朝顔の芽吹き

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朝顔の芽吹き

  イギリスへの旅支度をしながらの一学期が始まった。学校では相変わらずの繰り返しだが、一つ一つやり残しや漏れがないように一日の授業を終えていかなければならない。そんな思いが心のどこかにある。  中途半端な授業をしてイギリスへ行ったと、あとで生徒たちにも同僚の教師たちにも言われたくない。そんな好い人主義の自分が顔をのぞかせている。でも、それでいい。その方が自分もスッキリする。心置きなくイギリスへ旅立てる。だから課題ごとの完結を目指して例年より充実した日々を過ごしている。  授業を終えての帰り道、桜は随分と葉が茂り花の頃とは別の季へと様変わりを遂げている。それにいつの間にか、角口の薬局の前の紫陽花が蕾を付けている。考えてみれば当然だ。昨日すでに梅雨入りしたのだから。今年は少し遅かったようだ。 これからは傘を気にしなければならない季節が始まる。足下だって気になる。何かと面倒な季節だ。  だが、家の中に居る分には心地好い季節でもある。縁側に椅子を出し、背もたれに寄りかかりながら本を読む。雨音はちょうどよい音楽だ。珈琲なんか飲みながら静かな時間が過ごせる。雨粒が落ちる様をずっと眺めていてもいい。小さな庭の植木が潤っていく姿も美しい。  だが、歩くとなると実に不快だ。子供の頃のようにいっそ草履で出勤できたら楽だろうか?   そんな事を考えながら、ふと足下を見る。すると、格子状の垣根の下に小さなハート型の葉がある。その先には蔓が伸びている。ハッとして見上げると、あの朝顔邸だった。 昨年のこぼれ種から立派に芽を出したようだ。その小さな背丈の朝顔をとても愛しく感じた。今年もまた、青く美しい朝顔が見られるだろう。そう思うと嬉しくなった。  いや、待てよ。今年は夏休みの間に日本を発たなければならない。朝顔は間に合うだろうか? 遅い梅雨入りに不安がよぎる。たとえ一輪でも出発前に見たいものだ。そう思って、私はかがんで小さな朝顔に呟いた。 「ぐんぐん成長して、私の出発前に青く美しい花を見せておくれ。頼んだよ。」 もちろん心の中で。  四十を過ぎた男が道端にかがんでいるだけでも怪しいのに、小さな朝顔に話しかけていたら恐ろしく不審だからだ。そしてすっくと立ちあがると、何事もなかったように夕暮れの路を自宅へと歩く。梅雨の晴れ間の夕陽が美しい。    次の日から朝の出勤の時も気になって、朝顔邸の小さな蔓に目を向ける事が多くなった。と言っても、傘を差し足下の水溜まりを避けながら歩くので自然と下を向いてしまうのだ。するとどうしたって、垣根の下の朝顔の葉や蔓と目が合ってしまう。 〈よし。今日も元気そうだ。〉とか、〈おぉ、今日は一気に伸びたようだぞ。〉とか色々に思う。次第に生長著しくなり、ぐるぐると格子に巻き付く様は幾らかおぞましくも感じる。ものすごい生命力を秘めた植物以外の生き物のように感じる事もある。  艶やかで柔和な蔓に、驚くほどの力強さが宿っているように。あの蔓で絡め捕られたら、きっと私は逃げ出すことが出来ないだろう。そんな恐怖を感じて鳥肌が立った。  場所によっては蔓が二本三本と集まって同じ格子に絡まり、また互いの蔓にも絡み合っている所もある。そうなってはもう、救出不可能だ。恐ろしい。朝顔という植物の生命力のすごさを感じる。あの薄い花弁の儚げな花からは想像も出来ない。おぞましい蔓。  こんな事を感じるのは私だけなのだろうか? 子供の頃に朝顔を見ていた時にも、こんなふうに感じた事があったのだろうか? だが、何も思い出せない。大人になった今、私も様々な物の怖さを知ったからだろうか・・・ 「おはようございます。橋本先生。」 「Good morning. Mr. HASHIMOTO.」 「きゃはははぁー。」 ふいに後ろから声を掛けられ驚いた。  