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あの子と初めて会ったのは、二年前の春。
年度初めのレッスン開きでのことだった。
レッスン室の隅っこで小さくなっていたあの子。
声優志望者にしては随分と物静かで暗そうな子だな、というのが第一印象。声も消え入るくらい小さいし、肩を丸めて俯いているのが常だし、長い前髪の隙間から上目遣いで伺うような目線がまるで、獣の檻に放り込まれた小動物のようだった。
確かに、声優のたまごにはいろんな性格の子がいる。
ムードメーカー的存在の子や、そこにいるだけで華がある子。しっかり者で常に真っ先に発表するリーダータイプや、発表はある程度後でというしたたかな子や、消極的な子。
けど、こんな暗くて声もロクに出ない子、よく入所試験を合格したものだと思ったし、絶対に声優になれるわけないって思ってた。
だけどその年の梅雨ごろから、彼女はとある行動に出た。
レッスン開始十五分前に、レッスン室一番乗りで掃除しながら発声練習を始めた。そして、レッスン室の扉を開くクラスメイト全員に挨拶をするようになったのだ。
はじめこそ声が小さくて気づかれなくて凹んでたけど、徐々に大きな声が出るようなって。
気づいたことがある。
彼女の声は甘く華やかでまるでアニメのヒロインのような声だった。
音量は小さいけど、その声で自分の名を呼ばれた瞬間、わたしはひどくときめいたのを覚えている。
甘く華やかなその声は、このクラスの誰の声よりも特徴的で愛らしく、一度耳にしたら忘れることができない声だった。
彼女の声を聴いた誰もが思っただろう。
こんな声を持った子が声優になるのだ。
わたしも思った。
そして、わたしは初めて、何の特徴もない普通の声を持って生まれたことを恥ずかしく感じた。
だけど、技術面ではわたしの方が上だった。
声の大きさだって、声の通りだってわたしの方が優っていたし、滑舌や表現の大きさはわたしの方が優れていた。
去年の12月に行われた基礎科への進級審査だって、わたしや他の受験生となんら変わらない演技をしていた気がする。それどころか年度末の所内公演ではわたしが主役を張り、彼女は脇役も脇役。セリフ量もわたしの半分以下。
なのに。
わたしが、『自分はこの子より格上だ』と慢心している間に、あの子はわたしなんか一足二足跳びで高みに昇っていたのだ。
そう思うと基礎科で基礎の基礎を習っている自分が惨めに思えて仕方がなかった。
もちろん、基礎がなってないなら基礎を練習して経験値を積むのは、役者に限ったことではない。
数学だって、1+1が2であることを知らなければ、引き算掛け算や割り算、因数分解や微分積分もわからない。
英語だってローマ字やアルファベットから言葉を積み上げるから、海外の人と交流ができる。
役者なら、まず、呼吸法や発声法、滑舌を経て、まず手につけるのが、歌舞伎の演目『外郎売』の暗唱だ。
彼女はきっと今頃、『外郎売』の暗唱を通り越して、実践的で高度なレッスンをやっているに違いない。
そう思うだけで、学校の勉強や部活の合間をぬって必死こいて覚えた『外郎売』の文言が、ボロボロと頭の中から溢れていく。
これから、外郎売をちゃんと暗記できたかの発表だってのに、あの子へのどす黒くドロドロとした気持ちが、頭の中からこぼれ落ちた文言を次から次へと飲み込んでいく。
拙者親方と申すは、お立ち合いのうちにご存じのお方も御座りましょうが、……
あの子は声が可愛かったから、たまたま基礎科を飛び級しただけだ。
……欄干橋虎屋藤右衛門、只今は剃髪して、……
本科所属のくせに外郎売を履修してないなんて、絶対に相手にされないんだから。
……八方が八棟、表が三棟玉堂造、……
来年には、わたしが本科に進級する頃には、基礎もできていないあんな子は本科残留。すぐ追いつける。
……いや最前より、家名の自慢ばかり申しても、……
挫折しろ。挫折しろ。
あぁ。
彼女を腐すことで、自分の溜飲を下げるわたしは、最低だ。
だけど、どうしたらこの嫌な気持ちを消すことができるの……?
わたしだって、はやく夢を叶えたい。
明日にでも声優になりたいのに。
こんな殻、一刻も早くぶち破りたいのに。
結局。
わたしの『外郎売』の発表は酷く酷く散々なもので。呆れ顔の講師と、「吉野さんどうしちゃったんだろう」と動揺して揺れるクラスメイトの視線が、わたしをもっともっと惨めにさせた。
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