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目を覚ましてすぐ、怒涛の後悔がノワを襲った。全てを鮮明に覚えているわけではないが、経緯や結末は嫌でも覚えている。隣には未だ夢の中な孝弘がいて、やけに生々しく思えた。都合のいい存在でいると言ったはずが、酔った挙句に行為をせがむだなんてあまりにも勝手が過ぎる。
(これだと、まるで俺が抱かれたかったみたいな…)
実際そうなのかもしれないけれど、その感情を認めてはもう後戻りが出来ない気がした。ノワは自身を抱き寄せる孝弘の腕を静かに解き、身なりを整えると逃げるように部屋を後にした。今から大学に向かえば講義には間に合うが、とてもじゃないが何食わぬ顔で行ける心境ではない。駅までの道を歩きながら自主休講を決め込むと、鞄に入れた携帯電話が鳴った。
「もしもし…」
「あっ、ノワ?おはよう、でいいのかな。そっちの時間だと」
繋いだ通話口の向こうから聞こえたのは、フランスにいる兄のルイからだった。時差があるのであちらは深夜〇時過ぎだろうか。
「どう?久々の日本は」
「楽しいよ、友達も出来たし。あと、ひろくんに会った」
「え?もしかして再従兄弟の?」
「うん」
「よかったじゃん。ノワ、昔から孝弘くんべったりだったし」
「そうだね」
よかったのか、よくなかったのか。再会しただけでなく、セフレになって昨晩抱かれてましたなんて、口が裂けても言えない。
「そう言うわりにあんまり嬉しそうじゃないな」
ルイの鋭い指摘にノワの心臓が鳴った。一昨日までならまだ喜べたのだろうか。しかし、酒の勢いで一線を越えた直後ではそうもいかなくて、声色に出てしまったらしい。
「そ、それよりなんか後ろでうるさいのがいるけど」
「あはは…。そう、レオが電話代われ言ってるから代わ……」
「Noix, as-tu acheté celui que j'ai demandé ? !(ノワ、頼んだやつ買えた?!)」
ルイが言い終わるより前に飛んできた言語は、数ヶ月離れていただけで懐かしく感じた。弟のレオは三歳までしか日本におらず、ノワやルイほど流暢に日本語が喋れない。故に家族間での会話もフランス語だった。
「e l'ai acheté je l'ai acheté Je l'ai envoyé par courrier international, il arrivera donc bientôt.(買えた買えた。国際便で送ったからそのうち届くよ)」
大きすぎる声に携帯電話を耳からやや離し、ノワは呆れ気味に答えた。日本に来る前にレオから頼まれたのは、言ってしまえばお使いだ。好きなアパレルブランドで発売された日本限定カラーが欲しいと、再三頼まれていた。
「Avez-vous mangé de la nourriture japonaise?(日本料理は食べた?)」
「Quand il s'agit de manger ici, c'est surtout de la nourriture japonaise.(こっちで食事するってなったら、大体日本料理だろ)」
「Avez-vous été à Asakusa? Asakusa. je veux y aller.(浅草行った?浅草。俺あそこ行きたいんだよね)」
「je ne vais pas Je suis passé par là.(行ってない。通り過ぎはしたけど)」
「Mon amoureux est...(恋人は…)」
「Pas pas! je ne peux pas le faire !! ︎ ok donc les enfants se couchent tôt !(いないいない!出来てない‼︎いいから子供は早く寝ろ!)」
質問責めなレオに痺れを切らし、ノワは一方的に言うと通話を切った。昨日の今日で恋人のネタは傷口に塩でしかない。漸く静かになった辺りに小さく息を吐き、孝弘から連絡が入っていない携帯電話を確認すると、安堵したようなそうでないような。帰宅して早々、ノワはベッドへ力なく倒れ込んだ。
