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「なんで最後までしなかったんですか?」
孝弘と一晩過ごした翌朝、ベッドに寝転んだまま振り返る勇気もなく問いかけた。
すると孝弘の指が後ろ髪を掬い、後頭部を淡く撫でられる。言葉のない返事にノワは静かに唇を引き結んだ。嫌いになれたら、幻滅が出来たのならばどれだけ楽だったろう。そうしたらこんな虚しさを抱えることもなかったのだ。
「あれっ、垣原くん髪どうしたの?」
いつもより家を出るのが遅れた所為で開始目前に着席したノワに、よく講義の被る女子が小首を傾げる。時間がなくて下ろしたままの髪を思い出し、なんと言い訳をしようかと。
「今日、寝坊しちゃってさー。ヘアゴム忘れたのに気付いたのも電車に乗ってからだったんだよね」
それは大凡間違いではない理由だった。かなり端折って誤魔化してはいるけれど。
「なら私の貸そうか?こういうのでよければ」
差し出されたヘアゴムは、淡いピンク色にシルバーの控えめな飾りがついた可愛らしい物。女性向けであることは明らかで、若干空いた間に相手は慌てて引っ込めかけた。
「い、嫌だったら全然…!」
「んーん、ありがと。助かる」
ノワはお礼を言って受け取ったヘアゴムを手に、いつものように髪へ指を通す。それで孝弘の手の感触を思い出してしまったのは不意打ちだった。梳いては撫で、吐息も感じる距離感で。現実味のないそれには否が応でも頬が熱を帯びた。長年抱えていた感情の結果があれだなんて、純愛に見せかけた色欲の間違いなのではないか。体だけ手に入れたところで何にもならないというのに、突き放すことも出来ない。
午前の講義を終え友人達と学食で昼食を食べている最中、机上で鳴った携帯電話には驚いた。液晶画面に表示されたのは孝弘の名前だ。
「あっ……も、もしもし?」
慌てて手で画面を覆った拍子に通話ボタンをタップしてしまい、応対するしかない通話口を耳に当てる。
「ごめん、今大丈夫?」
「大丈夫です。何かありました?」
「何かってほどじゃないけど、ノワの部屋にピアス忘れたから取りに行かせてほしいなーって」
「あぁ、洗面台に置いてましたね。なら俺が届けに行きますよ。たか……あの、ひろ君…忙しいと、思うし」
また隣人に目撃されかねない事態を危惧して呼びかけた名前に、目の前の友人を思い出し、咄嗟に昔のニックネームが出た。すると通話口の向こうが無言になり、子供っぽい呼び名を後悔する。
「なに、急に可愛いことするじゃん」
「揶揄わないでください。今日の夜、家にいますか?」
「うん、十九時以降なら。住所送るわ」
「分かりました」
話が終わり通話を切ると、ノワは会話を中断してしまった友人に顔を向けた。
「なんの話だっけ?」
「今日も夜はバイトかって話。けど、今の電話で予定埋まっちゃったじゃん」
「あー…。ごめん」
「でも流石に誕生日はシフト入れてないだろ?せっかく二十歳になるんだし飲みに行こうぜ」
「そうじゃん。来月だっけ?」
「うん。いいね、行こ行こ」
友人ともそんな約束をして、講義後にノワは教えられた住所へ向かった。ノワが住むアパートとは然程離れてはいないが、聳え立つ高層マンションを前にすると、やっぱりなんて妙な納得をする。
(人気俳優だったらこれぐらい普通か)
単身者向けのワンルームにいたことこそが違和感なのだ。広々としたエントランスやエレベーターが落ち着かなくて、呼び鈴を鳴らしてドアを開けてくれた孝弘の、今朝と変わらない様子に安堵さえした。
「わざわざ悪いな」
「いいですよ。そんな遠くないですし」
「この後はバイトとかあったりすんの?」
「いえ?もう帰るだけです」
「じゃあ、飯食ってく?俺が作ったもんになるけど」
「えっ」
予期せぬ誘いにノワは言葉を詰まらせた。小首を傾げた孝弘と対面したまま、何度か口の開閉を繰り返す。
「げ、芸能人でも自炊とかするんですね」
驚きのあまり最初に出たのは、そんなよく分からない感想。孝弘はぱちりと目を瞬かせ、小さく吹き出した。
