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話し声の正体
土曜日の朝、私は一応の掃除を始めた。と言っても、テーブルを拭いたりその辺に出ている本をきれいに積み直したりするくらいだが、それでも人様が来ると思うと何かしておかなければ落ち着かなかった。
午後になって、アルバート先生はミディアムの友人を連れて約束の時間にやって来た。入口のドアでアルバート先生と挨拶すると、彼は部屋に入りかけながら友人を呼んだ。背の高い柔和そうな男性がにこやかに入口に立ち、握手を求めながら名乗る。
「カルムと申します。」
私もすかさず手を差し出し
「今日はよろしくお願いします。橋本と申します。」
と挨拶した。するとカルムの後ろからもう一人青年が現れ、日本語で
「やはりあなたでしたか。橋本先生。いやぁ、こんな形で早々に会うことになるとは、成園です。お久しぶり。」
と元気よく嬉しそうに言った。私は日本語の懐かしさと知り合いに会えた喜びで、思わず大きな声を出した。
「やぁ、成園くん。あなたまで来てくれたのですか? これは嬉しい。いやぁー。世間は・・・ 世界は狭いですね。」
「えぇ。カルムが、船で話していた私の友人なんです。そしてカルムの友人がアルバート先生だった。カルムから話を聞いた時、もしかしてと思ったんですが、やはり日本から来た教師とはあなたの事だったのですね。」
私たちは戸口で再会を喜び抱きついた。先に部屋に入っていた二人は、偶然が引き寄せた再会に驚いていた。
部屋に四人が集まった。私は英国紳士二人に椅子を勧め、成園くんにはベッドに腰かけるよう勧めた。そして、買ってあったビールを勧めようとしたが、カルムがまずは話をと言ったので三人に状況を話して聞かせた。
カルムと成園くんは、部屋をぐるりと見渡し隅々まで観察している。そして目を閉じ、次は音や気配に注意を払っているようだ。その間、アルバート先生と私は、じっと黙って邪魔にならないように息をひそめて見守った。
しばらくしてカルムは立ち上がり成園くんの方へ寄り、何やら二人で話している。私は心配になった。話し込む二人の様子に、事態は私が思っているより深刻なのではないかと思い始めていた。
アルバート先生は、私を気遣い大丈夫と言っているかのように目配せしてくれている。カルムが再びテーブルに戻り椅子に座ると、ゆっくり話し始めた。
「橋本さん。この部屋に棲んでいる幽霊はいません。ですから元の借主のリチャード先生は、特に異変を感じた事も無かったはずです。
ですが・・・ あなたが毎晩耳にする話し声は、この部屋に現れる幽霊の声でしょう。ただし、その幽霊たちが会いたいのは橋本さん、あなた自身ではありません。
ですから今後も、その幽霊たちがあなたに悪戯をしたり危害を加える事は無いでしょう。その点は安心してください。」
「はい・・・ ですがそれは、どういう事なのでしょうか? その幽霊たちという事は、複数いるという事ですか? その幽霊たちがこの部屋に夜な夜な現れる目的は何ですか?」
私は訳が分からなかった。わたし自身に危害は及ばないと聞いてホッとしたものの、すっきりしない。疑問が増えてしまってさらにモヤモヤしてきた。その様子を察してか
「安心してください。橋本先生。これから詳しく説明します。」
成園くんが日本語で言ってくれた。そしてカルムが続ける。
「ここに現れる幽霊たちの目的は、橋本さんに寄り添っている美人の幽霊なんです。彼らは、彼女に会っておしゃべりしたくて来ているのですよ。どうやら彼女はとても人気があるらしい。急に日本から現れたヴィーナスのようですね。」
私は思わず成園くんを見た。女の幽霊。とても美しい幽霊の話は、船の上で成園くんから聞かされていた。その女性が、朝顔邸で会ったあの美人が、ロンドンの幽霊たちを惹きつけているというのか?
「橋本先生。あなたはどうやらセンスがあるようです。こちら側に近い方かもしれませんよ。」
成園くんは、穏やかに話してくれた。その話にカルムも頷いている。
「二人は既に船で知り合っていたのだね。三次。何という奇跡。しかも彼女の話をしていたのだね。」
私と成園三次は頷いた。
私は、この部屋を掃除した時に白い布の掛かっていない場所で見つけたスケッチブックを取り出すと、あの朝顔邸の美女の姿を描き皆に見せた。
「Wow!とても美しい女性じゃないか。それに橋本先生、君は絵も上手だったんだね。」
それまで、じっと黙って事態を見守っていたアルバート先生が言った。
「あぁ・・・ 子供の頃は絵を描くのが好きだったんです。でも、これでプロになろうとは思わなかったから英語教師の道へ。その美女の幽霊は、この人ではないですか?」
「橋本さん。あなたは知っていたのですね。そうです。この白いワンピースを着た美しい人ですよ。」
「カルム、これはワンピースじゃなくて日本の着物という伝統的な服だ。そう、この美女の幽霊が今も橋本先生の横で微笑んでいる。」
「Yes!三次。そう、彼の横で微笑んでいる。彼女はきっと彼に恋をしているね。」
カルムは成園くんに目配せをし、二人は笑いあっている。
何て事だ。ロンドンに来てまでミディアムだというカルムに出逢い、同じ美女の幽霊の事を言われるなんて思ってもみなかった。どうやらこれは、信じ難い事実のようだ。
「そうですか・・・ よく分かりました。カルムさん、成園くん。アルバート先生。今日は本当にありがとう。正体が分かって安心しました。」
私は三人にビールを出した。その後は四人でビール一本分のたわいもない話をし、成園くんとはクリスマス休暇にまた会う約束をして、彼らを送り出した。
そうだったのか・・・ あの朝顔邸の美女は、やはり幽霊だったのか。私は少し複雑な思いだった。
その夜、もう話し声は聞こえなかった。カルムと成園くんによって彼らの密会が暴かれ、決まりが悪くなったのだろうか?
不思議な事にその夜を境に、もう幽霊たちの話し声を聞く事は無かった。そうして平穏な夜が幾つも過ぎ、気付けばクリスマス休暇は目前で、学校内もどこか浮足立っていた。景色はすっかり冬になった。きっともう、あの朝顔邸の朝顔も枯れ雪化粧しただろう。
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