0人が本棚に入れています
本棚に追加
呆然と、目の前の惨状を眺める。割れた玉子。飛び散ったガラス片。陽光が差し込みいやに煌めいている。
「どうしたの」
声を掛けられ振り返る。買い物袋を下げた由利が立っていた。帰って来ていたのか。ちっとも気付かなかった。
「何、この散らかりようは」
怒ると言うより呆れている。妻の反応は当然だ。僕はとっても粗忽者。家の鍵を職場に忘れる。何の気なく置いた物の場所を忘れて探し回る。ポケットに入れた定期入れを落とした回数は両の指でも全く足りない。だから今回も僕のうっかりに端を発しているのだと由利は即座に悟ったのだ。理解のある奥さんに巡り会えてつくづく幸せ者であると実感する。
「玉子をね、冷蔵庫から取り出したんだ。小腹が空いたから、ご飯と鰹節と混ぜて焼こうと思って。それにお醤油を垂らした軽食、君も好きでしょう」
由利の眉が僅かに上がる。しまった、また本題と関係のない話を広げてしまった。要領を得ないと人からよく指摘される。咳払いをして本題に戻った。
「手が滑って玉子を落としかけた。床に落ちたらきっと割れる。そうなればなかなかの惨事になる。なにせ生の玉子は片付けにくいからね。黄身はまだ掬い取り易いが、白身はぬるぬる指の間を抜けるばかりで一向に捕まらないもの」
妻の眉が今度は真ん中に寄る。既に夫婦となって五年。彼女はいちいち指摘はしない。でも行動の端々に苛立ちが垣間見える。ごめんね、どんくさい旦那で。
「だから落としちゃいけないと思って空中の玉子に手を伸ばした。しかし掴み損ねた。それどころか勢い余って、置いてあったペアのシャンパングラスを二つ纏めてぶっ叩いてしまった。玉子は割れた。シャンパングラスも両方割れた。どうしてこうなったのか、考えようとしたところで君に声を掛けられた。お帰り、由利」
「ただいま、悟」
やれやれと由利は荷物を置いた。塩を手に取り玉子にかける。目玉焼きにしたら美味しくなりそう。
「このまま十分放置しよう。玉子が固まるらしいよ」
なんと、そんな裏技は全く知らなかった。おばあちゃんの知恵というやつか。それなら僕の想定よりも惨劇の度合いは低かったのではないか。
次に由利は軍手とスリッパを持ち出した。僕にも着けるよう促すので素直に従う。大きなガラス片を拾い、ビニール袋に入れた。次にガムテープを床やシンクの周りに貼り付けた。細かい破片をくっつけているのだ。手伝おうとしたのだが、いい、と手の平を向けられた。確かに僕が作業をしたら、玉子を踏んづけて転びそうだ。それなら何故軍手とスリッパを装着させたのか。由利の思考を想像する。
「悟に作業をさせる気は無い。恐らく二次災害、三次災害が発生する。だけど最初から戦力として見ないのも可哀想だ。傷付くかも知れない。だからせめて軍手とスリッパを履かせて、いつでも手伝うことが出来る状態にしておこう。そうすれば、私が全部片付けても嫌味にならないはず」
こんなところか。由利は優しいな。その上、手際もいい。どうして僕みたいな、すっとろい人間と結婚したのかな。由利に告白された日を思い出す。高校二年生の冬だった。放送委員だった僕らは、放課後の準備室で雑談に興じていた。当番の順番決めが目的で集合をかけられたのだが、終わってからも一時間以上二人で喋っていた。他の委員はとっくにいなくなっていた。放送室という特殊な部屋の一部であるせいか。準備室では音が全く反響せず、また外からの音も完全に遮断されていた。僕らの声と行動だけが耳に届く全てだった。
「私、悟のことが好きだよ」
だから由利が想いを口にした時、僕にはその言葉以外何も聞こえなかった。音だけではなく好意にも一片の混じりっけが無いように感じられて、とても綺麗に思った。嬉しかった。緊張した。ドキドキした。そして、戸惑った。僕は彼女が好きになるような人間ではない。勉強は普通。運動はあまり得意ではない。何よりとても鈍くさい。僕がぼんやりしていることを由利もよく知っている。委員会で、放送原稿を何処へ置いたか忘れたり、しょっちゅう言葉を噛んだり、打ち合わせの話を聞いていなかったり、そういうところをたくさん見てきたはず。それで、告白の相手を間違えてはいないかと何度も確認した。或いは君の思うような人間ではないとはっきり言った。由利は顔を引き攣らせ、僕の両頬を引っ張った。
「もう一回、人違いじゃないですか、もしくは僕は貴女に釣合いません、って口にしたら全校放送で告白するからね」
