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誘いの風に乗って
私にとって私立高校への赴任は、初めての事だった。それまでの十五年余りは、ずっと公立の高校を転々としていた。辞令が出る度に引っ越しをしたりして自由気ままに渡り歩いてきたけれど、四十を超えた今、もう少し違った自由を手に入れたくなっていた。そう気づいたのだ。
一か所で腰を据えて仕事に取組み、趣味とか旅行とかそんな個人的な事に時間を使う事に重きを置きたい。そんなふうに思うようになっていたのだ。
幸いにというか、図らずもというか、まだ独身なので十分な選択肢が並んでいる。英語教師を続けて来た私も、そろそろベテランの域に足を踏み入れている。
しかし、本場で自分の英語力を試したのは、学生時代に運よく選ばれた留学の時だけ。あれ以来、英語の耳も遠ざかっている。出来る事ならもう一度、本場へ行って耳を慣らし感覚を研ぎ澄ませたい。そんな願いもこの私立高校ならば、あわよくば叶うかもしれないと、思い切って公立の教員を辞めて私立へ移ったのだ。
私と同じ年に、やはり公立高校から移って来たのが数学教師の天宮先生だった。彼は七つ年上でクールな雰囲気の漂う背の高い男だ。
どこから出たのか最近結婚したばかりで妻は一周りも離れた美人だとの噂があり、とても洒落ていてスマートに話すタイプだが、嫌みな感じはなく気さくな男でとにかく魅力的な人だ。私も魅了された一人だが、運よく気が合い彼も私に親しみを持ってくれた。
この私立高校では同期という仲間意識もあって、赴任したばかりのころは二人でよく飲みにも行ったし天宮先生の家に招かれた事もあった。
さすがに新婚のお宅にそう幾度もお邪魔するのは気が引けたので、お誘いの三回に一回くらいは伺うというペースにいつの間にか落ち着いた。なんでも、外で飲むより家に招いた方が奥様は安心するそうで、その方が都合がよいのだと天宮先生は言っていた。奥様が妙に勘繰ることもなく済むので、結婚生活がしやすいのだと。
それに私は、幾度かお邪魔して奥様に好感を持たれているらしいので、「橋本先生とー」と名前を出すと、遅くなっても許されるのだとも言っていた。
私よりずっと人を魅了する才にたけている天宮先生は、赴任して間もない頃から校長や教頭に痛く気に入られていた。もちろん彼には、頭のよさや誠実さなど他にも評価される部分はあるのだが、生徒たちからの人気も高く瞬く間に出世した。
赴任して三年後には老体の教頭が退くことになり、その座が彼の元に転がり込んで来た。天宮先生は、迷う事無く教頭の職を引き受けた。その理由に家庭を持っている事もあるだろうが、何よりこの私立高校を終の棲家に決めていたのかもしれない。私立高校は公立と違い移動もない。居心地さえよければ安住できる。
そして更に三年後、当時の校長が学校を去ることになった時には、後任に天宮先生を指名した。それも快く受け入れた彼は、あっという間に校長になった。今、彼が校長になり二度目の桜が咲いている。
入学式を終えた日、私は天宮校長に呼ばれ久しぶりに飲みに行った。これまで二人で行っていた店とは違う高そうな店に案内され、私は一瞬、店の入り口でためらってしまった。今や校長となった天宮先生とは、懐具合も随分と差がついてしまったという訳か。
「いいから入って。今日は私が御馳走するから、安心して。さぁ。」
私の心を知ってか、天宮校長にそう促されて店に入る。仲居さんに案内されるまま座敷へ進む。
「たまにはこういう店もいいだろう? 前に理事長と来たんだ。締めの麺が美味くてね。」
「そうですか。校長ともなると違うんですね。入るだけでも戸惑ってしまいましたよ。」
私の目の前で、天宮校長が首と手を横に振る。
「いやいや、私だって自分からは入れないよ。こういう店は度々来れるような処じゃないさ。家庭もあるしね。」
「なんだ。そうでしたか。そう聞いてホッとしましたよ。天宮先生はぐんと出世されて、すっかり遠い人になってしまったかと思いましたよ。」
私は本当にホッとして、思わず膝を崩してしまった。
「ははっ。何も変わらないさ。昔、君と二人で飲んでいた頃と同じだよ。」
