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一年ぶりの朝顔邸
二人が帰った後、成園くんはグラスを片付けながら
「橋本先生、私の住まいで申し訳ありませんが、しばらく自由に使ってください。天宮校長のとこの離れは、まだリチャード先生が借りているんですよ。こんなに長くリチャード先生が滞在するとは思っていなかったようで・・・」
と申し訳なさそうに言った。
「いえいえ。こちらこそ申し訳ない。ここに着いた時の様子から、天宮校長も何か事情があるのだろうと思っていました。成園くんにお世話をかける事になってしましましたね。すぐに新しい家を探すので、しばらくはよろしくお願いします。」
「あぁ、いや。私は橋本先生なら大歓迎です。ロンドンでは楽しかったし。その分、帰りの船旅はとても退屈で長く感じてしまいましたよ。」
「そう。そうなんだよ。成園くんもそうだったのか。私もだよ。だけどね、面白くLucky な事もあったんだよ。あぁ、そうだ。成園くんに渡して欲しいと預かって来た物があるんだった。」
私は鞄からあの箱を取り出し、まだ寿司桶の残るテーブルの上に置いた。
「なんですか? 預かり物って。誰からですか?」
「ふふっ。誰だと思う? あの公園で出逢った背の高い紳士からだよ。」
私は指にしている金の指輪を見せた。あの時、老紳士から頂いた黄色い石が光る指輪を。
「あぁ、あの懐中時計の! でも、どうして橋本先生に?」
「はははっ。どうだい? 夜はまだこれからだ。酒も寿司も残っている。二人で飲みながらゆっくりと話さないか? 実はナッツもあるんだ。」
「いいですね。そうしましょう。」
私は成園くんと再び椅子に座り、まだ残っているウヰスキーを洗ったばかりのグラスに注いだ。そして、乾杯するとギルネス氏の話を始めた。
聖セーリングシップ高校の五十五周年記念パーティーで再会したこと、彼は大きな食器問屋の社長だったという事、その食器は日本へ向かう船でも使われている事、私の船室が一等に替わった事など、次々と奇跡やLuckyが重なった話をした。
その間中ずっと成園くんは、わくわくした様子で楽しそうに話を聞いていた。その聞きっぷりに、私はますます楽しくなりロンドンでの話や船旅の話をし、成園くんも自分の船旅の事などを聞かせてくれた。そうして久しぶりに日本語で語らい上機嫌で日本酒もウヰスキーも寿司も楽しんだ私の心と体は、心地好く満たされ無条件の安心感に包まれていた。その夜私は、久しぶりに揺れないベッドで眠った。
翌日、私は成園くんを誘って朝顔邸へ行ってみた。格子の垣根に青く美しい朝顔が見事に咲いている。私はしばらく見とれた後で、思い出したように垣根越しに中をのぞいてみる。雨戸も開け放たれ、一人の青年が庭にいる。新しい住人だろうか? こちらの視線に気づいた青年が会釈をした。私たちも気まずく会釈をする。
「今年も美しく朝顔が咲いていたので・・・ こちらにお住いの方ですか?」
私は気まずさから声をかけた。
「いえいえ。私は掃除を頼まれている者です。こちらは若旦那様の管理物件でして。」
青年は答えながらこちらへ寄って来た。
「あぁ、そうでしたか。では、こちらにどなたかお住まいになられるのですか?」
「あぁ、いえ。まだ。まだ、誰も住んでいないんですよ。実は・・・ 元々ここは、若旦那様がお住まいだったんです。今の東堂の若旦那様が。
当時は普通の家具職人だったんですが、東堂のお嬢様の家具を作った事がご縁で婿に入ったんです。その噂が広まって、この家は縁起が良いと特別な価値が付いたんですよ。“独身の男がこの家に住むとお金持ちの令嬢と結婚できる”と。
それで独身の若い男が次々と借りたいとやって来たんですが、どうも噂目当ての軽薄そうな者が多くて・・・ 若旦那様がお許しにならないのです。あの家を好んで大事にしてくれる者でなければ貸さないと、厳しく見定めているんですよ。」
「なるほど。そうでしたか。お若いのになかなかしっかりしたお考えですね。そんな方が管理されているなら安心ですね。家は住む人によって随分と雰囲気が変わりますからね。」
成園くんは満足そうに言った。
「えぇ。そうかもしれませんが、もう一年半以上ですよ。こうも長いこと借り手が付かずにいると、今度は別の噂が立ちそうでびくびくしていますよ。」
「と言いますと?」
更に前のめりになって成園くんは聞く。
「だって、あまり長いこと人が住んでいないと、今度は幽霊屋敷とか言われそうで怖いんですよ。そうしたらせっかくの縁起の良い家も借り手が来なくなってしまいます。」
「確かに。それはありますね。空き家には別の者が棲み付くと言いますからね。」
「でしょう? そこらで言わないでくださいよ。私共はその噂が怖いんですから。」
掃除の者は困り顔で言った。
「あの・・・ この家を借りるには、どうしたらよいのでしょう?」
私は思わず口にしていた。そして、その言葉を自分で聞いて驚いた。
「えっー! 橋本先生、ここを借りるんですか?」
隣で成園くんも驚いている。
「あぁ、うん。そう思って。ここなら、君の事務所にも学校にも天宮校長の家にも近い。それに以前も住んでいた町内だからね。顔なじみも多い。この美しい朝顔の手入れが出来るという楽しみもある。悪い話ではないでしょう?」
「えぇ、確かに。ですが、橋本先生には事情が・・・ いいんですか? あの貴婦人は幽霊で、この家と朝顔と関係があるんですよ。また会うかもしれませんよ。」
成園くんは垣根に背を向け、私にだけ聞こえるように小声で言った。
「うん。分かってる。でも今は君がいるし、困ったことが起きたら相談するよ。それにあの貴婦人なら大丈夫な気がするんだ。」
私は言い終わって、再び垣根の向こうの青年を見た。青年は困った顔のまま聞いた。
「本当にお借りになりますか?」
「えぇ、お願いしたいのですが。」
私は笑顔ではっきりと言った。すると青年は、
「でしたら今日は、若旦那様がご自宅の工房にいらっしゃいます。よろしければこれから、ご案内いたしましょうか? すぐにお話が出来ると思いますが。」
と笑顔になった。私は成園くんに笑顔でウインクすると
「えぇ。ぜひ、お願いします。」
と青年に言った。
そうして私たちは、そのまま青年の案内で若旦那の自宅工房へ向かった。
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