そんな突拍子のないことを実行するわけがない。でもそう言い切れない迫力が彼女の据わった目から感じられた。ようやく僕は、ありがとうございますと受け入れた。十年以上前の話だ。何度思い返しても色褪せない、僕の人生において一番大切な記憶。
「古新聞、持って来て」
由利の声で我に返る。こちらを向いた彼女は、何をにやけとるか、と軍手を外して僕の頬を引っ張った。つい今しがた浸っていた記憶と重なる。余計に顔が弛緩した。
「ほれ、とっとと行く」
僕を反転させて尻を叩いた。言われるがままに古新聞を持って来る。ガラス片の入ったビニール袋と破片の付いたガムテープ。それらをくるみ、更に大きなビニール袋に仕舞った。
「不燃(ガラス片)」
由利はマジックで袋に書いて、玄関へ持って行った。戻って来ると同時にキッチンタイマーが鳴る。丁度十分、と人差し指と中指を立てた。お見事、と拍手を送る。僕ならガラスで手を切ったり、欠片を入れたビニール袋に穴が開いたりとハプニングに見舞われて三十分くらいかかったに違いない。
固まった玉子を由利がキッチンペーパーで丁寧に拭き取る。真剣な顔に目を奪われる。そうだ、と思い立ち濡れ雑巾を用意した。キッチンペーパーと入れ替えに渡す。サンキュ、と白い歯を見せた。役に立てて嬉しい。想定よりも遥かに早く掃除は終わった。ひとえに由利のおかげだ。ありがとうと頭を下げる。
「慣れたものですよ旦那様」
茶化されて頭を掻いた。気を付けてはいるのだが時折大惨事を引き起こしてしまう。
「ごめんね。いつも尻ぬぐいをさせて」
「いいよ。そういうところも含めて悟と結婚したのだから」
そこで、あ、と由利は割れたグラスに目を留めた。
「赤野君に貰った結婚祝いだったね」
久々に聞いた友人の名前。お二人さん、これで美味い酒を飲んでくれ。そう笑って彼は包みを由利に手渡した。僕では手を滑らせるかも知れないと思ったのか。赤野君も高校からの付き合いだから、そのくらいの気遣いはおかしくない。
由利は割れたグラスを慎重に持ち、リビングのテーブルにそっと置いた。背の高いシャンパスグラスだったが、今は二つとも上半分が割れている。
「これで色々なお酒を飲んだよね」
しみじみと由利が呟く。
「記念日や、お祝いごとがあった時にはこのグラスでシャンパンを飲むのが定番になっていたもの」
そんな記念の品を、玉子一つを割らないために壊してしまい本当に申し訳ない。結果的に玉子も割れたので、僕はただ破壊行動に勤しんだだけだ。
不意にスマートフォンを取り出した。何か調べ物をしている。ぼんやり眺めていると、こちらへ画面を向けた。
「もしかして、と思ってね。修理出来ないか検索してみたの。完全に復元するのは無理だけど、上の割れた部分を切って無事なところを加工してくれるみたい」
「そうか。背が高いグラスだから、上を切っても下の部分が十分グラスとして機能するのか。やってもらえるかな。どうだろう?」
僕の問いに、私に訊かれてもわかんない、と由利は笑った。またやってしまった。彼女に訊いても仕方無いことをいつも僕は問うてしまう。
「お店に持って行けば、出来るかどうかをその場で教えてくれるみたい。週末、行ってみようか。駄目で元々だし、お出かけも兼ねてさ」
画面を見ながら由利が答えてくれる。ありがとう、僕の質問にちゃんと答えを提示してくれて。僕は悪い癖が直らないのに君は少しも怒らない。それどころか優しく対応してくれる。
「いいね。行こう。直してまた使えたら、嬉しい」
思い出の詰まったグラスだもの。それに、赤野君がくれたからという理由もある。彼は僕の数少ない友人だった。由利と同じように高校の放送委員会で知り合った。大学に入り、社会人になってからも年に二回くらいは会っていたのだけど、ある時を境に連絡が取れなくなった。由利が知り合いに聞いたところによると、深刻なアルコール依存性に陥って治療中とのことだった。何が彼をそこまで追い立てたのか、僕にはわからない。最後に会った時も、赤野君は僕の知っている赤野君だった。面白おかしい話をして、僕達を笑わせた。そんな彼から貰ったグラスだ。壊した僕が言うのもなんだが、使える限りは大事に使いたい。壊した僕が言うのもなんだが。
「赤野君、元気かな」
ぽつりと言葉が漏れた。まだ治療中だって、と由利がすぐに返事をくれる。そっか。
「急にしんみりしないでよ。お茶でも入れようか」
由利が台所に戻る。仕舞うのを忘れていた、と叫ぶ声と、袋の擦れる音が聞こえた。そう言えば買い物から帰ってすぐに僕の世話に追われたのだった。僕も台所へ向かう。コップを二つ取り出し、ペットボトルのお茶を注いだ。慎重にテーブルへ運ぶ。このコップまで割ったら流石に三日は落ち込む。
