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親戚に九つ年上の男の子がいた。
夏休みなんかは祖父母の家に親族が集い、他の従兄弟と一緒になって遊んでもらった記憶がある。そして当時六歳のノワは、何をするにも懐いていた孝弘に引っ付き離れなかったらしい。あの眠れない夜に頼ったのも、両親や兄弟ではなく孝弘だった。
「寝れない?」
従兄弟たちと雑魚寝する暗闇で、孝弘の囁きに頷くと自分の布団を空けてくれた。鈴虫の喧しさが少しだけ遠退き、繋いだ手の内が薄らと汗ばむ。その時の僅かな息苦しさが、暑さの所為だけでないと気付くにはノワはまだあまりに幼い。
「他の人には内緒な」
立てた人差し指が唇に寄せられ、わけも分からず頷いた。兄より年上の孝弘にただただ憧れて、二人きりの秘密は幼少の耳に甘くて。
手持ち花火の残り香に酔わされていたあの夏の夜を、十年以上経った今でも忘れられない。性なんて生々しい概念はおろか、恋心さえ知らない子供の頃の話だ。
次第に親戚同士で集まる機会は減り、両親の仕事の都合で渡仏するのを境に孝弘とも会わなくなってしまった。
それが二十歳になるという夏、交換留学で帰国したノワが母方の田舎へ墓参りに向かうと、墓前に立つ人影を見つけた。男性は木下闇を抜け、ノワの存在に足を止める。縦に伸びた肢体とこの猛暑に不釣り合いな白い肌。気怠げな雰囲気と優しさを混ぜた目元にどきりとした。
「ノワ?」
嗚呼、孝弘だと思った。容貌や声に面影があり、懐かしいでは形容しきれない感情が湧き上がる。
「デカくなってて一瞬誰か分からなかった。いくつになったんだっけ?」
墓地から少し歩いた、田舎のパッとしない喫茶店で孝弘が問いかけた。
「今年で二十歳です」
「そっか、そんなになるんだ。俺もおじさんになるわけだ」
そう自嘲的に笑うけれど、色濃い面影はあの頃の何でもない空間を扇情的に思い出させる。ここにあるのは四ツ谷サイダーではなくて、溶けた氷で上澄みの薄まったアイスコーヒーだけ。本当はメロンソーダを頼みたかったくせに、孝弘を前に大人ぶった自分があまりに滑稽だった。
「今どこに住んでるの?」
「東京です。交換留学で一人暮らしを始めて」
「嘘っ、俺の職場も。どの辺?」
「あそこは…千代田になるんですかね、多分」
「え?凄いな、うちもその近くなんだよ」
示し合わせたような偶然にノワと孝弘は思わず笑い声を上げた。しかし淡い歓喜を抱いた直後、机上に置かれた孝弘の携帯電話に女性の名前が浮かぶ。天から地へと、面白い程にサッと熱の下がるのが分かった。
「孝弘、さんって…彼女とかいるんですか?い、いますよね!カッコいいですし」
子供っぽいかと思い、咄嗟に外したニックネーム。慣れない敬称。自ら傷口を抉る馬鹿さ加減にも呆れた。言葉は吃るし、きっと表情にも焦りが滲み出ていることだろう。動揺に動揺するノワに対して、孝弘は変わらない態度で微笑んだ。
「いるよ」
なんてことない物言いが余計に虚しく、ノワはテーブルの下で手を強く握る。聞かなければよかったと思った。聞かなかった所で孝弘に彼女がいることに変わりはないけれど、一縷の夢に縋ることが出来たのに。
「ノワは?あっちでモテてたりするんじゃないの?」
「そ、そんなわけないじゃないですか…!ほら、現地の人みんな身長高いし、日本人顔だから年下に間違われてばっかで弟扱いみたいな」
思わず走った自嘲に孝弘は笑って相槌を打つだけで、ノワほどの目立った感情を見せなかった。どうせ孝弘にとっては、年下の再従兄弟以外の何者でもないのだ。
「なぁ、連絡先交換しない?せっかく会えたわけだし」
冷房の効いた店内にいるにも関わらず、その提案は冷えた筈のノワの体温を上昇させた。寄せる携帯電話に距離が縮まり、覚えのない香水が香る。
「もう昔みたいには呼んでくれないんだ」
数センチ先で囁かれた声にノワはハッとした。孝弘の目が僅かに細まり、その表情がどことなく惜しそうで意地が悪く思えるのは、ノワの考えすぎだろうか。遠くで鳴く喧しい蝉時雨が、あの夜と同じ鈴虫に聞こえる幻聴さえ始まって、ノワはこの夏の魔物に喰われてしまう気がしてならない。
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