(ベッド、固っ…)
孝弘の自宅とは異なるそれに思わず本音が出る。だだっ広く柔らかいベッドに慣れてしまっては、二万円ほどで買えるような単身者用のベッドがお粗末に感じた。鼻先を掠める柔軟剤の匂いも孝弘のものではなくて、そこはかとない寂しさの中でゆっくりと瞼を閉じる。これ以上を望んでしまったら、きっと更なる欲が出て際限がない。距離感を見失ってしまったノワは、孝弘と連絡を取らないまま数日を過ごした。
「垣原、お前あの投稿どうした?!」
いつも通り向かった大学で、顔を見るなり駆け寄って来た男友達が二人。その慌てぶりには身に覚えがなく、少しばかり思案するもやはり思い浮かぶことがなかった。
「なんの話?」
「前に作ったアカウントだよ!」
それは暫く触っていないSNSのアプリだった。促されるままアカウントを作ってはみたものの、あまり性に合わず放置している。だが、友人に急かされ開いたそこには、予想もしていなかった反応と拡散の数。コメント欄は批判的なものではなくて、大半がノワの容姿を好意的に見るものだった。その中に見つけた、小坂たかひろと似ているなんてコメントは、ノワの背筋に冷ややかな汗を伝わせる。
「一個の投稿でこの反応凄くね?!」
「芸能界から声かかったりとかして…」
「ば、馬鹿なこと言ってないでこれどうすればいいわけ?!」
冗談めいた声で言う男友達にノワは詰め寄った。こんな反応を求めていたわけでないし、何より孝弘と親戚であると周りに知られると厄介だ。
「そのままでいいじゃん。荒れたんじゃなくて、バズっただけなんだし」
「ばず…?」
「ネットで注目されたってこと。まーでも、どうしてもって気になるって言うなら、投稿消しちゃえば?」
「消して消して!頼む!やり方分からない!!」
「はぁ?お前マジで令和を生きる人間かよ…」
ありえないといった面持ちの友達に携帯電話を押しつけると、投稿していた写真はすぐに消された。
「はい、ついでにアカウントの鍵もかけといた。フォロワーも増えてたけど、俺ら以外は全て外しといたからもう大丈夫だろ」
「ありがとう。助かった」
「でも、勿体ねぇー。せっかく有名になれたかもしれないのに」
「有名になんてならなくていいよ。ただの一般人だし、下手に注目されても怖いだけだから」
「えー?分からんでもないけどさぁ」
友達はまだ納得してなさげな口振りで言った。しかし、一般人が素顔を晒しただけで、果たしてこんな拡散の仕方をするだろうか。そんな疑問を説いたのは、後日かかってきた野田からの電話だった。
「劇団員の一人が飲み会での写真をネット上げていたらしくて、そこに垣原くんも写ってしまっていたんです」
端的な説明に、ノワは薄れかけた記憶をなんとなく辿る。確かにそんなことがあったようななかったような。数日前の出来事な上に、酒が入っていてよく覚えていないというのが正直な感想だった。
「それがデビュー前の劇団員なんじゃないかって噂までファンの間で出て、余計に拡がり方に拍車をかけたのではないかと…」
「成る程。そうだったんですね」
「はい。写真は既に削除してもらっています。まさかこんな拡がり方をするとは僕も思っていなくて、申し訳ありませんでした」
「そんな、野田さんが謝らないでください」
「投稿した劇団員が謝罪したいと言っていますので、本人に直接頭を下げさせることも出来ますが…」
「それも大丈夫です。確かに驚きはしましたけど、なにか被害があったわけじゃありませんし。それより……孝弘さんと俺って、そんなに似てますか?」
それはノワが日本に来て何度か思った疑問。通話口の向こうでは、野田が不思議そうな沈黙を繋いだ。
「俺の投稿に孝弘さんと似ているってコメントがあったので」
「あぁ、そういうことですか。でも、大抵の人は言われないと気付かないですよ。強いて言うなら、小坂さんが垣原くんと同じ年齢ぐらいの頃は、もう少し似ていたかもしれませんが」
おざなりに聞こえないそれは、日本に来て間もない頃に友達が言っていた内容と似ていた。確か二十代前半の孝弘は髪色も明るく、今より派手だったのだとか。
