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「孝弘さん。俺、もう二十歳なんですけど?」 ニュース番組が流れるリビングで、何度目か分からない夜を過ごしたノワが言う。性欲処理なら自分でいいだろうと言って早数ヶ月。 孝弘はノワに触れはしても最後まではしてこなかった。既に成人もしているのだから、最早なにを気にしているのかノワには理解が出来ない。いつもお互いの手で欲を吐き出して終わりで、男二人でも余すサイズのベッドの中、自身を抱き寄せて寝る孝弘の癖に慣れていくばかり。 「やっぱり男は抱けないってことですか?それとも俺が無理とか…」 「違う違う。てか、そんな無垢な目で生々しい質問をするな」 孝弘は呆れ気味に言うが、セフレの時点で生々しさは回避出来ないのだ。また誤魔化されるのが嫌で見つめ続ければ、孝弘は頭を掻き気不味そうに口を開く。 「なんか、次の日に大学とかバイトがあると、しんどいかなーって思ったり…」 「えっ、孝弘さんってそんな激しいんですか?」 「ノワさぁ…。いつからそんなこと言うようになった?俺の中のイメージが汚れるからやめてくれん?」 「なにわけ分からないこと言ってるんですか。さっきも言いましたけど、もう二十歳なんですって」 どんな幻想を抱いているのかは知らないけれど、二十年生きればこんなものな気がする。ノワだっていつまでも子供ではないし、色欲の一つや二つあってもおかしな話ではない。 「タイミングってものがあるんだよ」 渋い顔で軽く頭を叩かれ、結局あしらわれたような気がした。別段ノワは孝弘に抱かれたくてこの関係になったわけではない。付き合えるつもりがないのだって、再会した頃から変わらない。しかし、ならば何故。 (なんで俺は孝弘さんと…?) ノワは自分が孝弘とこの関係になった理由が、不意に分からなくなってしまった。現状に文句を言うのもどうしてなのか、明確は理由は思い浮かばない。また元のように女性と関係を持たれることを恐れているのだろうか。こんな内容を相談する相手はおらず、結局は何食わぬ顔で大学の講義に出席するしかなかった。 「なぁ、垣原これ飲んでみ。俺オススメのカスタム」 背後から友達が突き付けてきたそれは、チェーンのコーヒーショップで買える飲み物だ。特にホイップクリームやソースでカスタマイズされたフラッペが人気で、一歩街に出れば誰かしらが手に持っている。 「美味しい」 「だろ?抹茶にエスプレッソ追加」 「最近の亮平そればっかだよねー」 「ほんとほんと。昨日から新作始まってるけど、それにしなかったんだ?」 よく講義が被る一人の里奈が、SNSに投稿された新作らしいドリンクの写真を見せてくれた。それは現役の大学生で全く使っていない人は少ないSNSアプリだが、ネットに疎いノワからするとあまり馴染みがない。 「垣原くんもアカウント作ってみたら?」 「えー?やり方分からないしなぁ」 「教えてあげるよ」 友人らに勧められ、ノワは初めてSNSのアカウントを作った。弟のレオの方がきっとこの方面には詳しいだろうと、慣れない操作をしながらぼんやり考える。 「写真はここで追加して、ハッシュタグつけて…」 「おっ、出来たっぽい」 初めての投稿は、友達と撮った自撮りなんてありふれた写真。フォロワーは目の前の友達数名だけだ。 「里奈ちゃん結構頻繁に投稿してるんだね」 「そんな大した写真上げてないよー。最初は推しの投稿見るために作ったし」 「推し?」 「小坂たかひろ」 「えっ、あの人もやってんの?!」 ノワは思わず声量を上げてしまい、ここが講堂であることを思い出すと慌てて口を閉じた。 「そんな驚くこと?」 くすくすと笑われ、里奈が見せてくれた孝弘のアカウントを凝視する。 しかしそれは、事務所の人間が動かしているものなのか、番組などの宣伝が主で孝弘のプライベートらしい投稿はなかった。