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どこにいったの
「ねえ、どこにいったか知らない?」
「知らないよ」
「きらきらしててきれいだったから、玄関に飾ろうと思っていたのに」
「おれは見てない」
「そう、わかったわ」
更紗はまだ納得していないようすだったが、皿を洗う手を再び動かしはじめたので、由利夫はテレビへと視線を戻した。
しばらくして、レバーハンドルを元に戻すカッという音が聞こえる。更紗がタオルでずぶぬれの手をぬぐっていた。
「でも、久しぶりよね」
「なにが」
「あなたがご飯つくってくれるなんて。まあ、皿洗いはわたしみたいだけどね」
「おれの洗い方は雑だからって、いつもやり直すじゃないか。だったら、はじめからお前がやったほうがいい」
「そうね」
「そうだ」
「それにしても、どこにいっちゃったのかしらねえ」
「まだ気にしてるのか」
「だって」
「なくなってしまったものは仕方がないだろ」
「とても珍しいものだったのでしょう。あなた、そういってたじゃない」
「ああ、まあ」
「確か、会社の同期の柳瀬さんに頂いたって、いってたわよね」
由利夫は黙って、うなずいた。しかし、それは嘘だった。
本当は、フリマサイトの〆ルカリで買ったものだ。だが今すぐ、更紗に真実を伝える勇気はなかった。
商品ページの紹介欄にはこう書かれていた。「珍品 激安 取り置き不可」。確かに珍品だったが、「三万円」が激安なのかは、由利夫にはわからなかった。
だが、ちょうど手元には、愛する妻・更紗の誕生日プレゼントを買うために貯めていた、一万円札三枚がある。少しためらったが、更紗の誕生日までまだ一ヶ月はある。金はまた貯めればいい。
これは運命だ。運命の神が、買えといっている。
由利夫は、都合よくそう解釈した。そして気づけば、三万円は消えていた。
数日後、〆ルカリで購入したものが配達されてきた。更紗がいない時間帯に届けてもらったので、問題はない。
由利夫は自室にてそれをこっそりと開封した。〆ルカリで何かしらを購入したのは初めてだった。こんなものが、気軽に手に入る時代になったのだな、と由利夫は感慨に浸った。
更紗が習い事の太極拳から帰宅すると、それを「柳瀬からもらったもの」だといって渡した。更紗はそれをいたく気に入ったようで、窓の外の光にかざしてみたり、きれいな布で拭いたりしていた。
納得がいくまで拭いたあとは、小さな籐のかごにいれて、玄関に飾っていた。それが昨日のことだ。
そして、さっき。更紗は気づいたらしい。かごの中身がなくなってしまったことに。
「なくしてしまったなんて、柳瀬さんに申し訳ないわ」
「気にしないよ、柳瀬は。そういうやつさ」
そもそも、柳瀬はまったく関係ないのだ。〆ルカリで三万円をかけて購入したのは、自分なのだから。
「そうよね。ずっと気にしてても、仕方ないわ。あなたが作ってくれた、お昼ごはんのだし巻き卵、とってもおいしかったもの。もう忘れましょ」
「おいしかったのなら、よかったよ」
「ありがとう、うれしかったわ」
更紗は、花が咲くようにほほえんだ。とても美しく、可愛らしい。何歳になっても、更紗の笑った表情は女神のようで、由利夫の心を弾ませた。
今の会社に新入社員として入ったときの、教育係が更紗だった。常に優しく、ときに厳しく、由利夫を導いてくれた。とんでもないミスをしたときも、彼女はいっしょに上司に謝ってくれた。
なのにいつまでも落ちこんでいる由利夫に、彼女は微糖の缶コーヒーをくれた。温められた缶の感触のなかに、彼女の手のひらの温もりをわずかに感じられた。
彼女は由利夫の肩に、ぽんと手を置いた。
「そうやって落ちこめるあなたには、伸びしろしかないわよ。自分を成長させられる力がある。だから後悔できるのよ。また明日から、がんばりましょう」
その言葉はいつまでも由利夫の心に残った。
以前、いっしょに自販機に行ったとき由利夫が「微糖で」といったのを忘れないでいてくれた、彼女の優しさは何年たっても由利夫の心を温めた。
何歳になっても、忘れられない。落ちこんだとき、更紗の存在だけが由利夫を救ってくれていた。
