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二週間も離れていないはずの日本の夏は、随分と蒸し暑く感じた。孝弘は一度帰宅をした部屋に荷物を置き、今日の撮影場所が変更されたという野田からの連絡を見る。タクシーで向かった建物で合流した野田にも、妙な久しさを感じた。 「お帰りなさい」 「どうも」 なんと返すべきか迷い、どことなく素っ気ない返事になってしまった。それでも野田は少しも気にしていないらしく、早速と言わんばかりに一冊の雑誌を取り出した。 「帰国早々に申し訳ないのですが、一応耳にお入れしておきたい話がありまして」 そう野田が差し出したのは、日本ではかなり一般的な週刊誌。幸か不幸か孝弘は、主に熱愛疑惑の報道で常連となりつつある。大凡また木崎との熱愛疑惑かなんて考える孝弘が目にしたのは、そんな使い古された情報ではなかった。 「後ろ姿からして垣原くんだと思います」 これはヘルシンキ空港でノワと落ち合った所だろうか。癖毛のハーフアップは後ろから見ると、女性に見えなくもないというのが正直な感想で、身長が一八〇を越える孝弘と並ぶとノワが些か小さく見えるのも条件が悪い。 「いつものことですけど、この程度では今更炎上もしないので、休暇中にわざわざ連絡はしませんでした」 「お気遣いありがとうございます。でも、木崎さんとの記事といい、最近はもうネタ切れなんですかね?俺のこんな写真の一枚や二枚が出てきた所で、世間は何も驚かないでしょうに」 そんな感想に野田も同意らしく、静かに苦笑された。 しかし、週刊誌を閉じた孝弘は、心の中で〝でも〟と言葉を続ける。小坂たかひろに嫌悪感がある人間ならば、きっとこんな些細な写真一枚で更に不信感を募らせる。孝弘は漸く日本に戻ってきた気がした。こんなことで自国の感覚を思い出したくはなかったけれど、纏わりつく周囲の視線が身に沁みる。 (こればっかりは自分の過去の行いが悪いからな) 孝弘がそのまま控室までの廊下を進むと、東の旧友で映画監督の新島を見つけた。どうやら立ち話の最中らしく、孝弘の存在に気付いた新島は相手の肩口から顔を覗かせた。男性が振り返った瞬間、孝弘は思わず歩調を緩める。 「えっ、マルクなにしてんの?」 咄嗟に出た言葉はそれだけだった。振り返ったマルクは驚く孝弘を他所に、満面の笑みで手を振る。まるで孝弘がここに来ることを知っていたかのようだ。 「小坂さん、クロードさんとお知り合いだったんですか?」 新島の驚いた反応に、孝弘はますます分からなくなる。ここが関係者しか立ち入らない施設である上、映画監督の新島と知り合いだなんて、マルクというこの男性は一体どこの誰なのか。 「知り合いというか…」 言いかけ孝弘は、新島がマルクを指す際に読んだ名前に一人の人物を思い出した。世界にその名を轟かせながらも、素顔を晒さない風景写真家の男がいた。仕事では決して人物を撮らず趣味と明言していて、業界でもその姿を見た者は数少ない。 「もしかして写真家の…?」 「せいかーい」 「はぁ?!お前、名前全然違うじゃん!」 「違わないよ。マルクはミドルネーム。僕はファーストネームが二個あるから、クロードはファーストで、マルクはミドルね」 初めて聞いた仕組みに、この男性がフランス人であることを再確認した。マルクが写真家であるなら、ノワ経由で渡された写真が素人作品に見えなかったのも納得がいく。 「もしかして、この間の週刊誌の記事は撮影で行った時のものですか?」 新島の質問に孝弘は弾かれたように顔を向けた。しかし、何かを言うよりも前にマルクが口を開く。 「そうだよ。一緒に写ってたのは僕の知り合いの男の子ね。孝弘を撮りたくて来てもらったんだ」 淀みなく出る誤魔化しに孝弘は呆れると同時に、心の隅で感心した。根本の所は嘘であるけれど、強ち間違いでもない所為で信憑性がある。 「でも…そっか、東さんは孝弘のこと要らないんだ」 まるで独り言のように溢されたマルクの言葉。大凡、東が孝弘を毛嫌いしている話を聞いたのだろう。 「なら、僕が貰っちゃおうかな」 好都合と言わんばかりに微笑むマルクに、なんて狡いことを言うのだと思った。挑発的な態度を新島に見せつけ、この場での判断を煽る。 「ねぇ、孝弘のマネージャーだよね?」 マルクは新島に背を向け、野田に一歩足を進めた。 「孝弘と仕事がしたいんだけど、僕の話聞いてくれる?」 「も、もちろんです!是非!あっ、僕の名刺を…」 「待ってください!」 意気揚々と頷いた野田の言葉を遮った声に、場が静まり返った。三人の視線に晒され、新島は漸く決心したように表情を固める。 「今度、主演のオーディションがあるんです。