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朝顔詣で
数日かけて何とか掃除と荷物の整理が終わり引っ越しの当日、午前の早い時間に予定通り天宮校長が荷車を引いて来てくれた。
「どうだい? 男一人でも意外と荷物はあるものだろう?」
「えぇ、そう思いました。考えてみればちゃぶ台など、一人で使っても二人で囲んでも一つですもんね。」
「あぁ、そういうことだ。さぁ、これに積んで行こう。この量なら一度で行けるかもしれないな。」
「はい。助かります。天宮校長のお休みを使わせてしまって申し訳ありません。」
「何言ってんだ。うちの学校では同期じゃないか。それに帰ってくれば、本場で鍛えた英語を生徒たちに伝えてくれる。その為の仕事だ。割は悪くないさ。」
天宮校長は、少しおどけて笑った。
二人で荷物を積み込むと、どうにか全ての荷物が荷車に納まり一度で運べそうだった。真夏の太陽が、すでにギラギラし始めている。荷物でぎっしりの荷車を二人で交代しながら引き、昼を過ぎた頃に天宮邸に着いた。
「まぁ、まぁ。お疲れさまでした。先ずは冷えた麦茶をどうぞ。離れの方は、いつでも使えるように昨日、きれいに掃除しておきましたから今日からでも使って頂けますよ。」
奥様の高く澄んだ声が、いつもより優しく聞こえた。
「ありがとうございます。助かります。今回は随分とお世話をかけてしまって・・・ 本当にありがとうございます。」
私は恐縮しながら礼をのべ、天宮校長に促されるままに冷たい麦茶を頂いた。冷たさが喉から腹へ下りてゆく。生き返ったようにスッキリする。
「さぁ、先に荷物を離れに入れてしまおう。片づけたいものがあれば、後でゆっくりやればいいさ。」
「はい。そうします。」
それから二人で離れに荷物を運び入れた。
この離れは、小さな家が一軒分と言えるほど整っていた。部屋だけでなく手洗いなども付いていた。
以前は母屋の方に偉い学者先生が住んでいたらしく、この離れに書生さんが住み先生の手伝いをしていたらしい。と天宮校長は言っていた。
だから、母屋の方は気にせずに自由に出入りできるし、一通りのことは離れで済むから声を掛け合う必要もない。気兼ねなく過ごせると思うと天宮校長が誘ってくれたのだ。
そんな離れだから、文化も習慣も違う異国のリチャード先生を受け入れる事にしたのだろう。
すべての荷物を離れに入れ終わると、奥様がお昼に呼んでくれた。縁側に据えられたちゃぶ台に、涼しげな素麵と握り飯、漬物が用意されていた。素朴な昼飯だが妙に美味かった。
食べ終わった私は、二人に礼をし片付けの為に離れへ戻った。窓を開けると気持ちの良い風が入る。持って来たお気に入りの椅子に座り風に当たっていると、いつの間にか眠ってしまった。
淡い意識の中で声がする。
「橋本君。橋本君。ちょっといいかな?」
戸口で私を呼ぶ声に目が覚めた。慌てて起き上がり出てみると、天宮校長が立っていた。
「疲れている所すまないね。今日ばかりは夕飯を一緒にって、奥様が言うものだからね。どうかと思って。まぁ、引っ越し祝いだと思って頼むよ。」
「あぁ、いえ。助かります。ありがとうございます。では、お言葉に甘えて。」
「そうか。よかった。じゃぁ、もう一時間ぐらいしたら母屋へ来てくれよ。」
「はい。伺います。ありがとうございます。」
夕飯の誘いだった。
正直、有り難かった。無事に家を空け荷物を天宮邸に運び込んだ事に安心して、今日の夕飯の事など考えてもいなかった。そうホッとした所で、ふと思い出した。私はさっきの昼寝の間に、夢を見ていたと。
白い着物を着た美人と一緒に、青く美しい朝顔を縁側で眺めている夢。あの朝顔邸の朝顔だろうか? あの美人は誰なのだろうか? ひょっとして朝顔邸に新しい人が越して来たのだろうか? そんな事を思いながら井戸へ向かい桶に水を汲むと、顔を洗った。
一時間ほどして母屋へ行くと、見事な牛肉が用意されていた。牛鍋だ。
「ごめんなさいね。この暑い時にどうなの?って言ったんだけど、引っ越し祝いだからいいんだって。暑い時だからこそ精を付けるんですって。」
奥様が苦笑いしながら居間に迎えてくれた。
「今日は肉体労働で坂道を上り下りしたんだ。このくらい精を付けないとな。それに橋本君は、これから長い旅に出るんだ。しっかり日本の味を食べておかないとな。」
「はぁ、ありがとうござます。」
「あら、だったらもっと日本食っぽいものが善かったんじゃないの?」
「うーん。それもあったな。じゃぁ、出発の前の晩は、寿司にでもするか。橋本君、夜は空けておいてくれよ。君の壮行会だ。」
そう言って、天宮校長は私の肩を掴んだ。
私は申し訳ないのと有り難いのが入り混じって曖昧な表情を向けてしまった。
