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幸運の船出
聖セーリングシップ高校は、まもなく卒業式を迎える。その前に私の留学期間は終了し帰国の船に乗る。
学校での最後の一週間に、アルバート先生は担当する全てのクラスで私に一限丸ごとの時間を用意し授業をさせてくれた。
とても緊張したが、これまでの十分間授業の積み重ねが意外にも私に英語力と度胸を付けてくれていた。
生徒たちは好奇に満ちた瞳を向け私の授業を聞き、終了のチャイムの時には温かい拍手をくれた。そうして私は、ロンドンの生徒たちとの別れの授業を無事に終えた。そんな生徒たちの卒業式を見る事が出来ないのが残念だ。
船で旅立つ日、港までは来た時と同じく学校の関係者が車で送ってくれた。そして今回は、アルバート先生も見送りに来てくれた。嬉しかった。私は彼らに感謝を伝え熱い握手をし乗船の橋を渡った。
この半年余りお世話になったリチャード先生のアパートには、置手紙を残してきた。考えてみれば、一度も会った事のない外国人の部屋を長々と借りて住んでいたなんて奇妙な話だ。リチャード先生もよく貸してくれたものだ。彼は日本の我が校でどんな体験をしたのだろうか?
船の入り口でチケットを見せると、奥から別の船員が駆け付け私を上へと案内した。
「あの・・・ これより上は一等船室になるのでは? 私のチケットは二等の物ですが・・・」
私は何か手違いが起きているのではと慌てて聞いた。
「えぇ。確かに。ですがご心配なく。橋本様のチケットは二等の物ですが、センチュリーカンパニーのギルネス様よりご連絡がありまして、橋本様がご乗船されたら一等のお部屋へご案内するようにと言付かっております。既に差額分の料金も頂いておりますので、ご安心を。ごゆるりとお過ごしくださいませ。」
「はぁ・・・ あの食器問屋のギルネスさんですか?」
「えぇ、そうです。」
私はそれ以上言葉がなく、ただ有り難く感謝するだけだった。私は偶然、公園で出逢い懐中時計を取り返しただけなのに。しかもそれは、成園くんが立てた筋書きで私は言われるままに芝居に付き合っただけなのだ。
「さぁ。こちらが橋本様のお部屋でございます。そしてこれは、ギルネス様よりお預かり致しました橋本様へのお品物でございます。お一つは、公園でご一緒だったご友人にお渡しくださいと仰っていました。では、ごゆっくりお過ごしください。失礼致します。」
「あぁ、ありがとうございます。」
私は、慌てて礼を言った。船室のテーブルの上には、両手に納まるぐらいの大きさの箱が二つ置かれている。
開けてみると中には、お洒落なカップソーサーのセットが一客入っていた。もう一つの箱も全く同じものが入っている。カップとソーサーの裏には、センチュリーカンパニーの文字と帆船のマークが入っていた。なるほど。私はにんまりとそのマークを見た。
ギルネス氏は、だからあの学校に寄付をしているのだな。同じ帆船を希望の象徴として掲げているからなのだと思った。
食器に記されたマークは、学校の物とはデザインは違うが確かに帆船だった。
こんなに私に心を向けてくれるほど、あの懐中時計はギルネス氏にとって大事な物だったのだと改めて思った。ただの懐中時計ではなく、本当に事業の成功を示す証、奥様と共に日々を生き社会に貢献してきた大事な証なのだとしみじみ感じた。私は、食器の箱を手にギルネス氏に心の中で深く礼を述べた。
こうして帰国の船旅は、幸運の幕開けとなった。
しかし、一人で過ごす船旅はとても長く感じる。先に帰国した成園くんは、どう過ごしたのだろうか? この船の中にも幽霊はいたりするのだろうか? もし居るとしたら、その幽霊たちを観察したり会話を聞いたりしていたのだろうか?
