第十三章:さくら

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 桜舞う季節。  比呂人が本当に珍しく出掛けたいと言った。  二人でデートなんてしたことがなかったけど、付き合っていた一年四ヶ月の中で、これもまた最初で最後のデートをした。二人で弁当を作り、下手くそな彼の卵焼きも弁当箱に詰め込んで、初めて遠出した。  バイクに乗って外に出掛けることもたまにあったけど、休みを合わせて遠出したのは本当にあれが初めてだった。  レンタカーを借り、比呂人の運転で横浜へ行った。  運転出来たんだと言う俺に、比呂人は笑った。亮介はタバコも吸えなければ、運転免許も持ってない。子供みたいだねと、可笑しそうに笑ったんだ。  あの横顔、ハンドルを握る手、風になびく髪……。忘れられるわけがない。  家の前の桜並木を見上げる。  一年間通ったこの道も、二度目の春だ。満開の桜がはらはらと俺の上に舞った。  二十三歳の十二月、比呂人と別れて一人暮らしを始めた。実家にはとてもじゃないが戻れなかった。比呂人と同じ駅なんて使えるわけがない。またおっちょこちょいな彼の定期入れを拾ってしまうかもしれないから、あの駅には降りることさえ怖くて出来なかった。  満開の桜に俺は比呂人の笑顔を思い描く。  何度も抱き合い、何度もキスをした。何度も触れ合って、何度も確かめ合った。だけど最後までひとつになることは出来なかった。  新しい恋をしようって……、今度はちゃんと女性を愛そうって、別れを告げられた。亮介はまだ若いからこんなとこで足踏みしてちゃダメだって、そう別れを告げられて。  嫌だって、俺は子供みたいに駄々をこねて、離れたくない別れたくないって、一緒に居てくれって縋り付いて、何日も何日も話し合った。比呂人に見捨てられたくなくて、情けないほど泣いて、絶対に別れないと抱き締めて離さなかったけど、ある日突然、部屋の鍵が変わっていた。  近所迷惑なほどドアを叩き続け、一晩中待っていたけど、朝になっても彼は出てこなかった。  三日三晩通い続け、ようやく部屋に入れてもらった俺だったけど、部屋に入ると俺の荷物は綺麗に纏めて大きな鞄に詰められていた。  亮介を抱きたい  真剣な瞳の彼が俺に訴え……別れたくなくて頷いた。  だけど最終的にやっぱり拒絶してしまったのは俺だった。  絶対に拒絶してはいけなかったのに、直前……侵入をはかる直前、たった一言「いやだ」と呟いてしまって……そのまま俺たちは終わった。  俺は荷物と一緒に追い出され、初めて貰った誕生日プレゼントの洋服二枚と帽子だけを取り出すと、後の荷物は玄関先にそのまま置き去りにした。  十二月の極寒。  三日三晩開かない玄関先で彼を待ち続けた俺は風邪を引き、しばらく仕事を休んでしまった。  もう使えないと分かっている部屋の合鍵は、まだ俺の手元に残っている。  桜ははらはらと舞い、性懲りもない俺の涙は、勝手にこぼれて落ちた。
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