そんな事実にわけもなく安堵した時、鞄の中で着信音が鳴り視線を向ける。ノワは携帯電話を手に持っているし、疑問符を浮かべながら鞄を漁ると、どこかで見たことのあるケースのそれが出てきた。そして液晶画面に表示されている野田の名前。 (これ、孝弘さんの……出た方がいいのか?) ノワは少しばかりの躊躇をし、通話ボタンをタップした携帯電話を耳に当てる。 「もしもし……垣原です」 「え?垣原くん?」 「はい。俺の鞄にこのスマホが入ってて、朝一緒にいたのでその時に間違って入れたんだと…」 辿々しく憶測を説明して生まれた沈黙に、また会っていたのかと思われているような気がした。 「もう講義は終わっているので、近くならお届けしますよ」 「それは流石に……いや、すみません。やっぱりお願いしても大丈夫ですか?タクシー代ならこちらが持つので使ってください」 やはり外せない事情があるらしく、野田は申し訳なさそうにお願いしてきた。この後は特に予定もないので問題はないが、携帯電話がないことに半日も気付かない孝弘が少しばかり心配になった。 「用事出来たからこのまま帰るね」 ノワは断りを入れると足早に講堂を出た。野田から送られてきた住所は土地勘のない場所だったので、お言葉に甘えてタクシーを拾う。 しかし、目的地の劇場らしい施設に着いて早々、これはどう説明して入ろうかと頭を悩ませた。エントランスまで出て来てもらおうかなんて考えていば、背後から肩を叩かれ、振り返った先の野田に安堵の息が洩れる。 「すみません。わざわざ届けていただいて」 「野田さんに謝ってもらうことじゃないですよ」 元はと言えば、人の鞄に間違えて携帯電話を入れた孝弘が悪いのだ。初めてこの関係になった時だってピアスを忘れて行ったし、意外と抜けているタイプなのだろうか。 「会って行きますか?」 「え?!」 きょろりと辺りを見渡した無意識を見透かされ、気恥ずかしさにノワは上擦った声を上げた。そして頷くようなそうでないような曖昧な反応を笑われる。今日は小説が原作の演劇らしいが、題名や広告を見聞きしてもノワにはハッキリとした覚えがない。 「事務所の新人さんですか?」 野田に連れられ舞台裏へ入ると、一人の男性が声をかけて来た。 「いえ、うちの小坂の再従兄弟です」 「え?小坂さんの再従兄弟?!」 大袈裟にも思えるその反応を前に、ノワはいつも対応に困る。孝弘の再従兄弟という肩書きはそれだけのネームバリューがあるのだと、他人事のように思うのが精一杯だった。 「あー…。でも、確かに目元が似ていますね。昔の小坂さんを思い出します」 男性の言葉はノワがここ数ヶ月で何度も言われてきたもの。スタッフに挨拶をしながらこちらに向かって来る孝弘に気が付き、果たして似ているだろうかとその容姿を眺めながら考えた。相手もノワの存在に気付いたらしく、交わった視線に目が丸く見開かれる。 「ノワ?こんな所でなにしてんの?」 「孝弘さんのスマホを届けに来ました。俺の鞄に間違えて入れてましたよ」 「マジか。悪い悪い、なんか今日の俺らの鞄似てたから」 軽く笑う孝弘に携帯電話を手渡した時、触れた指先が冷たいことに気が付いた。ノワは自他ともに認める程に平熱が高くて、一般的な人からすれば微熱と言われる体温が通常である。だが、そんな事実を加味したとしても、触れた孝弘の指先は異様に温度がなかった。 「孝弘さんの手冷たいですね」 携帯電話ごと手を握ると、孝弘が僅かに動揺を滲ませる。 「へぇ、珍しいですね。小坂さん平熱が高いって仰っていたのに」 野田の発言を聞き、ノワは自身に触れる孝弘の手がいつだって温かいことを思い出した。それは行為による体温の上昇だと思っていたのだが、どうやらノワと同じく平熱が高い体質らしい。 孝弘と別れた後、せっかくなら関係者席で観劇していかないかと誘われた。