「おれの人生には、彼女がいないといけない」
そう悟ってからは、早かった。
すぐに彼女にプロポーズをし、盛大に結婚式をあげた。
会社のなかに、彼女に思いをよせている男が何人もいるのを知っていたから、結婚式にはできるだけ多くの人数を呼んだ。
彼女を狙う狂犬どもに自分たちの幸せを見せつけるためだ。
女神はもう自分のものだと、知らしめるためだ。
ようやく安堵の瞬間がおとずれたのは、更紗に寿退職してもらってからだった。
だが、まだまだ問題はあった。
新婚生活のさなか、更紗の豊かな髪の毛のなかに白髪を見つけたのだ。白髪でさえも絹のように美しい。しかしそれは、彼女の老いの証明でもあった。
女性に対していいづらいことだが、由利夫は彼女の配偶者だ。勇気を出して、言葉にオブラートを幾重にも重ね、更紗にそのことを伝えた。
すると彼女は、意外にもあっけらかんとしていた。
「わたし、髪が多いのよ。だから、学生のころから、白髪はあったわ。そういう髪質みたいね。まだほとんどが黒いし、そんなに気にするタイプでもないから、大丈夫よ」
更紗はいっさい気にしていない。だが、由利夫はひどく恐怖した。彼女にはいつまでも、若々しくあってほしい。そうすれば、ずっといっしょにいられる。更紗には、自分が死ぬまでそばにいてほしいのに。
更紗と結婚してからは、そんなことばかり考えていた。
なんとか、彼女を長生きさせる方法はないものか、と。
「あら、見て。何か、事件があったみたい」
ハッと我にかえると、更紗がテレビを指している。
更紗がいつも見ている報道番組だ。右上に、「詐欺グループ逮捕」というテロップが映し出されている。画面には、逮捕現場であろう散らかったアパートの一室が映っていた。
番組のアナウンサーが、原稿そのままといった感じの内容をつらつらとマイクに乗せはじめる。
「早報です。最近、問題となっていたフリマサイトの詐欺グループが逮捕されました。詐欺グループは、人気のフリマアプリである〆ルカリにおいて、食べると不老不死の効果があるといわれている〝ほうおうのたまご〟を本物だとしていつわり、販売していたとみられています。〝ほうおうのたまご〟を購入した人々からは健康被害の症状が出ているとの報告もあり、警察は引き続き捜査を進めています」
由利夫の背筋に、ぞくりと冷たいものが走った。
なんだ、これは。いったい、どういうことだ。詐欺、逮捕、本物じゃない、健康被害。
血の気が引いていく。手がかたかたと震える。さっき食べたたまごの殻は、袋のなかにいれて燃えるごみのなかに捨てた。もちろん中身は、更紗の腹のなか。
由利夫は普通の卵を食べた。〝ほうおうのたまご〟は彼女にすべて食べてもらいたかった。彼女にはいつまでも若く、美しく、きれいでいてもらいたかったから。
更紗がすきだ。だから、何か方法はないかとずっと考えていた。美容や運動の無理強いなどは、したくなかった。彼女は自然体なのが素晴らしい。実際、今のままでも十分可愛らしかった。
ふと、フリマサイトで見かけた「不老不死」の言葉に引かれただけなのだ。魔が刺した、といっていい。こんなもので、自分と彼女がずっといっしょにいられるなら、なんと気軽なことだろうと。
だから、食べさせた。更紗がすきだったから。
「あなた、顔色が悪いわよ。どうしたの」
「いや……いや……大丈夫だ。それより、お前……」
「……あら、変ね。なんだか、わたしも気分が悪くなってきちゃった」
「え……」
「ふふ、おそろいね。わたしたち、こんなときでも仲がいいのね。コーヒーもお互い、微糖がすき。ささいなところまでおそろいなのが、うれしいわ。そうだ。今日はもう、いっしょにお昼寝でもしましょうか」
「いや、病院に行こう」
「大げさよ。ばかね、心配症なんだから」
そういって、更紗は寝室に布団を敷きに行った。おれはテレビ画面を見つめる。
新しいテロップが、表示された。
「詐欺グループが販売していたたまごは、実際には———のたまごだったことがわかり、押収した飼育機には———」
おわり
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