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朝顔邸で暮らす
翌朝、私たちは成園くんの事務所にあった小さな荷車に荷物を載せ、朝顔邸への引っ越しを始めた。荷物が少ないので一回の運搬で終わる。この夏の暑い時に、一度で運び終わるのは助かる。
もうすぐ夏休みが終わり新学期が始まるとはいえ、まだ日中は暑い。私も成園くんも汗を拭いながら朝顔邸にたどり着いた。門は既に開いていて、縁側には家具を運び終えた東堂家の使いの者が腰かけていた。
「あぁ、お待ちしておりました。お疲れ様です。若旦那様から仰せつかったちゃぶ台やらは、もう中へ運んであります。それとは別に若旦那様からの引っ越し祝いの品もございます。どうぞ、お納めください。では、私はこれで。」
青年はそう言って私に鍵を渡すと、空の荷車を引いて帰って行った。私たちは縁側から荷物を入れた。居間に置かれたちゃぶ台の上には、麦茶と巻き寿司があった。それに日本酒と蕎麦も。
「これは有り難い。さぁ、まずは麦茶を頂こう。」
私は麦茶を二杯コップに注ぎ片方を成園くんに渡した。
「はぁー。生き返りますね。有り難い。若旦那様は気配りが上手いですね。」
「えぇ、本当に。家具を作る時も、使う人の気持ちを十分に聞いてから作る人ですからね。」
私たちは中に入ってしばらく涼んだ。縁側から、青く美しい朝顔がわずかな風に揺れるのを眺める。すると成園くんが突然、
「もういいんじゃないですか? ここはあなたの家でもある。今は、私と橋本先生しか居ない。全く姿を知らない訳じゃないんですから、姿を見せてくれた方が話が早い。」
と、私の背後の空に向かって言った。すると、かすかな笑い声と共にあの美人が縁側に現れた。
「それもそうね。あなたがここを借りてくださるなんて嬉しいわ。無事にロンドンから戻られてよかったわ。」
「はっ、あなたは・・・」
「そう。私たちがいつも話していたこの朝顔邸の美人の幽霊ですよ。」
「ふふふっ。あなた方が話しているのを聞いた事があるわ。あなたが探偵の成園さんね。最近は、幽霊の間でも噂の有名人よ。」
朝顔邸の美女幽霊は、穏やかに微笑んだ。
「それはそれは、光栄なことで。ところであなたを何とお呼びしたらよいのでしょう? 私も橋本先生も、あなたが橘家のご令嬢だった事までは知っていますが・・・」
私と成園くんは、顔を見合わせて頷いた。
「そうでしたか。ならば、あの婚約破棄の事ももうご存知ね。お恥ずかしいわ・・・ でももう昔の話ね。この世の時の話ですものね。いいわ。私の名前は、絹江・・・ 橘絹江です。」
「ほう。絹江さんですか。何とも雰囲気にぴったりだ。では、私と成園くんは“絹江さん”とお呼びしても?」
「そうね。いいわ。いつまでも朝顔邸の美人と呼ばれるのも恥ずかしいもの。絹江さんと呼んでください。」
私たちは、初めてこの朝顔邸の美人幽霊の名を知った。すると成園くんは、持ち前の好奇心を発揮して
「あの・・・ 絹江さん。少し伺ってもよろしいでしょうか?」
と丁寧に聞いた。
「えぇ、いいわ。きっと私が四十九日を過ぎてもこちら側に留まり居座って、あなた方の前にまで姿を現した理由を知りたいのでしょう?」
絹江さんは、少し笑いながら答えた。
「えぇ、そうなんです。少し前に橋本先生と話していたんですが、何か理由があるんじゃないかって。」
「そうなんです。成園くんと先日そんな話をしていました。しかも絹江さんは、あのロンドンのアパートの一件以来この家の契約の時まで、姿を現してくれませんでしたよね。それにも何か理由があるのですか?」
私たちはもう、彼女が幽霊である事を忘れて、身を乗り出して聞いた。
「まぁまぁ。もう少しお茶をいかがです? 実は・・・ 私からもお二人にお願いしたい事がありますので。先ずはお茶を。」
そう言って彼女は、私たちのコップに麦茶を注ぎ、持っていた上品な団扇で私たちを扇いでくれた。その心地好い風に、私は意識が遠くなりそうだった。これが異世界への入口なのではないかと思う程にぼんやりとしてしまった。