だが、私にはそんな能力は無い。デッキで海を眺めたり、本を読んだりするくらいしかやる事がない。この長い船旅をどう過ごせばよいのか・・・ そんな時ふと浮かんだ。
朝顔邸の朝顔は、今年も蔓を伸ばしているだろうか? もう新しい誰かが住んでいるのだろうか? 成園くんのいない船旅は、とても平穏で退屈だ。
そこで私は、持て余した時間に日本での授業に向け“構文で知るロンドン”と題した十分間の授業の台本を作ることにした。
今度は日本の生徒たちにイギリスを紹介するために。
すると自然とロンドンでの八カ月を思い出すことになり、意外に深い旅の振り返りになった。残りの時間には海を眺め美味しい物を食べ眠った。そうやって何とか一人の船旅を乗り切り、やっと日本に着いた時には、とても開放的な気分になった。
港に着くと意外なことに、天宮校長と成園くんが並んで出迎えてくれた。
「どうして二人が一緒に?」
私がきょとんとして尋ねると
「だって、橋本先生が私に手紙を託したのでしょう? 天宮校長に届けてほしいと。私の事務所からそう遠くはない場所だから、きっと分かるだろうって。」
成園くんは笑っている。その横で天宮校長も笑っている。
「そうだぞ。橋本先生。私は成園くんから君の手紙を受け取ったんだ。それから二度ほど、成園くんを飲みに誘ってね。色々とロンドンでの話を聞かせてもらったよ。」
「そうでしたか。私が成園くんにお願いしたのだから、二人が知り合いでもおかしくないですよね。それなのに並んでいる二人を見て、とても驚いてしまいましたよ。」
私たちは顔を見合わせて笑った。その日本語でのやり取りを少し離れてみている青年がいる。私と目が合った彼は、こちらへ進み出ると
「初めまして。リチャードです。あなたと入れ替わりに日本に来ました。僕はこの船で十日後にイギリスへ帰ります。」
と握手を求めてきた。
「そうでしたか。あなたがリチャード先生ですか。ロンドンでは、あなたのアパートをお借りしました。ありがとうございます。ここで会えるとは、思ってもみませんでした。お会いできて嬉しいです。」
私は、差し出されたリチャード先生の手を握り熱い握手を交わした。
それから私たちは、成園くんの事務所に向かった。どうやらそこは成園くんの住居でもあるようだった。
「ここが私の事務所であり住まいです。奥の二部屋が居住スペースになっています。あちらの部屋を片付けてありますので、橋本先生はそちらを使ってください。」
成園くんの言葉に私は少し驚いた。天宮校長への手紙にも書いたが、新しい家が決まるまでは天宮邸の離れを借りようと思っていたからだ。
「成園くんがね、ロンドンではアパートで一緒に過ごした事もあるからと仮住まいを申し出てくれたんだよ。」
なんとなく天宮校長が言葉を濁していると感じた私は、
「そうでしたか。えぇ、ロンドンではクリスマス休暇の時にチキンを食べきれなくて、成園くんと数日共に過ごしましたよ。はははっ。懐かしい。では成園くん、お言葉に甘えてしばらくお世話になります。」
と雰囲気を察して答え様子を伺った。
「えぇ、えぇ。どうぞどうぞ。また楽しく過ごしましょう。色々と思い出話をしながらね。」
成園くんはにこやかに笑っている。天宮校長もほっとしているように見える。リチャード先生も微笑んでいる。そうか。離れには、まだリチャード先生が居るのか。私は一人納得した。
そこへ寿司が届き宴会が始まった。久しぶりの寿司に日本酒である。私は土産に持ち帰ったウヰスキーを鞄から出した。これにはリチャード先生が喜んだ。その気持ちがよく分かる。郷里の味もさることながら“匂い”なのである。その物が放つ嗅ぐことの出来ない匂いなのである。
それからついでに、聖セーリングシップ高校の創立五十五周年記念で配られた革の栞を見せた。もちろん学校の校章と五十五周年の文字入りだ。リチャード先生は帰郷の想いが募ったのか、学校の事を色々と聞きたがった。
こうして私たちの英語と日本語が入り交じっての宴会は、夕方まで続いた。そして陽が西に傾いた頃、天宮校長とリチャード先生は上機嫌で帰って行った。
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