東くんは独断で小坂さんを選考から外した作品で…。もしよければ、参加していただけませんか?責任は僕が持ちます」 それは孝弘や野田にとって予想してなかったものだった。新島は東と対等な立場から発言をするけれど、彼の頑固さにここまで関与することはなかった。孝弘が横目にマルクを見ると、口角を釣り上げた彼と目が合う。ここから先は自分次第だとでも言いたげなそれだった。 後日、オーディション会場に向かった孝弘は、初めてまともに東と対峙した。俯瞰するような視線に震えたのは緊張だけではない。実の所を言えば確かな楽しさがあった。自分を手放せても、その仕事は捨てられないと言ったノワの言葉が孝弘の脳裏を過ぎる。 (ごめん。やっぱりノワの言った通りかもしれない…) 本人に届きもしない謝罪が心の中で落ち、こんなどうしようもない男を愛した、どうしようもない彼を笑う。オーディションの結果が出た時の野田の喜びようといえば、孝弘本人より大きかった。孝弘も喜んでいなかったわけではないが、確信があったと言った方が正しいだろうか。ただ、関係者と顔合わせをする席で新島が孝弘の元へと現れ、質問を投げかけてきた時は流石に返答に迷った。 「あの人、小坂さんの演技を見た時になんて言ったと思いますか?」 新島からの質問に孝弘は考える素振りをした。今回のオーディションで手応えはあったけれど、彼の心境までは図りかねる。 「隼人はこういう顔をするのか、って」 「えっ?」 「そこにいる男性が小坂たかひろではなくて、役名の新井隼人だと思っているんです。彼自身が誰よりも、その無意識な発言に驚いていました…。彼を許してやってほしいとは言いません。けど、僕は彼と貴方が携わった作品をずっと見てみたかった」 念願が叶ったという口ぶりをした新島の視線の先には、会議室のドアから入室する東がいた。東は新島の隣に立つ孝弘に気付き、複雑に表情を歪める。しかし、ゆっくりと孝弘の元へと足を進め、二人は真正面から対峙した。一度は二世芸能人だからと、全く相手にしてくれなかった人。許せないなんて、そんなことは思わなかった。彼の食わず嫌いは、作品を愛するが故の色眼鏡なのだ。 「申し訳ないことをした」 飾らない謝罪に孝弘は少なからず驚いた。二世芸能人を毛嫌いする姿があまりに印象的で、演技に関しては認めてもらえても、恐らく人間性の面ではまだ嫌われたままであると思っていた。 「僕は随分と浅はかな考えでいたらしい。謝って許されることではないけれど…」 「なんのことでしょう?僕は東さんの仰る通り、親の名前で有名になった程度の人間で、大した俳優ではありませんから」 嫌味ったらしいその物言いに東を目を見開き、硬直する。視界の端で周囲の人間が驚いていることに気付いていたが、孝弘は決して馬鹿にしているわけではない。寧ろ、感謝こそしていた。 「だから、東さんのお名前もお借りしに来ました。あの東さんが起用した二世芸能人なんて、その話題性はひとしおでしょう」 東が呆気取られたのも一瞬。間も無くして、してやられたように笑った。 「悔しいな。君には負けたよ」 そう言いつつ、清々しいとも取れる不思議な物言いだった。日本から離れた遠いどこかの国で、孝弘はどちらも手放さないと決めた。無欲が美徳とされる世の中で、強欲になる覚悟を決めたのだ。東が監督を務める作品に出演した影響は、上映が開始するよりも前から出始め、次の初夏に差し掛かる頃にはすっかり波紋を広げていた。 「最近、異性関係の話題がぱったりなくなった小坂たかひろさん。密かに結婚したのではとの噂もありますが…と、少々踏み込んだお便りが届いていますね」 ラジオのパーソナリティから振られた話題に、孝弘は短小な笑い声を洩らした。 「世間の方々が喜ぶような話題はないですね」 「では、私生活で何か変化でも?」 更に踏み込まれた質問に孝弘は少し視線を落とした。この声は海を越えることが出来るかと考えるのは、私情が過ぎるかもしれない。それでも、彼が自分を思い出す発端になればなんて願ってしまう。 「親戚に……昔から仲の良い年下の男の子がいるんですけど、久しぶりに会ったその子に言われたんです。こんなどうしようもない男になってるなんて、笑い話にもならないって」 間違いなく自身にお似合いの言葉だと孝弘は思っていた。こんな不甲斐ない大人に憧れる価値はない。そう自覚しているのに、あの真正面から射抜くブルーグレイの目を愛し、飼い慣らされてしまった。 「大勢の大人から疎まれるより、ちっちゃい子犬に懐かれない方がショックが大きいみたいな…。そんな感じです」 「悪い男の筆頭と言われる小坂さんにしては、随分と純情なエピソードですね」 「純情ですよ。