「人によりけりだろ。俺も普段は外で済ませてばっかだけど、今日はたまたま」
笑う孝弘の言葉に、その普段はあまりしないことを今このタイミングでしたのは本当に偶然だろうかと。ドアが開いた時からいい匂いがするとは思っていたが、正体はキッチンの鍋にたっぷりと作られた料理らしかった。野菜や豆類をトマトベースで味付けした煮込み料理は、ノワが数え切れないほど食べてきた家庭の味。
「本場のやつ食ってた相手にこれ出すのもあれかな」
「俺は好きですよ。ラタトゥイユは日本のカレーみたいなもんで、人によって作り方も味も違いますし」
「ならよかった」
子供の頃は何度も同じ食卓を囲んだというのに、料理を前に向かい合った光景は新鮮だった。しかし、他の女性にもこんなことをしているのかと思うと、ノワはなんとも言えない気持ちになる。
「髪、朝からそれだっけ?」
「え?」
食事をしている最中の質問に顔を上げると、孝弘の手が後頭部を示した。
「あ……ヘアゴムですか?」
「うん」
「これは家出る時に忘れたから、同じ講義の子が貸してくれて…」
「へぇ」
一瞬だけ目を丸くした後の返事は素っ気なくて、自分から言ってきたくせにと思った。
「今日もそういうことされると思って来た?」
続けられた質問はスプーンを持つノワの手を強張らせる。正直な話、全く考えていなかったわけではないけれど、自宅に上がることはないと思っていたのも本当。見つめた孝弘の目が悪戯に細まり、咄嗟に出ない返答が全てを物語ってしまった。
「孝弘さん、誰にでもそんな感じなんですか?」
自分ばかりが翻弄されるのは悔しくて、ノワは返事にならない答えを返した。
「家に上げて手料理まで出したのはノワだけ」
なんてことないように言った孝弘の言葉に、狡いの単語ばかりが募る。曖昧な反応が狡いと思った。期待をさせておいて、それを口にすればそんなつもりはなかったと手綱を離すに違いない。
「来月にならないことには最後までしないよ。二十歳になってからじゃないと、なんか気持ち的に犯罪臭あるし」
それは飲酒や喫煙と同じく、未だに二十歳を境にすることが多い日本の感覚なのか。変な所で常識的なのと、誕生日を覚えていることにノワは驚いた。
「昔みたいに一緒に風呂入る?」
「入りません」
食い気味の返答に孝弘が笑い、九歳も年下を弄ぶ目の前の男を睨みつけた。浴室のシャンプーやタオルの匂い、シーツのそれだって何一つ記憶とは違っていて、孝弘に触れるたびこんな関係はやめておけと警告が響く。
しかし、悪い男と甘いお菓子は魅力的と言い、それが毒と知りながらノワは喉を鳴らした。
次に目を覚ました時、隣の温もりを辿った手探りは空を切り、明かりの洩れるドアを暫く見つめていた。そしてノワはゆっくりと身を起こし、リビングへ向かう。サイド照明がついたほの暗い中、テレビで映画を流す孝弘の背中があった。
「寝れない?」
振り返り、あの夏の夜と同じ優しい声が手招く。軽く叩かれたソファの隣に腰を下ろし、ノワは膝を抱えた。
「孝弘さんも出てるんですか?」
「出てない……ってか、本当に俳優の俺のこと知らないな」
「す、すみません」
項垂れると同時に謝罪すれば、孝弘はさして気に障った風もなく鼻先で微笑した。
「でも、俺がその程度の知名度しかないってことか。ノワが怒った通り遊んでる場合じゃないよな」
グラスを片手に呟く横顔を眺め、この人はこんな顔をするのかと微睡む頭で考える。すると視線に気付いたらしい孝弘がこちらを見て、頬を撫でるように横髪が梳かれた。その手は行為を思い出させ、どちらからともなく唇が重なった。
「ん、ぁ…っ、はぁ……っ…ん」
飲み込み切れない声が鼻にかかり、ノワは孝弘の手首に縋る。触れた舌先でそのグラスの中身がアルコールであることを知った。
蜂蜜の甘さとハーブの青さ、形容し難い独特な苦味で思考回路が麻痺する。まるで麻薬だと思った。用法容量を間違えたと気付くにはあまりに遅い。
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