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朝顔邸の青年
「橋本さん。今お帰りですか?」
「えぇ、そうです。見事に咲いた朝顔ですね。」
「あぁ、えぇ。ありがとうございます。ここの大家さんがお好きだったようで、越して来た時からあるんですよ。毎年こぼれ種から花が咲いています。僕も時々手入れの真似なんかをしてみますけど、ほとんどほったらかしです。それでも美しく見事に花をつけ楽しませてくれます。」
「へぇー、そうでしたか。私も通るたびに楽しませてもらっています。」
「どうです? よかったら縁側で一杯。ちょうど頂き物の枝豆やとうもろこしがあるんですよ。」
「おやおや、夏らしいですね。私もそこで焼き鳥と出汁巻きを買って来たんですよ。これから家で一杯やろうと思って。じゃぁ、せっかくのお誘いですからお邪魔しましょうか。」
「えぇ、ぜひ。朝顔ももうすぐ閉じてしまいます。咲いているうちにぜひ。」
そう青年に誘われて、夏の夕暮れ時の縁側に腰かけた。私は、学校がまだ夏休みだったから帰りも早く夕陽が残るうちに帰路についていた。
私を誘ってくれた青年は家具職人をしていて、お客の好みを聞いて一点物を作る工房に勤めていると話した。家具職人になって十年程だと言ったので、おそらく三十歳前後なのだろう。先日初めて大事な仕事を任されたと喜んでいた。
「実はね。先日、あの丘の上のお屋敷に呼ばれて親方と一緒に行って来たんですよ。」
「あぁ、あの丘の上の? 確か・・・ 建築か何かの会社をされている。あの大きなお屋敷に?」
「えぇ、そうなんです。東堂さんのお屋敷へ。そこのお嬢様が家具を新調なさりたいとかで、呼ばれたんです。」
「へぇー、そうなんですか。じゃぁ、好みを聞いて一から手作りで?」
「はい。桜の木でロッキングチェアを作って欲しいとのご依頼で。その仕事を親方が、私に一人でやってみろと言ったんです。全て私に任せると。」
「ほう。それはすごいじゃないですか。おめでとうございます。いよいよ一人立ちですね。」
「はい。もう嬉しくて。嬉しくて。お嬢様もとても美しく優しそうな方で・・・」
青年は少し顔を紅らめた。
「そうですか。注文家具となるとお客の話をよく聞かなければならないし、きっと幾度も話し合わないとならないのでしょう? 相手が親しみやすい人なら安心ですね。」
「えぇ、本当に。話を聞くにもびくびくするような人では、こちらが参ってしまいます。だから依頼主のお嬢様がよい人でよかったです。とても気さくに話してくれるんですよ。」
青年は目を輝かせて嬉しそうに話してくれた。
その様子を見て私は、恋をしているな。と心の中で思った。だが、深窓の令嬢と家具職人ではすむ世界が違う。悲恋の始まりだとしたらと想像してしまい居た堪れない気持ちになった。
「それでもう、作業には取り掛かっているのですか?」
「えぇ、二か月半後には納品しなければならないので、毎日かかりきりです。」
今度は職人の顔をした青年が言った。
「そうですか。それは楽しみですね。どんなロッキングチェアが出来るのか。」
「えぇ、毎日が充実しています。家具職人になってから初めて味わう喜びです。」
それから二人でつらつらとたわいもない話をしているうちに、垣根の朝顔は花を閉じ美しかった青を失い急にしわくちゃのお婆さんになってしまったように萎んでいた。
「あの朝顔は、花が開いている時は美しく凛としていて、儚げで艶めかしい美人のようでもありますが、萎んでしまうと魔法が解けた老婆のようですな。」
私は思わず口にしていた。
「えぇ、分かります。あの青さといい花弁の薄さといい何とも言えない美しさで惹かれてしまいます。ですが萎んでしまうと、もうあの青は無く別の花のような印象です。」
「全く。本当に君の言う通りですな。私はあの朝顔を見て初めて、後ろ姿の美しい花だと思ったんですよ。変な話ね、こんな美人に振り向いて欲しいと感じたんですよ。はははっ。」
私は言いながら照れ臭くなって、言葉の終わりを笑ってごまかした。
だけど彼は、少し遠い目をしながら
「えぇ、分かります。あんな美しい人に振り向いてもらえたら、そう思う気持ち・・・ 本当に美しい朝顔です。」
と話したが、その本意は目の前の朝顔ではなく東堂家の令嬢の事だろうと思った。
すでに夕陽は落ち、空は深い青の時間へと移っていた。肴も終わり会話に沈黙が生まれたところで、私は縁側からお暇した。
そうして今日のように、この道を歩き家まで帰ったのだった。
その後もう一度、青年に声を掛けられ家に上がって一杯やった事があった。その時には火鉢にあたって写真を見たんだ。完成した桜の木のロッキングチェアの写真を。木で出来ているのにとても柔らかそうな椅子だと感じた覚えがある。無事に完成し納品を終え、東堂の令嬢もとても気に入って喜んでくれたと、彼は嬉しそうに話していた。
その時の一杯が、青年との最後になった。
どうやら東堂のご令嬢が気に入ったのは、ロッキングチェアだけではなかったようだ。意外にもあの青年の恋は実ったのだ。
令嬢に見初められ青年は、東堂の傘下に入り一人前の職人として親方の元を独立した。そして、東堂の会社に新しくできた注文家具の部門を任された。大出世だ。
更に新しい年からは、東堂のお屋敷に住むことになったと暮れに慌ただしく引っ越して行った。私が青年と一緒に美しく青い朝顔を見てから、わずか四か月後の事だった。
もう桜が咲いたが、まだ誰もあの家に越して来てはいない。少々古いし若者向きではない。かと言って年配になってわざわざ古い家に引っ越す者も少ないだろう。そんな事をつらつらと歩きながら考えているうちに、あの朝顔邸から我が家に着いた。我が家までは、あの朝顔邸からわずかの距離である。
ご近所だった青年は遠く幸せの地へと行ってしまい、私との距離は広がってしまったようだ。
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