54人が本棚に入れています
本棚に追加
5
親戚に九つ年下の男の子がいた。
夏休みなんかは親族の家に集い、他の従兄弟と一緒になって遊んだ記憶がある。
そして当時十五歳の孝弘は、再従兄弟の一人であるノワに酷く懐かれていた。理由は分からないけれど、兄弟のいない身で、子犬のように駆け寄り戯れる姿が可愛くて、随分と甘やかした記憶がある。
寝付けないと言って肩を揺すられた夏の夜、自分の布団に招き入れたのは、幼い再従兄弟が自身を頼る姿をいじらしく思っただけで、恋心なんて欠片もなかった。
しかし、十数年後に親戚の墓地で偶然再会した時、なかったはずの感情は果たしてどうだったろう。
「孝弘、さんって…彼女とかいるんですか?い、いますよね!カッコいいですし」
舌足らずな口調で呼んでいた愛称を子供っぽく思ったのか、初めてされた呼び方に辿々しさを感じた。
片田舎のパッとしない喫茶店で二人。四ツ谷サイダーが好きだったはずのノワは、溶けた氷で上澄みの薄まったアイスコーヒーにシロップを足す。
「いるよ」
彼女の存在を認めた途端、迷子になった子犬のように目を瞬かせる姿が堪らなかった。
本当は公言出来るほど真っ当な関係の相手なんていないくせに、どうせすぐにバレると知りながら出まかせばかりを口にした。向けられる憧憬の眼差しはあの頃と変わらず、孝弘は自分ばかりが遠い所まで来てしまった感覚に陥る。
(いや、全く変わってないってことはないか)
ブルーグレイの目も、柔らかな癖毛も、笑うと覗く八重歯だってあの頃と同じなのに、随分と物欲しそうな顔をするようになった。無邪気な面影に重なって、時折見せる年齢に似合わない婀娜っぽさが孝弘を誘う。
(なんか、ノワに似た犬いたよな…ブロンドっぽい毛で、あんな目色の……)
ぼんやり考えながら目を開いたそこに、孝弘が思い浮かべる姿はなかった。幼少期の面影が脳裏を掠め、最後までする勇気はなく体の関係を持って数週間。
中途半端に手を出す勇気はあるのに、矛盾ばかりな自分は孝弘が一番よく分からない。なにやら話し声のするリビングに気付き、テレビの音ではなさそうなそれに孝弘はベッドから下りた。ツーブロックに刈り上げた襟足を掻き撫で寝室を出ると、そこにいた二人の人物が孝弘に視線を向けた。その人物とは昨晩泊めたノワともう一人。孝弘にとってはかなり見覚えのある男性だった。
「小坂さん!自宅には連れ込むなってあれほど言ったじゃないですか…!しかもこんな若い男とか、報道陣に知れたらどうするんです?!」
掴みかからん勢いの男性に圧倒され、孝弘はまだ開ききらない目を細めた。
「いや、野田さんうるさっ。マネージャーって朝からそんな元気搭載されてるもんなんですか?」
「呑気なこと言ってる場合じゃないですよ!まさか未成年じゃないですよね?!」
マネージャーのその過敏さは孝弘の過去の行いの所為ではあるのだが、流石に今回ばかりは濡れ衣だ。一歩離れた場所のノワに目をやれば、困惑した面持ちで立ち尽くしている。
「再従兄弟」
孝弘は溜息を吐き、ぽつりと呟いた。野田と呼ばれた男性は途端に静かになり、ノワと孝弘を見比べる。
「ずっと海外にいて、最近戻って来たからたまに会ってるだけ。疑うんでしたら調べてもらってもいいですよ」
未だ混乱する野田の横を通り過ぎ、向かったキッチンで孝弘はコーヒーメーカーのボタンを押す。
「ノワも飲む?」
「えっ、あ…はい」
「野田さんはこんな時間からどうしたんですか?撮影までまだ時間あるのに」
マグカップをノワに手渡すと、自分用に二杯目を淹れ振り返った。野田が何故ここにいるのか、孝弘には心当たりがない。
「それは、小坂さんが全然電話に出ないから…。メッセージも既読つかないし、家で倒れてるんじゃないかと心配になって」
「電話?」
