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それは初めてこの地を踏んだ時と同じ、突き抜けるような空模様の日のことだった。降り立った駅でキャリーケースを片手に、孝弘は構内の案内図を探す。帰国の際はノワも見送りに来てくれる予定だったのだが、大学の用事が入ってしまったとのことで、空港へ向かう前に寄るリヨンで落ち合う約束をした。
(都会は大抵英語が通じるってノワは言ってたけど、こんな知らない所に放り込まれて大丈夫か…?)
空港までキャリーケースを運んでもらう手続きを駅で済ませ、周囲を取り巻く皆目見当もつかない会話に孝弘は心細さを思い出した。しかし、人の流れに任せて外へと出た途端、開けた視界に息が洩れる。フランスの第二の都市と言われるだけあって、街中は随分と活気があるようだ。
(確かにこれは癖になるのも分かるか)
自分が背景に溶け込む感覚を今まさに感じながら、孝弘は目的地のクロワルースへと足を進めた。そこが学生時代に見た古い映画のモデルと知ったはついこの間。トラブールという小道を巡る散歩コースがあり、壁に埋め込まれた掌サイズの石板を辿る場面を今でも覚えている。
(あの時は何でその映画を見たんだっけ…?)
恋愛を交えた犯罪サスペンスなんて、明らかに万人向けではない作品。地上波とは考え難い。孝弘は映画と同じライオンの描かれた石板を前に自問し、間も無くして自答に繋がった。
(思い出した。実家の棚に円盤があったんだ)
両親とは顔貌ばかり似て中身は欠片も似ていないと思っていたけれど、どうしてだか昔から両親とは映像作品の好みが合う。子供の頃は一人きりの家で、棚に陳列された映画やドラマをよく観ていた。
孝弘は不意に思い出した過去を振り払い、石板の上に書かれた矢印の方向へと進む。トラブールは人一人通るのがやっとの小道ばかりで、建物の中庭へ繋がり、石造の階段を辿って別の表通りに繋がる。映画では迷路のようにしか見えなかったけれど、実際に自分の足で歩くと、現地に住む人々の日常が垣間見えた。道順を示す石板を追い、再び通りに出た孝弘は、顔に差した夏の日差しに目を細める。視界に映ったとある光景に思考が停止したのは、まさにそんな時だ。通りに面した店から見覚えのある人物に手を振られている気がするのは、孝弘の勘違いだろうか。
「やっぱり孝弘だ」
手招かれるがまま入った店で、カウンターに座るマルクが白々しく言う。
「運命だね」
「嘘つけ。ルイか?いや、レオに聞いたろ?」
トラブールの話をした場にいたのはその二人だけなのだから、どうせどちらかに聞いたに違いない。しかし、孝弘が棘のある態度で詰め寄っても、マルクは潑剌と笑うだけだった。
「怒らないでよー。ここ、コーヒーが美味しいんだ」
隣に座るよう促すマルクに、孝弘は渋々腰を据えた。ちょうど少し歩き疲れていたなんていうのは言い訳でしかなくて、名前以外に素性の分からないこの男性の引力に引かれている所がある。注文したカフェオレが届き、孝弘は先程から気になっていた店内を見渡した。ショーウィンドウは通りに面し、一摘みの宝石の姿をしたお菓子が売られていた。大瓶に詰められ、雑多に量り売りされるカジュアルさから大衆向きなことが伺える。
「なんだっけ、こういうの…。パティスリー?」
「コンフィズリーだよ」
マルクの訂正は孝弘にとって初めて聞く単語だった。生菓子や焼き菓子といった物が見られない点が、店の呼び名を分ける境目なのだろうか。
「キャラメルとかショコラをまとめてそう呼ぶから、売る店も同じに呼ぶんだ。フリュイコンフィを置いてる店は珍しいけど」
マルクが差したのは、カウンターで量り売りされるドライフルーツのような物らしい。それを売る店が珍しいと言われる理由が分からず、視線を向けたままの孝弘に、店員の男性がカウンターの内側からトングで掬った一粒を差し出す。
「Vous n'aimez pas les abricots ?(アプリコットは嫌い?)」
「孝弘、アプリコットは食べない?」
「いや…普通に好き。merci.」
お礼を言って受け取ったそれは一回り大きいビー玉サイズ。素手で触れても違和感がないほど表面が乾燥していた。
「甘っ」
口に含んだ直後の感想はそれに尽きる。孝弘の素直な反応にマルクは笑い声を上げた。前にカフェでレモンとミントの飲み物を教えてもらった時もそうだが、この男性は人に初めての物を与え、その反応を見るのが好きなのだろうか。
「フランス人はみんな甘いものが好きだからね」
「でもなんか、甘いだけじゃなくてフルーツの味もちゃんとする。砂糖漬けとは違うような…」