天宮校長も笑顔を見せた。
そして、よく冷えた麦酒をコップに注ぐと一方を私に寄こした。
「さぁ、乾杯。」
「では、乾杯。」
私は天宮校長に合わせてコップを鳴らした。カチンと小気味好い音の後で、グッと麦酒を喉に流し顔を見合わすと笑みがこぼれた。天宮校長はコップを置き、もう一度私の顔を見ると真顔で話し始めた。
「昔よく話していた事なんだけど。いつかもう一度、本場へ行って英語に耳を慣らし感覚を研ぎ澄ませたいってこと。まだ、その気持ちはあるかい?」
「あぁ・・・ よく覚えておいでですね。えぇ、出来る事ならって思いは今でもありますが・・・ でも・・・」
私は言葉の続きを探してしまった。
突然、思ってもみなかった事を問われ、今の自分がどう思っているのか自信がなく、適切な言葉が浮かばなかったからだ。天宮校長は、微笑みながらしばらくの間、私の言葉を待っている。だが、その先を見つけられずにいる私には風を送るように話し始めた。
「いやぁ、実はね。今年の秋から半年間、イギリスから教師を一人受け入れることになってね。その分こちらからも、教師を一人留学させてもらえないかと申し入れたんだよ。交換留学の形でね。」
「はぁ・・・」
「そうしたら先方から承諾が得られたんだ。むしろ歓迎しますって。だからぜひ、君に。橋本先生に行ってもらえないかと思ってさ。先ず内々に君に話して、もし万が一断られたら他の先生に話そうと決めていたんだ。」
「天宮校長、本当に交換留学が決まっているんですか?」
「あぁ、本当だ。イギリスからは、若い美術の教師が来ることになっている。彼には私の家の離れに住んでもらう予定だよ。向こうが夏休みに入ったら、こちらへ来るそうだ。」
「もうそこまで具体的に話が進んでいるんですか? 全く知りませんでしたよ。」
「はははっ。まだ内密だからね。去年の暮れに、理事長が向こうの理事長から頼まれたそうだ。なんでも古くからの知り合いらしくてね。すぐに快諾し、お互いの学校の為になるからと教師の交換留学を提案したらしい。」
「えっ。そんなにすぐに決まったんですか? それはすごい。それで私に・・・ 天宮校長が私の夢を覚えていてくれて嬉しいです。留学が現実になるなんて有り難い話です。」
「よかった。じゃぁ、少々急ではあるけれど、夏には発ってくれるね。」
「はい。もちろんです。ぜひ、私に行かせてください。」
こうして話は決まり、私たちはその日大いに飲んだ。昔話にも花が咲き、久しぶりにただの同期に戻ったようで楽しかった。お陰で高級な料理の味もあまり覚えていない。
ただ、締めの温かい麺だけはこの上なく美味しかったのを覚えている。お出汁が効いた辛味のある麵で、酔った体に程よい刺激がこれから帰らねばならないのだと頭をスッキリさせてくれたのである。
店を出て大通りまでを二人で歩き、そこから私は一人で歩いて帰った。まだ冷たさの残る夜風が、酔い覚ましにちょうどよかった。
夜風には時々散り桜が交じって、外灯に照らされると美しく光る。春の雪。そんな事をふっと思うほど美しい夜風だ。
道の端には、桜色の吹き溜まりが出来ている。時々冷たく通り過ぎる春の夜風は、人の意識を涼やかな物思いに誘う。私はそんな夜風に吹かれながら、自分の中に変わらずあった夢に気付いた。やがて芽吹くこの桜の葉が緑から紅に染まる頃には、私はイギリスに居る。そう思うと胸は高鳴り心は踊った。もう一度と焦がれていた本場へ行ける。
だが、明日からの新年度の授業もおろそかには出来ない。日常の英語教師を全うしよう。そう夜風に誓った。
家までの帰り道、ふと立ち止まり今は明かりの点かない家を眺める。以前ここに住んでいた青年とは顔見知りで、時々立ち話をしたものである。
夏になると垣根越しに花開いた朝顔が見えた。青く美しい朝顔が夕方まで咲いていた。
ある日、青年に声を掛けられ、その朝顔を見ながら縁側に腰かけて一杯やった事もあった。お互いに男一人のやもめ暮らしで買って来た肴で飲み、朝顔だけが風流な肴だった。なんてことを思い出していた。
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