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 生きたくないけれど、死にたくもない。どうせなら静かに消えたい――。    私は白い息を大きく吐きながら、日の出前の暗い大通りを自転車で駆け抜ける。  すれ違う車は、家族が和気あいあいと乗っているような自家用車ではなく、いつもの運送業者らしきトラックだ。  薄暗いこの時間帯を照らすオアシスのようなコンビニエンスストアが、視界の先に見えてきた。    横を通り過ぎると、よく耳にする音楽とともに自動ドアが開き、気だるそうにホットスナックをむさぼる作業着姿の男性がいた。  「おはよう、今日も早いね」  そう私に話しかける男性は、最寄り駅の地下駐輪場で早朝から働いているお爺さんだ。  「毎朝話しかけないでほしい」  私は心の中でひそかにそう思っている。おっと危ない。そんな薄汚い考えが表情に出てしまった。  すぐさま私は表情を変え、今日も笑顔でそんなお爺さんに向かって挨拶をした。  スーツ姿のサラリーマンに紛れ、1人だけ高校の制服を着ている私のことを覚えるのも当然であろう。  ボタンを押し、発券をする。  私は自転車をいつもの定位置に停め、マフラーから申し訳程度に隠していた鼻と口を出した。  まだ息が荒い口を封じ込めるかのように、白いマスクを右耳から左耳へと掛けた。  そして、地上へと続く階段を登りながら、大きな黒いリュックのポケットからイヤホンを出し、両耳に付ける。  音楽を流すわけでもない。ただ、外の世界から入る音を遮断したいがために耳に装着する白いうどんのようなもの。  そして、私は改札を通り過ぎるときに、必ず行うことがある。それは、改札の上にある電光掲示板で時刻を確認することだ。  時刻は6時7分。  「ピッ」っと残高が0円の定期を改札に通した。そこから、ホームの真ん中から最後尾にある女性専用車両へと歩き、10号車2番ドアの前でとまる。  時刻は6時9分――。  「ボォオン」と大きな音と風を立てながらホームに入ってくる電車。  冷たい風と共にやってきたその電車のせいで、制服のスカートが舞い上がった。そして次第にゆっくりと止まる電車。  そんな寂れた銀色の物体をぼおっとを眺めながら、私はリュックを前へと肩にかけ直し、すぐ取れるように横ポケットにしまってある英単語帳を手に取った。  一日二回訪れる、この瞬間。  このホームから飛び立った後の賠償金への不安と、新しく作られたホームドアだけが、無意識に数センチ前へと動く私の右足をその場に留め、正気を保たせてくれているのであった……。  始発駅の数駅先にある私の最寄り駅は、この時間だと席がぽつりぽつりと開いている程度だ。  今日もいつも見かける同じ社会人の女性たち。開いている席に座り、眠い目を擦りながら青い英単語帳を開いた。 「improve を向上させる、よくなる」  「relate を関連付ける、関連する」――    英単語帳に記載されている単語を赤シートで1つずつスライドさせ暗記する。  これが、私の1日の始まりの合図であった。  物心がついた頃から、私は周囲の大人にとって都合のいい子どもであるために行動し続けていた。  何がきっかけかも、何故そうするようになったのかも、今となっては自分でも曖昧である。  ただ1つ言えることは、大人の視線を気にしなければならない環境で育ったのは事実だということだ。  だが、小学生高学年のときだろうか。  「そんな家庭環境はこの世の中よくあることだ」と自分の中で落とし前をつけたことだけは覚えている。  東京都の中でも田舎の市に住む私は、都内で1位と評されている高等学校に合格し、通っている。  家から、自転車と電車を利用して2時間弱。何か目標があってこの高校に入ったわけでもない。いい大学に行きたくて、定期的に落ちてくる瞼を無理やり重力に逆らわせて、英単語を暗記しているわけでもない。  ただ、何となく。夢も希望もない。自分の将来に何の希望も抱いていない。なぜ生きているかも分からない。そんなつまらない人生を送っている女子高校生が、私――山本夏美である。  私が高校に行くために乗っている電車は途中で地上を走る電車から、トンネルを通って地下へと潜り、その瞬間「ボォン」と特徴的な音を立てて、地下鉄へと化す。  真っ暗闇に入るこの瞬間、私は人知れず眉間に皺を寄せる。  「出口の見えないトンネルを彷徨っているかのような、そんな自分の人生を表しているようで嫌いだ」  そう授業中に、教室の窓側の席で、呟いたことがあった。  