そして思った。落語や芝居の人物たちは、きっとこうして幽霊や妖怪に魅入られていったのだろうと。
「まずは、私がロンドンのアパートから先日まで橋本先生の傍に現れなかった理由ですが・・・」
絹江さんが語る声に、私は意識が現実に戻って来た。
「私たち幽霊は、想いのある場所や物にそれぞれ印をつけ、そこを頼りにこの世と繋がっています。ちょうど船が碇を下ろし手留まるように、美しいロープのようなものを伸ばすのよ。
私の場合は、あの美しい朝顔がそれなの。この世の最期にもう終わりだと息を引き取るその瞬間に脳裏に見たのが、あの朝顔だった。だから朝顔が存在している時にしか姿を現す事が出来ないの。笑っちゃうでしょ。もっと別の物だったらよかったのに。
だから冬になってすっかり枯れて形がなくなった時、思うようにこの世に出られなくなるのよ。そして初夏になって芽吹き生長したら、また姿を現せるようになるという訳なの。」
「ははっ。それはまたユニークですね。幽霊にもそれぞれ事情がおありなのですね。勉強になりました。」
「まぁ、嫌だわ。成園さんは、これまでにもたくさんの幽霊たちとお会いになっているでしょう。ふふっ。中には私のような事情の幽霊もいるのよ。」
「なるほど。それで橋本先生の傍からいなくなったように私たちは思った訳ですね。」
「えぇ、そう。橋本先生は、ずっとあの朝顔を気にかけてくださっていたので頼りやすかったのよ。それにね、橋本先生には別の幽霊に繋がる銀色のコードが見えたの。
それでね、私が四十九日を過ぎてもこちら側に居る理由なんだけど、私と十歳くらい離れていたけど仲良くしていた“白川のお姉様”を探しているのよ。彼女はもう、十五年ぐらいこちら側で彷徨っているはずなの。お姉様も幽霊なの。」
絹江さんの顔に少し憂いが見えた。
「橘家と親交のある白川家といったら、あの白川陶器の白川家ですか? うちの学校にも寄付をしてくださっている?」
「えぇ。その白川家です。その白川のご令嬢のあやめお姉様とは、姉妹のように仲が良かったの。
ですがお姉様は、私の婚約者だった青山さんと椿さんの婚約成立の号外を見て、私の婚約破談を知って路で倒れて・・・
馬車でお屋敷に戻る途中で意識が遠くなり、医者が付いた時にはもう昏睡状態で、そのまま意識が戻ることなくお姉様は数日後に亡くなってしまったの。もともと体が弱く、心臓もあまり強くなかった方だったから。」
絹江さんの話を聞いて私は、全身から血の気が引いて行くのを感じた。ある記億が甦ったのだ。時間が止まり、私の周囲から色も音も消えてしまったようだった。
「橋本先生、どうかされました? 随分と顔色が悪い。大丈夫ですか?」
私のただならぬ様子を成園くんが心配している。その声で、私は呼び戻された気がした。
「あぁ、失礼。ある事を思い出したのです。あの日、その青山石鹸の御曹司と椿紅のご令嬢の婚約成立の号外が街で配られた時、私は倒れこむご婦人を見たんです。それで駆け寄って声をかけた。
すると“もうすぐ迎えの馬車が来るから大丈夫”と云われたので、そのまま傍にいると迎えの馬車が来てお付きの方に手を貸しご婦人を乗せて見送ったんです。」
私は、遠く沈み込んでいた記憶が浮かび上がるままに話した。すると絹江さんは静かに話し始めた。
「えぇ。そのご婦人があやめお姉様なの。あやめお姉様が最後に言葉を交わしたのが橋本先生、あなたでしたのよ。だからお姉様は、あなたにコードを繋いだ。あの時お姉様は、ショックのあまり色々な感覚を失ってそのまま・・・」
私はまだ、体が強張っている。うまく言葉が出ないまま絹江さんと成園くんを見つめている。それを察したように成園くんは、
「絹江さん、それはどういう事です? あやめさんが橋本先生にコードを繋いだとは? よろしければ詳しく聞かせてください。」
絹江さんに聞いてくれた。
「えぇ、もちろん。そのつもりよ。ここからは私のお願いにもなるのだけど・・・ その前にお茶を・・・ 熱いお茶を淹れましょうか。」
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