第一章:ミステリアスでスリリング

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「日下さん!」  だけど僕と彼の馴れ初めはこれだけでは終わらなかった。アパートに入る直前。僕を呼び止める声がして振り返ると、松葉杖で息を切らしている彼がそこにいた。  何故名前を呼ばれたのか、何故追いかけて来たのか、それでも松葉杖で息を切らしてまで追いかけて来てくれたのだ。慌てて彼の元まで駆け寄ると、見覚えのある定期入れを差し出された。 「落としてましたよ」  さっき鞄を落とし掛けた時に、これだけ落ち抜けてしまったのだろう。 「わっ! これはどうもありがとうございます! わざわざすみません」 「いえ。俺……いや、僕もココア頂きましたし」  丁寧に言い直し、あの綺麗な笑顔を見せてくれた彼に、僕はすっかり気を良くしてしまった。  再会したのは、それから半年以上経ってから。最寄りの駅で巡り合った。  いつだってきっかけは定期入れ。  二つ折りの定期入れに、僕は免許証も入れている。手を滑らし落としてしまった定期入れは、開いた状態で彼の足元に落ちた。すっと拾い上げ、僕の免許証を見て、彼は笑ったのだ。  僕は全然気付かなかったけど、彼は僕を覚えてくれていて、「ご無沙汰です」と丁寧に握手を求められた。  すぐに仲良くなった。  若いと思うんだけど、すごくしっかりしている子で、年だってきっと離れているだろうに、何故か会話に困ることもなかった。  だけど、教えてもらったのは名前だけ。 「加藤君」  下の名前すら知らない。その代わり、僕もプライベートなことはひとつも聞かれなかった。僕の名前だけは免許証で知られてしまっているけど、年齢も誕生日も出身地も仕事も、何も聞かれない。だから僕も聞けない。聞いちゃいけないみたいに、彼は自分のことを話さないから、聞きたくても聞き出せない。  それでも何故か彼のことは信用できる。こうやって家に上がり込んで来ても、厄介だと思うことすらない。むしろこうやって、彼がたまに実家に帰る度、どこか寂しい。  最初、実家に帰るのが嫌なんだと思っていたけど、実はそうでもないみたいだし、一人暮らしをするにはお金がないのかと思いきや、「家賃です」とたまにお金を渡してくれる。いらないと断るんだけど、ダメだよと言いながら、目を疑うほど札の入っている財布から、万札を数枚握らされるのだ。 「いけないご職業の方なんだろうか」  正体を明かそうとしないし、実家に帰らず、身を潜めるようにここに寝泊まりして、お金も腐る程持っているようだ。 「やっぱ……ヤクザなのかなぁ」  出勤時間だっていつもバラバラ。帰宅時間でさえ定まっていない。一度、海外に行くからしばらく帰らないと言われたけど、驚くことに三日で帰ってきた。どれほど帰ってこないのかと思っていたのに、たったの三日。せっかくの海外に行っておきながら、三日で帰ってくる方が不自然だ。しかも、三日くらいじゃしばらくの範囲じゃない。  不思議な、本当に不思議な人。
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