「砂糖で煮て乾燥させる、昔からの作り方なんだ。お酒と一緒に食べる人もいるよ。日本では作れないものだから面白いでしょ」
「えっ、なんで?」
「フランスは日本と違って、夏でも空気が乾いてるからね」
「なるほどな。湿度の問題か」
せっかく面白い物を教えてもらったというのに、どうやらこれもフランス特有らしい。
「孝弘はなんでフランスに来たの?」
それはあまりに脈略のない質問で、孝弘は咄嗟に反応が出来なかった。無言で顔を向けると、マルクはカウンターに頬杖を着いたまま小首を傾げる。
「旅行なら有名な場所とか物をもっと知っていると思うから、何しに来たのかなって。仕事?」
相変わらずこの男性は鋭い。浮遊するかのような軽い言動をしていたかと思えば、時折その意味深な視線がこちらの深層を探る。
「逃避行」
「なにそれ」
単純な質問返しに、孝弘は頭を軽く殴られた心地だった。マルクにも伝わるように話すには簡単な言葉を選ぶ必要があって、孝弘からしてみれば、自身の不甲斐なさを明確に言語化する行為だ。ただ、これは決してマルクが悪いわけではない。ずっと目を逸らし続けてきた状態を、漸く目の当たりにする時が来ただけのこと。
「仕事と私生活のどっちを大切にしたらいいのか分からなくなったんだよ。好きな仕事をしているつもりなのに、その仕事がどうしても私生活を自由にさせてはくれない。どっちも諦めることが出来なくて、悩んで、遠いどこかへ行ったら一瞬でも楽になるんだと思った」
半ば投げやり気味に言い捨てた孝弘は、自分がそうしたことに後になって気がついた。だが、恐る恐る目をやったマルクは決して気分を害した風ではなくて、疑問を抱いた子供のような純粋な目を瞬かせる。
「そんなだから可愛いって言われるだよ」
「あ"?」
軽く転がされた返答に、孝弘は低音の疑問符で圧を与えた。馬鹿にするのも大概にしろと思ったが、マルクの物言いから言葉の裏にいる人物が透けて見えた気がした。その表現は身近な人間、正確にはノワの口から移ったものなのではないかと。ノワが孝弘の言動を可愛いと言っていたから、同じ表現をしている可能性がある。
「どっちも欲しいでは駄目なの?欲しがりで何が悪い?」
少しばかり声のトーンが落ち、マルクは心底不思議そうに続けた。一見は好青年でいながら、飄々と言葉巧みに人を掌で転がし、そして今度は俯瞰的に目を細める。孝弘がマルクに引かれる理由はその多面性だった。
「君たちにとって欲がないのは最高の美徳かもしれないけど、僕からしてみれば最高に勿体無いね」
言葉の端に少しばかりの皮肉と敬意を混ぜ、伏目がちにしたマルクはコーヒーに角砂糖を落とす。好青年の風貌に隠した危うさが無性に欲しくなって、孝弘の喉が無意識に鳴った。
「孝弘が欲しくなかったそれもこれも、誰かにとっては代え難く欲しいものだったりして」
カップの底からスプーンが抜かれ、マルクは湯気の漂うコーヒーに口を寄せる。その物言いに孝弘は微かな寂寥を感じ取った。まるでマルク自身が嘗て孝弘と同じ境遇にいたかのような、決して他人事ではない口調。
「マルクってさ…」
「ん?」
「実はかなり日本語上手いだろ」
マルク同様に数秒前の会話など無視した発言をすれば、豆鉄砲を食らった顔が間も無くして破顔した。所々の発音は別としても、マルクは日本人と遜色ないレベルで言葉を選び、文章を繋ぐ。もしかしたら謙遜しているだけで、もっと日本語が上手いのかもしない。
「さて、どうだろうね、これ以上孝弘を独り占めしていると飼い主に怒られるから帰ろうかな」
「はぁ?どういう意味だよ」
立ち上がったマルクにすかさず指摘を入れれば、悪びれもせず微笑を刻まれた。そして彼が指差す窓の先に、店内を覗くノワを見る。
「またおいでよ。今度は僕の好きなワイナリーを案内するから」
マルクは撫でるように軽く手を振り、颯爽と店の外へと足を向けた。ドアを開けたノワと入り口付近で少しばかり話す背中を見たけれど、フランス語で交わされる二人の会話は店内の雑音に紛れてしまった。
「お待たせしました。孝弘さん、マルクと一緒だったんですね」
「うん。たまたま会ったから」
彼の言う偶然を信じたわけではないが、それ以外の説明が思いつかない。孝弘の頷きの後、ノワは腕時計の文字盤を一瞥して思案する素振りを見せた。
「まだ空港に行くには早いですよね」
「え?あぁ…そうだな。なに、どっか行きたい所ある?」
「孝弘さんに見せたい所があるんです。少しだけいいですか?」
