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あとは字が汚い。読めるけど、とても上手とは言えない。それからそう、歌がうまい。聞いたこともないような歌をよく歌っているけど、とても綺麗な歌声なんだ。誰の歌かと聞くと、彼は決まって「俺の歌」と答える。答えになってないけど、粋なジョークも得意だ。
他には、動物も好きみたい。いきなり金魚を飼いたいと言い出し、翌日リビングに小さな水槽が置かれた。ちゃんと毎日世話してるみたい。留守の間は何故か僕が面倒をみなくちゃいけないけど、餌くらいなら僕にも出来る軽作業だ。
それから……あ。バスケが出来るみたい。よくキッチンの窓からフープを見下ろしては、バスケがしたいと呟いているから。
実は僕も学生時代はバスケットをしていた。だから仕事場から少し離れてでもこのアパートを選んだ。いつだってバスケが出来るようにと。
だけど実際はなかなか忙しくてボールを触れない日々。もう忘れてしまった。きっと感覚は鈍りすぎて、スリーポイントすら打てなくなっているだろう。
そんなくだらないことをぼんやり思いながら、僕は自分のベッドに這い上がった。明日も早い。加藤君のいない誕生日なんて、さっさと終わってしまえばいい。一人の誕生日ほど虚しいものはない。それはきっと、いくつになっても変わらない感情だろうな。
翌朝。定刻通りに起きてスーツに着替えると、いつものようにキッチンのラジオをつけた。朝にテレビをつけてしまうと、ついニュースに夢中になって時間配分を間違ってしまう。慌てるのも嫌いだし、駅まで走るのだって面倒くさい。それならラジオでのんびり朝を過ごす方が随分僕らしい。
簡単なご飯を作り手を合わせる時、お待ちかねのコーナーが始まる。十五分枠の短いラジオコーナー。爽やかなSEと共に『モーニングコード』という色っぽい声がタイトルコールを告げる。
『おはようございます、加藤亮介です』
しっかりとした口調の彼。嫌いじゃない。真面目な話も冗談も上手に喋り分ける。何の話をしているのか分からない時もたまにあるけど、一年以上聞いていて分かったことは、きっと彼はアイドルだということ。
……ん? アイドル? そう言えば、昨日のバラエティ番組で ”codeの加藤” の話題が出ていたな。このラジオ、『モーニングコード』。パーソナリティ『加藤亮介』。
「こいつか」
思わぬところで辻褄があった。このパーソナリティ加藤。今は真面目に話しているが、先週はUSJではしゃいでいたわけだ。
「アイドル……ね」
たった十五分のモーニングコードだけど、僕はこのコーナーが好きだ。最後に必ず加藤が言うセリフ。
『いってらっしゃい』
この声が好きだから、いつも最後まで聞くようにしている。渋い声なんだよね、彼。アイドルのわりに。羨ましいよ、こんな声に生まれたかったなんて僻んでしまうくらい。しかも、アイドル。どうせ顔も綺麗なんだろう。羨ましい。天は二物も三物も与えちゃうんだ、時としてね。こちとら二十九歳にして結婚もしていなければ、恋人だっていない。仕事が恋人状態だ。
それでも半年前に再会した加藤君と少し変わった生活を始めるようになりだして、どこか面白みを感じ始めた最近は、それなりに楽しい。
謎の多すぎる彼に、多少の不信感を抱くこともあるけど、そんなミステリアスなところにスリルさえ感じている僕は、代わり映えしなかった今までの日常を彼で満たしている。
七時半過ぎ、僕は家を出た。帰ってきた時、この玄関先に赤い自転車が停まっていればいいと思いながら。
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