後日談・1

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後日談・1

その空間は孝弘の知らない匂いがした。あれだけ喧しかったはずの蝉の鳴き声も聞こえなくて、寝起きの頭で薄暗い空間を見つめる。ベッドの縁に座り蓬髪を撫で付け、孝弘は漸くノワの元を訪ねていたことを思い出した。視線を彷徨わせた先でキッチンに立つ背中を見つけると、ゆっくりとした動作で腰を持ち上げる。 「わっ…!」 背後からその体を抱き寄せれば、少しばかり上擦った声が上がった。振り返り際、ノワの癖毛が孝弘の頬を擽る。 「おはようございます。孝弘さんって結構寝起き悪いですね」 肩口に顔を埋めた孝弘は、ノワの微笑に小刻みな振動を感じた。昨晩あれだけして早朝から動き回れるそっちが変なのだろと思いつつも、年の差を痛感するだけな気がして言葉にはしなかった。 「なんか美味そうな匂いする…」 「カフェオレの?」 「いや、ノワが」 脈絡もなく出たその発言に、ノワは不可解そうな顔をした。しかし、間も無くして納得したような反応を続ける。それは杏仁やココナッツを溶かしたような甘さと、シナモンに近い香辛的な刺激を混ぜた香りだった。 「今の孝弘さんも同じですよ。うちのシャンプーの匂い」 「そう?」 「はい。でも硬水だから髪が少し軋んでしまいましたね」 曰く、その匂いはフランスではかなり一般的なものらしい。シャンプーに限らず香水やフレグランス、果てはリキュールやチョコレートへのアクセントとしても使われるのだとか。この地では、文字通り食べてしまいそうなほどに美味しい匂いが好まれる。 「この部屋、ノワっぽくて安心する」 孝弘をそうさせる理由はきっと、日本を感じさせない環境や視界のもの全てだ。この国の周辺を詰め込んだような六畳半のワンルームは、孝弘にとって馴染みのない異国の産物が溢れ返っている。 「でも、元々狭いくせに物が多いから、そのうち床が抜けるかもしれません」 「確かにそれはそう。てか、昨日思ったけど玄関側の床なんか若干傾いてないか?」 「そうなんですよ。建物が古いですからねー。キッチンが狭いのは料理なんて大してしないからいいんですけど」 その発言に改めて見たキッチンには、コーヒーマシンと小鍋一つに多少の食器類。居住スペースとは異なり、キッチンばかりがこざっぱりとしていた。孝弘も人のことをとやかく言える方ではないけれど、普段何を食べているのか少し不安になるほどにキッチンに物がない。 「朝飯とかいつもどうしてんの?」 「朝は大体カフェオレとビスコットですかね」 カップを片手にノワが差したのは、戸棚に詰まった箱だった。パッケージを見るからにラスクのような物と思われる。 「朝からあんなん食ってたのか」 「え?だって、朝ですし。逆にカフェオレとビスコットを朝以外で食べる人なんて、なかなかいないですよ」 笑い混じりの返答を受け、孝弘は目の前の青年が日本から遠く離れたどこかで育ったのだと再認識した。その乾いた癖毛の匂いと同じ、日本では馴染みのない遠いどこかの色が滲む。 「冬に仕事で日本に来るって言ってたけど、もし余裕があれば日にち教えてよ」 「え、時間空けてくれるんですか?」 「野田さんが死に物狂いで」 半分本気で半分冗談の他人任せな発言に、二人は目を見合わせて微笑した。徐々に明るみ始める窓の外を見て刻限が迫っていることを悟った時、ノワは緩めた孝弘の腕の中で体を捻り、その襟足を引き寄せる。まだ日も昇りきらない空間で触れるだけのキスをした。 「見納め、みたいな?」 呆気取られた孝弘に悪戯な笑みが結ばれた。直後、してやられたと少しでも隙を見せた自分を恨む。子犬のように可愛がっていた再従兄弟が、生意気にも九つ年上の己を誘うのだ。きっと自身の心臓はこの首輪から伸びる手綱と一緒で、彼に握られているのだと孝弘は思った。しかし、やられっぱなしはやはり性に合わない。 「見るだけでいいわけ?」 シャツの裾から差し込んだ手で腰元の肌理をなぞれば、ノワが肩を跳ねさせた。咄嗟に身を引くがその後ろはもうキッチンの台で、紅潮した頬が孝弘を見上げる。 「でも、孝弘さん仕事に戻らないと…」 聞き分けのいいことを言いながらも、強くは拒否しない挙動が全てだと思った。 「説得力のない顔」 鼻先で笑えば、ノワの眉が八の字に寄った。孝弘は下ろされた髪に指を通し、少し熱いほどに体温を持った首筋に唇を寄せる。 「一回だけ…」 「一回だけな」 間も無くしてノワの小声が呟き、二人はまんまと欲に流される。誘ってきたのは相手だなんて罪をなすりつけ、一回で済まなかった時の言い訳を考えるどうしようもなさはお揃いだ。この国の夏は乾いた風が吹く所為で、蒸すような日本とは異なり恋人と離れる理由を作り損ねる。故に悪いのは自分ではないと、二人の中でまた一つ責任逃れが溢れた。
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