そう言ったノワは、店から少し歩いたトラブールへと孝弘を連れた。通りから一歩奥まっただけであるはずなのに、喧騒から一枚壁を隔てた静けさが立ち込める。ノワは四方を建物に囲われた吹き抜けの中庭から、六階建ての建物へ伸びる階段を上り始めた。
「なぁ、ここ住民以外立ち入り禁止とかじゃ…」
明らかに入り込んだ雰囲気に不安を口にすると、歩くスピードを緩めたノワが顔だけを振り向かせる。
「住民なので大丈夫ですよ」
予想外な返答に孝弘は閉口した。先を歩くノワが一つの部屋の前で足を止め、鞄から鍵を取り出す。部屋番号と錆びついたドアノブだけの、簡素な玄関先だった。
「大学を卒業したらこっちに引っ越す予定で、早めに押さえてもらっているんです。フランスは一人暮らしの部屋が少ないので」
ドアを開け、視線で入室を促された孝弘はゆっくりと足を踏み入れた。中はテーブルもカーテンも、何一つとして物がない殺風景な空間だった。奥の横長な窓から日が差し、見上げた天井は一般的な住居に比べて随分と高い。
「天井が高いでしょう?」
見上げた孝弘の思考を読み、ノワも同様に上を向いた。
「絹産業が盛んだった地区なので、機織り機を置く為にこの辺の建物の多くは天井が高く作られているんです」
話しながら窓辺に寄ったノワが窓を開けると、乾いた夏の風が吹き込んだ。日本と異なるその質感や香りが、今の孝弘には無性に離れ難い。部屋を借りたということはつまり、就職もこの地ですることを指す。そんな現実に何も思わないわけではないけれど、孝弘はこれ以上の我儘を言うことは出来なかった。仕事と恋人を天秤にかけ、仕事を捨てられないのは自分なのだ。例えこの先、再び呼吸の仕方を忘れたとしても、それは己の未熟さでしかない。
「そう言えば、さっきマルクから孝弘さん宛に封筒を預かって…。別れ際に渡せって言われたんですけど、別れ際ってどのタイミングなんですかね」
窓の淵に凭れ、ノワは思い出したように一通の封筒を取り出した。
「俺に?マルクが?」
差し出された封筒に孝弘は疑問符を浮かべ、取り敢えず受け取ってみる。わけが分からないまま封を切り、指先で少しずらした中身に動きを止めた。
「あいつ、まさか勝手に撮りやがったな?」
どうやらそれは数枚の写真らしく、小声で吐いた疑いにノワが隣で小さく吹き出す。写真を撮りたがっていることはノワから聞いていたけれど、まさか遠方から無断でなんて誰が考えただろうか。また会う機会があれば、文句の一つでも言ってやろうと考えながら写真を取り出す。そして、孝弘は数秒前の思考も置き去りに呼吸を浅くさせた。
「これ、俺か?」
無意識に溢れた疑問はあまりに滑稽だ。写真に閉じ込められたのは、向日葵畑に埋もれる数日前の孝弘自身。他人の空になどあるはずがない。そう頭では理解しているのに、可笑しな表現ではあるけれど、写真に写る男性が孝弘にはとても自分とは思えなかった。まさか自分が、目眩く穏やかさを纏うことが出来るだなんて。
「そうか…。俺はこういう顔をするのか」
口から溢れた安堵は語尾が微かに震えていた。物心ついた頃から周囲によって与えられたレッテルは、容易に剥がすことが出来なくて、いつの間にか孝弘自身がレッテルを貼っていた。確立されたイメージを逆手に取ったつもりで、自分自身を抑え続けて。そんな孝弘の深層に触れてくれたのは、幼い頃のノワだったのかもしれない。孝弘は隣から繋がれた手に顔を上げ、軽く引かれた腕に上体を傾けた。
「この国の片隅が、孝弘さんにとって遠いどこかであることを忘れてしまわないように」
耳元へ口を寄せ、内緒話でもするかのような囁き声が掌にこもる。解けた手に残された鍵を見て、孝弘はその言葉の意味を理解した。狡いだなんて一言では到底足りない。きっと自分は、この青年の手に飼い慣らされ続けるのだと孝弘は思った。
「いつの間にこんな悪い男になったんだか」
「孝弘さんにだけは言われたくないです」
無垢な目を瞬かせる、故意かどうか分からない様が罪であり、甘い毒だった。
「なぁ、ノワ」
「なんですか?」
「好きだよ」
孝弘が初めて口にしたあまりに純な言葉。本当に可笑しな話だ。日本で再会をするよりも前から、二人の間では何もかもの順序が逆だった。
「俺も、孝弘さんが好きです」
瞳に咲く向日葵が従容と微笑み、今更すぎる感情が孝弘の首を締める。その息苦しさや重みを愛と呼ぶことを、孝弘はずっと知らずにいた。日本から遠く離れたこの地には湿った夏風も、喧しい蝉時雨だっていない。ただ繋いだ手の熱さだけが、あの夏の夜から変わらずにいた。
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