映像作品どころか、舞台作品すらノワは親しみがなくて、案内された席でなんとも言えない感情を抱える。開演して暫くした後、隣に野田が腰を下ろした。 「孝弘さんの演技、こんなにしっかり見たのは初めてです」 「そうなんですか?」 「はい。でもなんか、変な感じがしますね。孝弘さんなのにそうじゃないみたいな」 それは舞台に立つあの男性を、作品の役ではなく孝弘として見ているからだろうか。舞台は素人目にも間違いなく魅力的なのに、知らずにいた身内の一面がノワに拭い難い寂寥を与える。 「この後、劇団の人たちと飲みに行くのに、ノワも誘えって言われたんだけど来る?」 「え?」 終演後に顔を出した控室で、孝弘から予想外な誘いをされた。一般人である自分まで呼ばれる理由が分からなくて、ノワは困惑した面持ちをする。 「多分俺の身内ってのが物珍しくて、興味本位で絡みたいだけだと思う。悪い人たちではないし、劇団員は若手も多いから話は合うだろうけど」 その劇団は孝弘が学生時代に所属していたらしく、今でも親しくしているのだとか。ノワは部外者の自分が参加していいものか迷ったが、通りすがった劇団員にせがまれ半ば強引に連れられることになった。 「垣原くんなに飲みます?」 「ジンのソーダ割りで」 「おっ、いくねぇ。今年二十歳って聞いたけど」 「この前までフランスにいたので、向こうでは十八から飲めるんです」 「えっ…そうなの?やば、帰国子女じゃん」 「じゃあ、フランス語も喋れるってこと?」 「一通りは」 お決まりの会話パターンに微笑し、ノワは間も無くして運ばれて来たグラスを手に取る。好きな道を進んでいるからなのか、溌剌とした彼ら彼女らの空気感は決して嫌いではなかった。知らない世界や価値観に触れ、痺れるような高揚感が心地良い。けれど、遠巻きに目をやった孝弘と、物理的ではない距離感を感じて不意に切なくなった。 そんな感覚を誤魔化すようにグラスを傾ける、気付けばノワはいくらかアルコールを過ごしていた。 「ノワ、その辺にしとけって」 霧がかった思考の中で孝弘の声がして、ノワは徐にその顔を見上げる。 「明日も大学あるんだろ。俺も抜けるからノワもおいで」 「えー!もう帰っちゃうんですか?!」 「と言うか、孝弘さんめちゃくちゃ垣原くんの彼氏面するじゃん」 「なんでだよ。そこは保護者面だろ」 劇団員と何気なく交わされたそれに、ノワは無言で唇を引き結んだ。孝弘からすればそうなのだと分かりきっていたはずが、中途半端に関係を持った所為で淡い期待を抱いてしまっていた。タクシーで移動する最中も視線は合わなくて、今日で何度目か分からない寂寥を噛み締める。 先に下車する孝弘のマンション前に着いた途端それは増長し、募らせた疑問が器から溢れた。降りかけた腕を取り、振り返った孝弘と漸く視線が交わる。 「朝、出る時に…。部屋に忘れ物したんですけど、取りに行ってもいいですか?」 忘れ物なんて見え透いた嘘を、孝弘は嘘と暴くことをしなかった。この焦りや思惑はきっと全て悟られているに違いない。都合のいい存在でいるつもりが、孝弘が突き放さないからなんて責任を押し付けて、ノワは自ら毒されることを望む。部屋に入るなり一方的に呼吸を奪っても、やはり拒まれることはなかった。 「俺も孝弘さんも、酔っていたってことでは駄目ですか?」 免罪符にもならない理由を用意して、公演前に触れた孝弘の指先が冷たかったこと頭の片隅に置く。重ねられた唇にアルコールも相まり、徐々に溶かされる思考回路。 眠れないと言ったあの夏の夜、ノワの手を握ってくれたのは孝弘だった。温度の高い手が心の不安定を溶かし、強張った体を軽くさせる。それは十年以上経った今でも変わらず、ノワはふと疑問に思った。 ならば冷たくなったこの人の手は、果たして誰が握ってくれるのだろう。
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