからすぐ分かるよ」
マルクは思い出したように言い、足元のオスカーに声をかけた。オスカーは伏せていた体を持ち上げ、歩き出したマルクとレオの後ろを追いかける。どうやらここから先は一人で行けと言うことらしい。孝弘は椅子の背凭れに深く背を預け、同時に息を吐いた。
木下闇作る樹木を見上げ、どれほどそうしていただろうか。溶けた氷で上澄みの薄まった炭酸を飲み干し、孝弘はゆっくりと腰を上げた。そのまま説明通りの道を行くと、間も無くして民家が途絶えた。緩やかな坂の頂で、孝弘は開けた視界に歩みの忘れ方を知る。
足が止まり、呼吸が止まり、瞬きすらも。地平線まで続く向日葵を前に、思考も何もかもを掻っ攫われた。夏風が唸り、向日葵の群れが一斉に波打つ。
(なるほどな)
あれだけ理解が出来なかったノワの言葉が、孝弘の脳内で木霊した。自分が背景の一つとなり、世界から忘れ去られたような感覚。どこまでも続いているのではないかと錯覚する道を、孝弘は吸い寄せられるように辿った。風の音しか聞こえないような中、遠くから名前を呼ばれた気がしたのは、孝弘が向日葵の中程まで埋もれた頃。踵を返し、こちらへ向かって走るノワを見つけた。
「こんな所でどうしたんですか?」
ノワは徐々にスピードを落とし、孝弘の前で立ち止まった。
「向日葵が綺麗だって聞いて…。そしたら、ノワの知り合いにも会ったから」
訥々と経緯を話すが上手くまとまらず、日本語として些か不自然な返答になってしまった。
「もしかしてマルクですか?」
「多分そう。ノワの元カレとか言ってたけど」
「ただの父さんの知り合いです。カメラが趣味らしくて、写真で孝弘さんを見た時から撮らせてほしいってしつこいんですよ」
「そっか」
「多分断られるとは言ったんですけど」
「そうだな。事務所に怒られるから難しいかも」
「ですよね」
ノワが首を竦めて笑い、孝弘はその薄らと浮かんだ汗で額に張り付く前髪を払った。もしかしたらこの青年も、孝弘に幸せになる覚悟がないことを察しているのだろうか。
「ノワは…」
言いかけ、孝弘はこの質問をすべきか迷った。これを口にしまったら、首輪であるそれが彼の足枷になってしまう。そう思い何度も喉元まで出かかっては飲み込んできた質問。けれどそれは、自身の勝手な思い込みなのかもしれないと、孝弘は最近になって思い始めた。
「ノワは、この国の方が生きやすい?」
あと数える程もしない内に、孝弘は一人で日本へ帰らなければならない。この温もりを連れて帰ることは叶わないのだ。自分は仕事を捨てられないくせに、相手には変化を求める身勝手さ。孝弘はこんな重しを足枷として与えたくはなかった。
「別に大した所でもないですよ」
孝弘の悲痛さの滲んだ声色とは裏腹に、ノワはあっけらかんと言い切った。
「宅配便は指定通り届かないし、歩きタバコは多いし、バスはよく遅れるし、住んでみたら全然絵本でもなんでもないです」
躊躇いもなく挙げられる欠点に孝弘は微笑を洩らした。この地を踏んで初めて知る面もあって、不便だと思った場面が一度もなかったわけではないが、そんなのはきっとどこの国でも同じだ。ただ、孝弘が息の仕方を思い出せたように、ノワにとっても何かがあったに違いない。
「俺も一つだけ聞いてもいいですか?」
わざわざ前置きをしたノワの声は、心なしか低く落ち着いて聞こえた。
「孝弘さんは俺と仕事、どっちが大切ですか?」
安っぽいドラマで使われるような、そんな陳腐な質問がこうも重たいのだと初めて知った。すぐに答えを出せない孝弘に、ノワは決して悲しい顔はしなかった。寧ろ納得した面持ちを見せる。
「嘘でもなんでも、お前の方だって言えば孝弘さんにとって都合がいいのに」
悪い男の名が呆れる反応だと言われた気がした。あれだけその売りで名を馳せてきたくせに、この青年相手では容易く掌で転がされる現実。憧れる姿のままでいたいのに、孝弘はみっともなく縋る己の方が容易に想像が出来た。
「孝弘さんは俺を手放せても、きっとその仕事は捨てられない」
「そんなこと…!」
「いえ、絶対に。仮に俺との関係で仕事に影響が出そうになったら、真っ先に別れ話をするはずです」
綺麗に言い切ったノワの言葉が全てだと思った。そしてこんな状況にも関わらず、こうも人の視線を惹きつける理由を、孝弘は日差しを浴びた瞳の中に見つけた。日差しを浴びたノワは瞳の中に向日葵を咲かす。日本にいた頃は夜に会ってばかりで、コンクリートのビル群に囲われ、ずっと知らずにいた。
夏の魔物に誘われ、孝弘はもう戻れない所まで来てしまっているらしい。
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