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「あなた、突然あたしの車に落っこちてくるからさ。ビックリしたわよ」
つまり。
希子はあの人生最良の日から、30年後に飛ばされた、と。夫のあのトースターみたいな発明品……あれは。
「少し横になったら。どっか打ったとかダメージなんかあるかもしれないし」
彼女の家に取り敢えず招き入れられた。
「……どうも、ご親切に」
「親切には親切を。信頼には信頼を、愛情には愛情を、挨拶には挨拶を。以下○○には○○――」
「……? その長い標語は何ですか?」
「標語? 小学校の道徳で子供が暗証する教科書3ページ分の『人としての心得』じゃない。あたしも息子の宿題に付き合って必死で覚えたやつ」
「え……そんなの、私には記憶ないけど」
横になれと指されたのは見覚えのあるソファ。でも希子が知っているより大分古びて貫禄が出ている。
窓から見えるのは記憶にある景色と同じだった。そびえる小学校やマンションの位置になじみがある。でも、小学校は建て直したばかりで、マンションは新築だったはずが――かなりくたびれて薄汚れている。
「ここ、もしや、私んち? 30年後の?」
希子はジャケットの内ポケットにスマホを確認すると、急ぎ取り出してタップした。しかし、アンテナは立たない、Wi-Fiも不可。位置情報も取れない。
「場所の特定ができない……えと、あなたのお名前は」
「江戸は老中松平定信の側室の息子真田幸貫の娘の嫁ぎ先の――うんぬんかんぬん――父は信夫母は幸子その長女希子――学歴○○小、△中、◆高校、××大学卒、職歴しょんぼりスーパー本部、――結婚歴――住所歴――」
何なんだ。
「……。で、つまるところ、希子ってのが名前なのね?」
「名前は、江戸は江戸は老中松平定信の側室の息子真田幸貫の娘の嫁ぎ先の――うんぬんかんぬん――父は信夫、母は幸子。長女希子。学歴××大学卒、職歴しょんぼりスーパー本部――結婚歴――住所歴――」
「いやいや家系図&履歴書みたいのはいいです。寿限無じゃないんだから」
「冗談言ってるわけじゃないわよ、これ全部が名前なの。全部を呼ばないと侮辱罪に当たって逮捕されるの、知ってるでしょ」
「ええーっ?」
部屋の間取り。家具の配置。カーテンの模様。それらは大分色褪せ、くたびれてはいるが、……まごうかたなき希子の家。両親の名、家系を遡った祖先の名も同じ。そしてこの老婆の顔は――
鏡で何十年も見続けた希子そのものの、やっぱりくたびれ経年劣化したそれだった。
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