それから卓につくと、牛肉はジューというよい音を立てて甘辛い醤油の香りを広げながら焼けていった。たまらなく腹の空くよい匂いがする。最初の一枚は、奥様が取り分けてくれた。香ばしく甘い匂いと共にふぅーふぅーしながら頬張る。たまらなく美味い。その晩、私は大いに御馳走になりよい気分で庭を歩き離れへ戻った。そしてそのまま眠ってしまった。
翌朝、目が覚めて身支度を整えながら、借りていた家の大家さんに挨拶に行っておかなければと思った。そこで、昼飯を食べに食堂へ行き、そのまま大通りの藤屋へ行って水羊羹を買った。私にはこの時季の手土産として、水羊羹しか選択肢がなかった。
大家さんはとても優しく、そういう事なら帰国後もよかったらまた住んでくれと言ってくれた。なんなら、それまで空けておくよとも。だが、それもまた心苦しく、そろそろ新しい所へ住むのも悪くないと思っていたから遠慮するようにやんわりと断った。
無事に挨拶を終えほっとして歩き出すと、昨日の昼寝の夢の事を思い出した。私は、朝顔邸の前を通ってみることにした。
いつもの垣根には、緑の蔓が巻き付き格子を隠すように葉が茂っている。その緑の中に一輪、青く美しい花が咲いている。胸が躍った。今年もこの美しい青の朝顔に会えた。まだ田舎盆の前だから、今年は早く咲いたのだろうか? だとしても出発前に見られてよかった。
そうだ。出発までにはまだ七日ある。この夏休みは学校へ行かなくてもよいのだし、もう出発準備も整っている。毎日散歩がてら朝顔を見に来るのも悪くない。よし、そうしよう。一輪の朝顔に見入りながらそう思っていると、垣根の向こうから声をかけられた。
「朝顔がお好きですか?」
ハッとして視線を移すと、白地に青藍の朝顔柄の着物を着た美人が立っていた。夢で見た美人に似ている。
「あぁ、失礼。毎年美しく咲いているものですからつい・・・ ちょうど通り道だったんですよ。すみません。」
「あら、いいんですのよ。通りからも見えますものね。あまり世話しなくても、毎年こぼれ種から芽を出してくれますのよ。強いのでしょうね。生きる力が。」
「あぁ、そうでしたか。とても美しい青ですね。惹きつけられます。」
「えぇ、本当に。いつでもご覧くださいね。」
私は軽く頭を下げ歩き出した。見たところ三十歳が目前といったところだろう。いや、実際はもっと上なのだろうか? 透き通るような美しさの美人だった。新しく越して来た人なのだろうか? いや、それならこの朝顔が毎年美しく咲くことなど知らないはず。大家さんだろうか? そう云えば、青年が言っていたっけ、大家さんはすごい美人だって。今の人の事だろうか? きっとどこかの令嬢か奥様なのだろうな。
しかし、こうして挨拶をして顔を知られてしまうと、朝顔を見に行きづらくなるな。せっかく出発まで毎日、見に行こうと思い立ったのに。
いや、待てよ。もし大家さんなら、そう毎日様子を見に来るわけでもあるまい。まぁ、また顔を合わせてしまったら、その時の成り行きに任せて話せばいい。どうせすぐイギリスへ出発してしまうのだから。
考えるのをやめた私は、太陽の日差しを受けながら少しだけ日が短くなったと感じた。そろそろ風も夕方の雰囲気を漂わせ始めている。今晩の飯を買って帰るとしよう。私はもう一度大通りへ戻り、酒とあさりの佃煮と出汁巻き、それに少しの鉄火巻きをぶら下げて帰った。
翌日もまた、夕飯の買い出しついでに散歩に出た。目的の一つは朝顔邸の朝顔。今日は三つ咲いている。やはり美しい。垣根越しにそっと庭をのぞいてみる。今日は静まり返っている。誰もいないようだ。
そう分かった途端、ホッとしたのも束の間しょんぼりした気分になった。私は、あの美人に会えることを楽しみにしていたのか? と慌てた。
心が慌てたせいなのか、朝顔邸から離れ早足になった。この辺りは坂が多い。小さな上り下りがたくさんある。
先日、天宮校長と荷車を引いた時には、息が上がり坂の多さを思い知った。ただ歩いていた時には、さほど苦にもならなかった事が荷車を引いた時には随分と堪えた。そして今も、早足で歩いた為に息が上がってきた。駄目だ苦しい。立ち止まって大きく息を吐く。
「はぁー。」
少し落ち着いた。
昨日の私は、あの美人とまた顔を合わせたら面倒だと言っておきながら、実は心密かに会うことを待っていたようだ。どうやら面倒なのは私の方らしい。
「ははっはっ。」
笑ってしまった。だが、自分の事が可笑しくて可愛らしくて堪らない。
別にいいじゃないか。イギリスへ発つ前の秘かな楽しみで。あの美人に会えたらいいじゃないか。今日の私は自分に寛大だ。なんだか嬉しくなり、鳥皮焼きと烏賊の姿焼きを手に麦酒も買って帰った。青く美しい朝顔は三つ咲いていた。
朝顔邸を巡る夕方の散歩は日課になった。三日目には朝顔が四つ咲いていた。少し雨模様で傘をさしての散歩になった。雨に濡れた朝顔もまた、しっとりと美しい。四日目は三つ咲いた。夕陽に照らされた様子が可愛らしく見えた。今日もあの美人の気配はない。
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