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聖セーリングシップ高校
朝、私はデッキに出て大海原を眺めていた。すっかり秋の陽光に変わった太陽が、穏やかに青を浮かび上がらせている。ふと、あの朝顔を思い出した。そろそろ花の頃は終わりを迎えているのだろうか? などと。
すると、
「えぇ、そろそろ。」
と耳元で声が聞こえた気がした。高く柔らかい美しい声で、確かに今“えぇ、そろそろ”と。驚いて振り返ったが誰もいなかった。私は頭の中を整理しようと、また海に視線を移す。
「おはようございます。橋本先生。」
成園くんに声をかけられた。私はとっさに
「今、声がしたんです。私が海の青さに朝顔の事を思い出していたら、“えぇ、そろそろ”と。」
そう成園くんに話していた。朝の挨拶も返さずに。
「はははっ。橋本先生。あなたの秘密の美人が、ひどく困った顔をしておいでです。驚かせて申し訳ないと。あなたが朝顔の事を思い出してくれたのが、嬉しかったようです。あなたが聞いたのは、その朝顔の貴婦人の声ですよ。」
成園くんは、日常の事を話すように平然と言った。
「そうでしたか・・・」
私は、そう返すのがやっとだった。
そうか・・・ そうだ。彼にとっては、これが日常なのか。なるほど、こうした声を今まで聞いて来たのだな。何とも疲れる事だろう。
「えぇ、そうです。私にとってはこれが日常ですから。そのお陰で、こうして豪華な船旅が出来たわけです。さぁ、そろそろ下船の準備をした方がよさそうですよ。昼過ぎには港に入るようです。」
まただ。また私の心を見透かされた。何とも恐ろしく鋭いセンスだ。
「そうですね。いよいよ船旅も終わりですね。」
私も船室へ戻った。
港に着き船を下りると、成園くんは握手を求めてきた。
「では、橋本先生。クリスマス休暇まで、しばらくのお別れです。Good Luck!」
「えぇ。その頃までには学校へ遊びに来てください。では、成園くん。Good Luck!」
私たちは固い握手をして別れた。
成園くんは、友人が迎えに来ていた。私の方も日本語で“橋本”と書かれた紙を持った学校関係者が迎えに来てくれていた。有り難い。私は彼らと一緒に自動車に乗り学校へ向かった。
学校は、美しい銀杏並木を抜けた先にあった。正門まで車が入って行く。正門上の三角屋根の一番目立つところには、校章が掲げられていた。美しい帆船を模ったものだった。なるほど、学校の名前そのものだ。
校内に入ると静かだった。今は授業中なのだろう。私はまず校長室に案内され、そこで荷物を置き校内を案内された。私の世話係となる英語科のアルバート先生が、一緒に回ってくれた。
二つの校舎の間に中庭があり、小さな噴水の周りには芝生が植えられ木のベンチが幾つかあった。休み時間には、ここで寛いだりするのだろうか?
それから音楽や美術の専門教室と体育館や図書館なども見て回った。図書館はとても充実しているように見えた。蔵書の数もかなり多いのではないだろうか。
それから校長室に戻り、学校の時間割や規則について説明を受けると、リチャード先生のアパートまで送ってくれる事になった。学校を出る時、アルバート先生から渡された地図には、学校からアパートまでのルートが赤く塗られていた。
そうだ。明日からは、私は毎日この道を一人で通わなければならないのだ。
アパートに着くと、私はお礼を言ってアルバート先生を見送った。
リチャード先生のアパートは、大通りから一本奥へ入った路地の二階だった。窓からの景色は目の前の建物の壁。決して良いとは言えない。
だが、家の中はすっきりと整頓されていて、美術系の道具は壁際にまとめられて白い布が掛けてある。きっと下手に触られたくないのだろう。白い布が結界を張って守っているように感じた。
テーブルと椅子が二脚、それにベッドがある。台所や手洗いも付いている。これだけあれば十分だと思った。私の住んでいた平屋よりは狭いが、使い勝手はよさそうだしリチャード先生の家なので安心だ。私はまだ気力のある内に荷物を解き、明日の準備をした。
一段落ついた所で、テーブルの上に置いた地図と一緒に受け取ったアルバート先生からの紙袋を開けてみると、中にはサンドイッチとビールが入っていた。これは有り難い。今日はもう、これを頂いて眠るとしよう。私はサンドイッチとビールで腹を満たし、そのまま眠ってしまった。
翌朝、私は少し早めにアパートを出た。アルバート先生から頂いた地図を片手に赤いルートをたどって行く。意外にも順調に歩けている。結局一度も迷うことなく学校に着けた。だが、時間にはそれほど余裕はなかった。どうやら予想より時間がかかったらしい。
学校では、一日中アルバート先生の授業を見学する。教室の一番後ろに立ち黒板を見つめる。生徒たちと一緒に授業を受けている気分が新鮮であり嬉しくも感じる。