「よかったら昔の写真でも見せてもらってください。体調も今はほぼ戻っていると仰っていましたし」
「体調?」
「あれ、聞いていませんか?」
ノワの反応に野田が意外そうな声で聞き返した。曰く、風邪の影響で数日前からスケジュールを調整しているとのこと。講義が終わったその足で自宅を訪ねると、エントランスの通話口で孝弘は少しばかり動揺していた。
「風邪とか久々すぎてびびったわー。三十八度まで熱上がってさ」
通された部屋で参ったように言う孝弘は、ノワの杞憂とは裏腹に至って今まで通り。風邪も治り終わりらしく思っていたより元気そうだった。
「舞台の最終公演が終わって気が抜けたのかな。デカい案件入れてなかったから仕事もどうにかなったけど」
「ならよかったです。俺は、もしかして…酔って強引にしたから無理させたのかなーって……」
野田から孝弘の体調不良を聞いた時、咄嗟に脳裏を掠めた不安を口にすれば、一瞬にして場の空気が凍った。ここに来るのだって本当は悩んだ。あんな一線の超え方をした気不味さから、今までと違う接し方をされやしないかノワは心配だった。
「俺、そんなに良くなかったですか…?」
恐る恐る聞くノワに、孝弘は盛大に咳き込んだ。こういう時、ノワは目を逸らさないと決めている。逸らしてしまったら、またこの狡い大人にはぐらかされるような気がした。
「いや、良くなかったら…あんな、しないだろ」
赤くした頬で孝弘がしどろもどろと言う。その答えに安堵した反面、ノワは自分から聞いたくせに居た堪れない気持ちになった。
「連絡しようかとも思ったんだけど、熱で倒れてる間に日にち跨いじゃって…。なんか時間が空くと、取り敢えず言っとけ感あるように聞こえるかな、とか思ったり」
随分と甘いその理由は耳に毒だ。恋人同士でないのだから、わざわざそんなことを気にしなくていいのにとも思う。徐に近付いた孝弘に気付き、やや身を引いたノワは背後のソファに行き詰まった。
「ノワは良くなかった?」
半ば確信を抱きながら聞く辺り孝弘は意地悪だ。耳元で囁く声はどこまでも蠱惑的で、返事をする間も無くキスをされる。
「風邪うつしたらごめん」
悪びれもしない謝罪の後に再び唇が重なり、呼吸から思考まで全てを奪われた。孝弘の手が太腿に触れ、皮膚の薄い内側に回る衣服越しの感覚がノワを酔わせる。
「病み上がりにこんなの、駄目ですよ」
息を吸う間に正論を言えば、孝弘は不満気に眉を寄せた。
「風邪でスケジュールずれ込んだから、暫く会えないんだよなー」
そう言ってノワの返事を待つ目に気持ちが揺らいだ。暫しの沈黙を了承と受け取ったらしく、ハーフアップに纏めたノワのヘアゴムが解かれる。その手慣れた様を目の当たりにし、何人の女性を抱いてきたのかと不意に考えてしまった。後孔に指を入れる際、無意識に体を強張らせたノワを見て、甘やかすようにキスをする技巧にさえ過去の経験を連想してしまう。
「ノワ、息詰めすぎ」
鼻先で笑う声が聞こえ、眩しいものでも見つめるかのような目に勘違いしそうになった。潤滑剤の甘ったるい匂いだけがやけに現実的で、それ以外は全て妄想かと疑ってしまう。だが、ソファに倒され視界の端に映した屹立は、ノワを否が応でも現実に突き落とす。
「あの…」
「ん?」
「孝弘さんの、そんな凶器じみてましたっけ?」
「凶器て…。人のものを失礼な。てか、前にした時も見ただろ」
「み、見ましたけど、記憶がはっきりしていないと言いますか……歴代の彼女は、女性の身でこんなものを…」
ムードがないと言われるかもしれないが、思わずそんな余計な心配をせずにはいられなかった。
「俺に抱かれるって時に他ごと考えるなよ」
若干の苛立ちを滲ませた表情に心臓が鳴るのは、ノワが毒されすぎているのだろうか。優しくてカッコいい孝弘に憧れていたはずが、その口から出る意地悪も、稚拙な独占欲も堪らなくなっていることに気が付いた。温度の高い掌が肢体を撫で、ノワは徐々に理性を溶かされていく。
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