担当するクラスの女生徒たちが、からかい紛れに朝の挨拶をして笑いながら緩やかな坂道を駆け込んで行く。いつの間にかもう、私は正門の前まで来ていた。いつもの路、いつもの時間。そんなオートマチックもまた、恐ろしく有り難い。 「Good morning!」 女生徒たちの後ろ姿に一応声をかけ応えておく。感じの好い先生であることは大事だ。      そうして梅雨が明けた頃、無事に一学期も終了した。やはり梅雨明けも少し遅かったのだろうか? 何はともあれ滞りなく予定の課まで授業を終えた。心置きなくイギリスへ旅立てそうだ。    終業式の後、全教員が集まっての簡単な会議と慰労会があり、その後で天宮校長に誘われた。これから一年は共に飲む機会もないのかと思うと、私はすんなり誘いを受け入れ彼に付いて行った。  今日はいつもの場所。食堂のような小さな酒処だった。やはりここが落ち着く。  それに、まだ二人とも平教員だった頃に戻って話が出来そうな雰囲気が漂っている。もちろんそれは、あくまでも私一人の“出来そうな”感じであって、実際に校長と平教員という隔たりはなくならない。いつの間にか、上司と部下になってしまったのだから。  それでも、昔から二人でよく来たこの酒処の雰囲気は、それが“出来そうな”気にさせてくれる。そういう変わらぬ雰囲気に包まれていると、心の隔たりはなくなっていくような気がするのだ。 「どうだい? イギリスへの出発準備は進んでいるのかい?」 「あぁ、えぇ。ぼちぼちと。」 「なんだい、何だか気のない返事だなぁ。何か困っている事があれば言ってくれよ。もう夏休みに入ったし、少しは手が空くぞ。手伝える事があれば何でも言ってくれよ。」 「えぇ、ありがとうございます。実は、一旦いまの家を解約しようと思っていましてね。誰も住まないのに家賃を払うのも勿体ないし、かと言ってそのまま誰かに貸すのも心配だし。  そうなると、少しばかりの家具が困りものでして。行き場がなくなるでしょう。帰ってきたらまた新しく揃えるのも大変だし、幾らかの愛着もある。どうしたものかと思いましてね。」 「そうか。家を手放すのか。家具ってどのくらいあるんだい? ちゃぶ台とか・・・ 少しぐらいの物であれば、うちの離れに入れて置くかい? と言ってもリチャード先生が来るから、少しは彼が使う事になってしまうかもしれないがね。君が帰ってくるまでうちで預かっておくことは出来るぞ。」 天宮校長の提案に私は目が開いた。 「それは有り難い。離れに入る分だけでも預かっていただけるなら、ぜひお願いしたい。リチャード先生が使ったとしても壊さなければ問題ないです。それなら近々、離れを見に伺っても?」 「あぁ、もちろん。何なら今日、帰りに寄って見ていくかい? それなら安心だろう? それにうちの奥様も安心するだろうしね。」 「はははっ。では、ぜひ帰りに。」 「よし。これで心配事も解決だ。楽しく飲もうじゃないか。家を引き払った後は、出発までうちの離れに居たらいいさ。」 私は天宮校長の好意に甘え、ほっとした。  それから二人で楽しく飲み、いつもより早く切り上げて離れを見に天宮邸に寄り、一人自宅へと帰った。  私は翌日から掃除を開始し、家具の埃を払い家を明け渡す準備に入った。書棚を整理し手放す本を選別した。それから辞書やら向こうでも読みたい本を鞄に詰め、厚手の服を引っ張り出してはどんどん鞄に詰めた。  男一人の旅支度など大雑把なものだと、我ながら呆れる。そして、わずかな夏物を残し棚の本と中途半端な服は行李に入れ、家具と一緒に天宮邸に預けることにした。    いざ引っ越しとなれば普段は見過ごしている物にも目が届き、不要な物も随分とあった事に気づかされる。お陰で部屋がすっきりし、我が身までもが軽くなった気になる。何とも不思議である。
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