そして時々、生徒たちの間を回りノートにどんな事を書いているのか見て回る。その頃には、授業の最初に自己紹介を兼ねた挨拶をした緊張は、完全にほぐれていた。私は四十を超えた自分の順応性の高さに少々驚いた。
ランチは生徒たちに交じって食堂へ行く。食堂では大きなサンドイッチとスープが配られる。教師には、それに珈琲か紅茶が付いた。そのトレーを受け取り席に着く。
教師は、ランチの後から夕方までは食堂に来れば珈琲や紅茶が飲めると、アルバート先生が教えてくれた。彼は食堂の一角にある小さなスペースを指差して、“あの場所でね”とウインクした。そこには、ソファーがあり小さなテーブルが置かれている。小さな応接室のような空間だった。これは有り難い。よい避難場所になりそうだ。
こうして毎日は繰り返され次第に生徒たちも私に慣れ、なかには日本について質問してきたり日本語を教えてくれという子もいた。そんな時は、喜んで話してやる。でないと私がここに来た意味がない。たくさん話してたくさん聞いて、耳を少しでも鍛えて帰りたい。
時には、そんな生徒たちとランチを共にする事もあった。そうしてあっという間に一カ月が過ぎてしまった。その頃になって、私は少し不思議な現象に悩まされていた。
毎晩ベッドに入りもう眠ろうかという頃になると、人の話し声が聞こえるのだ。最初は、外を行く人の声が聞こえているのかと思っていた。
だが、それにしては近くに聞こえるし、話し声は内緒話をしているかのようなヒソヒソ声で時々女性の笑い声がするのだ。話し声は三十分ぐらい続くとすぅーと止んで、また静まり返る。そこで私もほっとして、いつの間にか眠っている。毎晩この繰り返しだった。
だから特にひどい寝不足という訳でもないが、何だか気味が悪い。その内だんだんと怖さも募ってきて悩み事になっていた。正体の分からない物というのが、こんなに不気味で恐ろしいと初めて知った。
私は思い切ってアルバート先生に相談してみる事にした。ランチの後に相談したいことがあると、あらかじめ前置きして。アルバート先生は、サンドイッチとスープを食べ終えコーヒーだけを手に取ると、トレーを返却し食堂の隅の応接コーナーへ移動した。私も珈琲を手に付いて行く。
「一体何が起きたんだい?」
ソファーに座ると、アルバート先生は少し身をかがめて優しく聞いてくれた。まるでこれから秘密の話をするように。
「実は・・・ リチャード先生のアパートの事なんですが・・・ リチャード先生から何か聞いた事はありませんか?」
私は探るように慎重に話し始めた。
「リチャード先生のアパートの事? 何かトラブルが起きたのかい? 引っ越した日、私も一緒に大家さんにしっかり挨拶したはずだが・・・ とても感じの好い人そうだったじゃないか。」
「えぇ、大家さんはとても好い人です。行き帰りで会った時などは、〈大丈夫かい?〉と気遣って声をかけてくれます。もっと別の事で・・・ 実は、夜中に人の話し声が聞こえるんです。話し声はいつも三十分ぐらい続くんです。」
私は思い切って話した。するとアルバート先生は目を輝かせて
「それれは本当かい? リチャード先生からは何も聞いた事は無かったけれど、それは幽霊なんじゃないか? いやぁ、君はLuckyだ。ロンドンではね、幽霊の棲む家は縁起がいいんだよ。」
そう言って彼は笑った。
また幽霊か。私はそう思った。そういえば聞いた事がある。ロンドンでは幽霊が棲む家は高値が付くと。日本では考えられない話である。私は言葉を見つけられず、黙ったまま珈琲に口を付けた。その様子を心配してか、アルバート先生は、
「僕の友人にミディアムがいるんだ。もし心配なら一度、部屋を見てもらうといい。幽霊の中にも悪戯する奴とか色々いるらしいからね。一度しっかり確かめてもらえば安心だろう?」
と提案してくれた。
出た! 今度はミディアムか! 船の中で成園くんに聞いた話だ。やはりこちらでは、そのミディアムという人が活躍しているようだ。
いくらリチャード先生の部屋とはいえ、まだ半年は住むのだからここは一度、そのミディアムの友人とやらに確かめてもらおう。そう私は心に決めた。
「アルバート先生。そのご友人の方にお願いしてもよろしいでしょうか? リチャード先生の部屋ではありますが、まだこの先半年は、私が住むことになります。少しでも安心して住みたいので。」
私は丁寧に伝えた。アルバート先生は、笑顔で私の肩に力強く手を置き
「もちろんだ。任せてくれ。すぐに友人に連絡して、近いうちに確かめてもらえるよう話をしてみるよ。」
と約束してくれた。
それから三日後、アルバート先生のご友人が部屋を見てくれると朗報が入った。私の都合がよければ、週末の土曜日にアパートに来てくれる事になった。
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