そんな私の口から発せられた音は、宙を彷徨い消えていった。いや、彷徨ってすらなかった。その場で、誰の耳にも届かず、ぽとりと人知れず落ちていった。そんなことを何故か思い出した。  私は一瞬だけ目をぎゅっとつぶり、音を発していないイヤホンを人差し指でトンッと一回叩いた。  そうすると耳から聞こえてくる、バイオリンで奏でられるパッヘルベルの「カノン」      これが、私が暗闇の中で唯一心を落ち着かせることのできる方法である。  音楽に耳を傾けながら、英単語帳をめくる。そんな私に、  「落ち着くまで単語帳をやめて、寝たら?」  そう話しかける声が頭上から聞こえたが、聞こえないふりをした。  私は今、傍から見たら無表情で英単語帳を勉強している女子高生であるが、自分の心拍を落ち着かせるのに必死なのである。  そう思いながら、ガタンゴトンと左右に揺れる電車は、時刻どおりに今日も歩みを進めていた。  「永田町――、永田町――」  この漢字三文字の響きを何度憎んだことか。とうとう目的地に着いてしまった。そう毎日、忙しなく電車から降りるサラリーマンに交じり電車から降りて、長く上へと続くエスカレーターに乗る。  いつだろう。確かあれは、入学試験の願書を出しに、初めて永田町に降り立った日のことだった。  東京に稀にみる大雪が降って、4時間ほどかけてやっとの思いで、このホームに初めて降りた中学生の私。  家を出るときには、大粒の雪が降り積もり、最寄りの駅のホームからも地面に降り注ぐ雪が珍しくて、遅延して止まっている電車から永遠に窓の外を眺めていた。  だが、やっとの思いで降り立ったこの地下鉄には、一片も雪がなく、昼間だからか人がいなくて、どこか殺風景であった。  そんな不安な気持ちで乗った、前に誰もいないエスカレーター。そのとき、長く永遠に上へと続くように見えたこのエスカレーターは、私を天国へと自然に導いてくれる道標のように感じた。  先程まで殺風景と感じていた景色が、キラキラと輝き、先が見えない上のフロアが本当に天国なのではと期待したほどであった――。  そして、地上へ降り立ったとき。そこには、私しかいない、真っ白な世界が広がっていた。  この永田町の地を見ることができる坂の上。そこに私は降り立った。  誰も足を踏み入れていない未開の地のような足跡一つもない世界。    「ここが私の天国だ」そう確信した。    それから、数年。そんな道標のように感じたエスカレーターも、私にとっては地獄へ導くエスカレーターと化した。誰が天国は上で地獄が下だと決めたのだ。  この長いエスカレーターを2つ上がれば、改札にたどり着く。私は無表情で改札を通り抜け、階段をゆっくりと登る。  1歩1歩足を進めるにつれて、地下の暗さで慣れていた瞳に、眩しい光が容赦なく差しこんでくる。そして、私は数時間ぶりに地上へと降り立ったのである。  鼻から大きく地上の息を吸う。正直、私はこれが美味しい空気なのか、そうでないのかは分からない。  私は何事もなかったかのように学校へと足を進めた。周囲には、まだ登校をするには早い時間の為、同じ高校の制服を着ている生徒は見当たらない。  そんな私は、地下鉄へと変化したときに、かけ始めたパッヘルベルの「カノン」の演奏を止めた。  だが、イヤホンは付けたままである。両手は紺色のブレザーに突っ込み、中学3年生のときから履いている底が剥げたローファーで歩みを進める。  そうしていると、私に、何やら周囲を見渡してから、話しかける存在がいる。  「ねぇねぇ、どうして毎回無視をするのさ」  そんな彼の問いかけに、私は歩みを止めず、イヤホンを外すわけでもなく、ただただ前を向きながら、白い息を吐いた。  「はぁ、何度言ったら分かるの。あなたの声は他の人には聞こえないの」  「分かっているよ、だからって電車で無視することないでしょうが」  「……電車の中だから尚更」  そう私がため息をつきながら言うと、黙ってしまった彼。  多分私の機嫌を損ねてしまったとでも思っているのだろう。そんな会話をしていたら、あっという間に私が通う高校へとたどり着いた。  「学校の授業中は話しかけないでよ」  念を押すように、左後ろにいる彼の方に振り返った。  「分かっているよ、退屈だけどね」  そう彼はわざとらしく観念するかのようなジェスチャーをした。
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