孝弘は小首を傾げ、ソファに放った携帯電話の存在を思い出す。マグカップを片手に拾ったそれは、昨晩ノワとそういう雰囲気になった中で通知がうるさく、苛立ち気味に電源を落としたものだった。
「すみません。電源切ってました」
「やめてください。小坂さんの場合は倒れていた前例があるんですから、次やったら自宅に監視カメラ付けますよ」
冗談には聞こえない発言に苦笑いする傍らで、ノワが椅子に膝を抱えて座っていた。自分はここにいてもいいのかと言いたげな表情でカフェオレを啜る姿は、やはり何かしらの犬種を連想させられる。
「ノワ、大学って何時から?」
「今日は休みです。なので十一時からバイトのシフト入れてます」
「そっか。じゃあ、近くまで乗ってけば?」
車の鍵を持った野田を指せば、ノワが咄嗟に意味を理解出来ずに目を瞬かせた。
「や、いいですいいです!悪いですから…!」
「えー?野田さん、いいですよね?」
「僕は全然。場所によりますけど、なんならバイト先まで送りますよ」
「ほら」
運転手がこう言うのだからと促すも、ノワはまだ躊躇う素振りで頷きとも取れない反応をする。しかし、孝弘はやや強引に送迎を決定し、身支度を済ませるとノワを車へと乗せた。
「すみません。マネージャーさんもありがとうございました」
目的地で下車したノワが運転席に向かって言葉を投げ、野田はにこやかに会釈する。車のドアが閉められ、訪れた静寂をエンジンの音が追いかけた。
「まさか小坂さんにあんな再従兄弟がいるとは知りませんでした」
いくらも走らないうちに野田が口を開き、孝弘はなんとなく予想していた反応にほくそ笑む。
「俺も偶然がなければ、二度と会っていなかったと思いますよ」
「再従兄弟がこんな人気俳優になってるなんて、さぞや驚かれたでしょう?」
「いえ、ノワは俺が俳優になってたことなんて少しも知らなくて」
「えっ?」
「それどころか俳優もアイドルも、芸能関係は殆ど話が通じないんです」
テレビをあまり見ずに育ったと言っていたのもあるだろうが、単純にそこまでの興味がないのだろう。視線を気にする煩わしさがない反面、以前ノワに言ったようにやはり思うところはあった。
「海外かぁ…。やっぱりモデル業にも力を入れた方がいいですよねー」
車窓を眺めながら独り言のように呟くと、ルームミラーで野田がこちらを一瞥するのが見えた。
「小坂さん、仕事に関しては結構真面目ですよね」
「えぇ?仕事に関してはって、そんな失礼な」
「だって、遅刻したことないのは歴代マネから聞いていますし、スケジュール管理も出来るし…。ほら、いつだったか小坂さんが初めて演劇やった時の資料。学生が自分であれだけ揃えるの結構珍しいと思います」
「よく覚えてますね」
「僕はあの時から、小坂さんは親の七光りだけではないと知っていましたよ。その誠実さをなんで女性関係で出来ないのか不思議ではありますけど」
「やめてください。持ち上げてから落とすの」
「そんなのさっきの子に知られたら絶対引かれますって」
「もう知られてます」
投げやり気味に言うと、野田が意外そうな表情をした。それがあまりに妥当な反応で、孝弘は思わず苦笑する。
「知ってて、なんなら怒られました。昔から憧れてたのに、こんなどうしようもない男になってるとか笑い話にもならないって」
「それでなんでまだ会ってるんですか?」
返された質問はやはり至極当然で、孝弘は暫く口を閉ざしたまま答えを探してみた。
「なんでだと思います?」
「知りませんよ」
言われてみれば確かに不思議だ。
ノワは何を思ってこんなセフレ紛いの関係になったのだろう。自ら抱かれてまで女性との関係を絶やさせ、憧れを憧れのままにしておきたかったのか。そんな憧憬の眼差しを向けられるほど、自分はいい男ではないと孝弘は思っていた。
そして、きっといつか目が覚めたノワに捨てられるのだろうと。
最初のコメントを投稿しよう!