元々」 前は殆ど来なかった純愛の映像作品や、温かみのある役どころが増えた。それは東が監督を務める映画が放映された直後から。 「まぁ、今の話を信じるか信じないかはお任せします」 先程とは打って変わって冗談じみた声で笑えば、パーソナリティの男性が笑い声を上げた。 「視聴者の皆さん騙されないでくださいねー?!これが小坂たかひろの手口なんですからぁ」 どっと湧いた空間に孝弘もつられて笑う。東の作品に起用されたのも、新島が進言してくれたからで、それもまた著名な写真家の一言がものを言っただけ。結局、親の名前が付属することと大した差はないのかもしれない。それでも、今は遠い地でマルクが発した言葉が、孝弘の抱える嫌悪感を希薄させる。 孝弘が欲しくなかったそれもこれも、誰かにとっては代え難く欲しかったもの。親から受け継いだこの容姿も、注目を集めるきっかけも、ネームバリューも。孝弘は生まれ持ったものを疎むことをやめた。 今まで以上に増えた仕事で、連絡こそすれノワと直接顔を合わせることもないまま月日が流れる。孝弘が再びその地を踏んだのは、逃避行をした時と同じ夏の乾いた風が吹く頃だった。 「この感じだと明日の昼まで待機ですね…。小坂さん、一旦ホテルに戻られますか?」    野田の質問に孝弘は弾かれたように顔を向けた。そして携帯電話で交通手段を調べ、明日の昼までの時間を頭の中で思い浮かべる。 「すみません。ちょっとリヨンに行ってきます」 「は?」 「明日の昼までには戻るので」 「ちょっ、小坂さん?!なんでまたそんな急に…!」 「マルク。俺ここ離れてもいい?」 撮影機材を整理していたマルクを振り返れば、彼はどこか面白がるように口角を釣り上げた。 「わんちゃんによろしく」 意味深な笑みと共に軽く手を振られ、察されていることに若干の苛立ちを抱きながらも、今は言い返す時間が惜しい。孝弘は適当に荷物を集めると最寄りの駅へ急いだ。 目的地の街並みはぼんやりとしか覚えていないけれど、道順はトラブールの石板が教えてくれる。人一人通れるだけの細い道と、奥まった建物の階段。部屋番号だけのドアを前に鍵穴へ差した鍵を捻ると、微かな解錠音が鳴った。恐る恐る開けたドアの向こうに嘗て存在したのは、伽藍堂に差し込む夏の日差しだけだった。それが今は、僅かに開いた窓から風が吹き込み、薄いレースカーテンを揺らしている。孝弘はドアノブを握る手を緩め、ゆっくりと閉まるドアを背に部屋を見渡した。知らない置物や写真が部屋に増えている気がした。遠くで聞こえた話し声に微動し、孝弘は振り返った先のドアを見つめる。明確に内容が聞こえるわけではないが、会話の片割れが酷く懐かしい声に感じた。徐々に近づいて来る足音に、孝弘は視線を動かすことが出来なかった。 「Merci à toi aussi. S'il y a autre chose...(こちらこそありがとう。またなにかあれば…)」 ドアの向こうで発されるその声は、ある所を境に途切れる。鍵がかかっていないことに気が付いたのだろう。少しの間を置いて開いたドアに、孝弘は目元を緩ませた。 「孝弘さん!」 何年も離れていたわけではないのに、その容貌や声までもが懐かしい。日本の空港で再会した時とは違い、ノワは広げた孝弘の腕に飛び込んだ。記憶より伸びた毛先が尾を引き、腕の中に閉じ込めた肢体は夏の香りがした。孝弘を見上げたノワの手が襟足を抱き、戯れるように唇が重なる。  「孝弘さんに先越されちゃいました」 「ん?」 「冬に仕事で日本へ行く予定で、孝弘さんを驚かせたかったんですけど」 鼻先で悪戯っぽく笑う掠れ声が幼さを滲ませた。伸びた髪の所為で大人びたと思ったけれど、稚さを上手く溶かす彼はやはり夏の魔物だ。 「いつまでこっちにいるんですか?」 「明日の昼までにはブルゴーニュに戻る。スケジュールが詰まってたから元々はこっちに寄るつもりじゃなかったんだけど」 「もしかして、マルクが久々に連絡して来たのってその関係だったんですかね」 「マルクが?なんて?」 「今月の真ん中あたりはリヨンにいるのかって」 ぼんやりとしたその質問に、あり得る話だと双方が思った。彼のことだ。計算した上で今回の撮影スケジュールを組んだ可能性がある。 「でも、おかげで朝までは一緒にいられますね」 僅かに潜められた声の甘さは底なしに狡い。首筋を撫でる指先に誘われ、二度目のキスに溺れた。その瞳に咲く向日葵が閉じることを惜しく思いながら、ここには存在しないはずの鈴虫の幻聴さえ始まって、孝弘はまんまとこの夏の魔物に喰われてしまう。
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