第十三章:さくら

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 彼のいない生活を再開してもう一年が経つ。だけど一年経ったというのに、俺の中の比呂人は全然消えてはくれなかった。  今年で俺は二十五歳を迎える。一年四ヶ月続いた比呂人との恋人生活は、結局答えが見つけ出せないまま、苦しくてお互いから逃げてしまった。  置きっ放しにされたままの俺の服もアクセサリーも靴も金魚でさえも、彼はもうきっと全てを捨ててしまっただろう。  今、何をしているんだろうって、彼のレストランを覗きに行きたい衝動を堪え、夜中、灯りの点いていない店の前で、一体どれだけ呆然と立ち尽くしただろう。  数えていないから分からない。  店の扉、綺麗に並んだテーブル、豪華なシャンデリア、一面ガラス張りの窓から見えるのは、立派なバーカウンター。その後ろには、数えるのもうんざりするほどのリキュールボトル。  ……あそこに比呂人が立っている。  黒く長いサロンを巻いて、カクテルを作る姿を、俺は想像の中で何度も見るんだ。何度も……何度も。  そんな生活が耐えられなかった。  少しでも気を紛らわしていないと、勝手に涙が零れそうなくらい俺はまだ比呂人のことが好きで、出来ることならもう一度やり直したいとさえ思っている。  こんな女々しい自分が嫌だった。やり直したいなんて、未だ答えの出ていない自分が望んでいいことではない。  だけど、この後に及んでまだ強情な自分は、女々しい自分よりもっともっと嫌いなんだ。  どうして男を捨てられなかったんだろう。馬鹿げたプライドだ。本当に嫌になる。  シングルを三部作にしたいと社長に申し出た。  いいんじゃない、好きにしちゃいなさいよ、なんて、うちの社長は軽い。すんなりオーケーを貰い、マネージャーにイメージを伝え、作曲家の先生達とたくさん話し合った。  一度、比呂人は俺にズルイと言ったことがある。  比呂人が最初で最後のコンサートに来てくれた時に歌った ”ココア”。DVDを二人で見ていたら、「こんなのズルイ」って言ったんだ。気持ちを伝える術をこんな形で持っているなんてズルイと。だから歌に乗せて比呂人へ気持ちを伝えるのは、ココアが最初で最後だと決めた。  確かに不公平だと思ったから。  女の子なら、きっと泣いて喜ぶのかもしれないけど、比呂人は男だから、愛を歌っても喜ばない。僕だけ直接話さなきゃならないのは可笑しいよなんて言うからさ、俺は苦笑いしか返せなかった。  三年ほど続いたモーニングコードも、去年の十二月に最終回を迎えた。あまりに悲しくて、情けないほど泣いた。毎朝おはようと言い続けた比呂人に、もう朝の挨拶も言えなければ、いってらっしゃいと見送ることさえ出来なくなるのだと収録ギリギリまで泣いていた。  頑張って、明るく、楽しく最後の収録をしたけど、やっぱり比呂人が一番好きだった ”いってらしゃい” の言葉は……震えた。泣いてるなんて思われたくなくて、バイバイ!と威勢良く言ってごまかしたのを覚えている。
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