グラスの隣に並べてみた。無事なコップと割れたグラス。悲しい対比。
やれやれ、と由利が椅子に腰掛けた。サンキュ、とお茶を飲む。
「ちなみにね、加工料は一個五千円だって」
「じゃあ二個で一万円だ」」
当たり前のことを口にして、すぐに気付き恥ずかしくなる。もっと上手に喋りたい。赤野君みたいに由利を笑わせたい。
「あと、私実はグラスの値段も知っているの。百貨店でたまたま同じ物を見付けちゃってさ。ペアで四万円だった」
危うくコップを取り落としかけた。そんなに高価な物だったのか。勿論値段に関係無く大事にはしていたけれど、もっと丁重に取り扱うべきだった。
「じゃあ僕は、一個二十円かそこらの玉子を割るまいとして、結果五万円の損失を招いたの?」
肩を落とす。本当に情けない。由利が僕の首に腕を回した。
「落ち込まないの。次、気を付ければいい。ううん、君にはそれも難しいかも。大丈夫、私はそんな君も好きだから。それに思い出はプライスレスだ。いくらかかってもグラスは直そうよ。なんなら玉子を助けるために一回壊されたグラス、って面白い付加価値が付いたじゃない」
それこそ面白い慰め方だ。うん、と鼻を啜り頷く。由利のおかげで気分が高揚としてきた。由利のおかげ。由利のおかげで。由利のおかげ、で。
「週末じゃなくて、今から行こうよ。きっとまだ間に合う」
彼女の手を取る。外では陽が傾き始めていた。そうだね、と手を握り返してくれる。
「空を飛んで行けば余裕で間に合うよ」
「夕日を見ながら割れたグラスを直しに行くのも何だか素敵な気がしない?」
「とてもロマンティックだね。でもね悟、また落としたら駄目だよ。今度こそ本当に壊れてしまうから。きっと、どうしようもないほど、粉々に」
窓から宙へ浮き上がる。お店の場所なんて知らない。行きたいと思っていれば、その内着くに違いない。一緒にいれば何処へでも行ける。由利と二人なら何処にでも、何処までだって、歩いていける。いや、僕らは飛んでいるのだから、歩くのは地面で、ここは空中だから、僕達は何故飛んでいる? 不意に夕日が闇に変わる。夜の街に明かりが灯っていて、一つ一つが虹色で、その下に人なんて誰もいないと僕は知っていた。目の前に現れた真っ黒い電線を避ける。
由利の手が、離れた。
「お前は何処にも行けないよ」
その言葉に振り返る。僕の後ろには赤野が座り込んでいた。辺り一面、闇一色。空気と地面の境目も見えない。何処にも行けないよ、と彼が繰り返す。
「どうして君が此処にいるの。病気の治療中だろう。抜け出してはいけないよ。由利は何処。僕は彼女とずっと一緒に生きるんだ」
「抜け出そうとしているのはお前さ。出られない部屋で幻覚に引き籠って、そのくせ外へは出ようとする。さあ、もうすぐ薬が効いてくる。今日も現実に戻る時間だ」
闇に罅が入る。玉子から生まれる雛の気分。罅がゆっくりと世界を覆う。そして唐突に、音も無く、粉々に割れた。
目を開ける。柔らかい床に僕は寝転んでいた。さっきまでの幸せな日常は一つも存在しない。夢なのか。幻覚なのか。現実だと思い込んでいた僕にはどっちなのかなんて判別出来ない。とっくに心の壊れた僕は、一人でこの保護室に転がっている。いつからいるのかなんて忘れた。誰がお金を払っているのかなんて知らない。多分家族がいたはずだから、その人達が負担しているのかな。こんなゴミクズのために身銭を切るなんて、前世でどんな悪行を積んでしまったの。
グズ。役立たず。邪魔。足を引っ張るな。目障り。どけよ。何でここにいるの。さっさと消えろ。
お前に生きる価値なんて無い。
誰も優しくしてくれなかった。暖かい言葉なんて聞いたことが無い。人間に温もりがあるなんて信じられない。僕は毎日一人で壁に向かい泣いていた。気晴らしになればと飲んだお酒は僕を殺した。夢の中で由利がかけてくれた言葉。全部、現実で言われたかった。
薬が切れると僕は幸せな幻に籠る。殻を被って、空想の世界に浸りきる。存在しない、由利という僕が唯一信じられる人へ、会いに行く。だけど必ず外へ出ようと暴れ出すそうだ。医者か誰かが言っていた。世界と部屋の、どちらから抜け出そうとしているのか。僕は後者だと思う。だって前者から抜け出したくなる理由が無い。そうして薬を打たれて、引き籠った世界が割れて、現実世界にまた生まれる。毎日その繰り返し。そして生まれる度にいつも思うのだ。
僕の玉子を割らないで、と。
最初のコメントを投稿しよう!