雨上がりの朝顔邸で

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雨上がりの朝顔邸で

   五日目は、午後遅くに雨が降り出した。  これはまずいぞ。夕立であって欲しい。この降りでは散歩どころではない。夕飯の買い出しにだって一苦労だ。いつもの時間までに止んでほしい。そうならいいのだが・・・   祈りながら窓の前に立ち外を眺める。眺めていれば雨が止むわけではないのだが、気になって幾度も立ち上がっては外を見てしまう。天宮家の奥様が朝に届けてくれた麦茶を座って飲んでみたりもするが少しも落ち着かない。すぐに立ち上がって雨の様子を見てしまう。  そのうち雨音が少し静かになったなと思って窓の外を見ていると、随分と小降りになっている。少し期待が膨らむ。気晴らしにと願いを込めて、今日の夕飯は何にしようかと考えてみる。朝顔邸を巡った後に大通りに出て、その先の商店街まで行けば何でもある。さぁ、何にしようか?     イギリスへ出発してしまえば、しばらくは食事も変わる。今のうちに日本食っぽい物を食べておこうか? きっと恋しくなるに違いない。いや、そうは言っても味の溜め置きなんてできやしない。どんなに今のうちに食べて置いたって、恋しくなるに決まっている。  それより、今食べたい物を食べておこう。それがいい。さて、何にしようか? 私は何を食べたいのだろう? 天ぷら? そば? 今晩は外で食べてしまおうか? そんな事をぐるぐると考えていたら、窓の外が明るくなった。  飛びつくように窓の外を見ると、雨が止んでいる。嬉しさのあまり外へ出てみる。体にまとわりつくような湿気が厚い層をなして私を圧迫してきた。暑い。蒸し暑い。昼間の暑さに夕立の時間が短すぎたのだろうか? ちっとも涼しくならなかった。  それでも雨が止み傘もなく散歩に行ける嬉しさに空を見上げた。半分の、いやクオーターの虹だ。胸が躍る。今日は善い事があるかもしれない。今日はあの美人に会えるかもしれない。結局、雨が上がるまでに夕飯は決まらなかった。だが、そのまま出かけることにした。    学校があった時は、この時間にこの道を反対方向へ歩いていた。今は逆流するように朝顔邸に向かっている。少し妙な感じがする。この角を曲がればもう、朝顔邸が見える。今日は幾つ咲いているだろうか? 一瞬だけ目をつぶる。そして角を曲がり切ったところで目を開ける。  今日は一つだ。  あの雨によく耐えたものだ。そう思ってたった一つ咲いている朝顔を見つめる。 「随分とひどい降りでしたね。大丈夫でした?」 不意に声がした。門の前にあの美人が立っている。こちらに向かいにこやかに微笑んでいる。 「えぇ、ひどい降りでした。その頃は外にいませんでしたので、雨には遭いませんでした。お陰様で。」 少し気取った声なのが、我ながら可笑しかった。 「まぁ、そうでしたか。それは善かったですね。降った割には涼しくなりませんでしたわ。ひどく蒸し暑くなって。よろしければ、麦茶でもいかがですか?」 あの美人から、まさかのお茶の誘いである。自分の驚いた顔が強張っているのが分かる。まずい。このままの顔では、嫌がっていると思われてしまう。 「あぁ・・・ でも・・・ よろしいのですか?」 「えぇ、ご近所さんですもの。あなた橋本さんではなくて? ほら、ここに住んでいた家具職人の青年に伺ったことがあるの。」 「はぁ、えぇ。そうです。橋本です。この近くの高校で教師をしております。あの青年とは時々、ここで立ち話をしたり縁側で一杯やったこともありました。彼は・・・ なんとも御目出度い引っ越しで去っていきましたね。」 「そうでしたわ。さぁ、どうぞ。よかったら縁側でお茶を。」 美人はまた微笑むと中に入ってしまった。  私は仕方なく・・・ いや、心の中では喜んで門の中へ入った。久しぶりの朝顔邸の縁側である。あの青年が引っ越す前だから、もう半年以上が経っている。 「さぁ、どうぞ。冷たいうちに。」 小さな盆の上に、半円形の上品なコップに入った麦茶が載せられている。透明なガラスの半分以上を茶色で満たしている。 「ありがとうございます。では遠慮なく。」 冷たさが生んだ水滴に手が滑りそうになる。慌ててもう一方の手を添えると 「まぁ、丁寧な方ですね。あまりかしこまらないで。縁側での気楽なおしゃべりですから。」 美人の言葉に少し気恥しくなって 「はぁ・・・」 とだけ返事をした。 「朝顔、今日は一つだけですけど、あの雨の中をよく耐えたわ。」 「えぇ、本当に。ついつい今日は幾つ咲いたかと数の多い事を期待してしまいますが、たった一つでもあの青さといい佇まいといい、なんて美しいのだろうと見入ってしまいます。」 私は思いの外、流暢に話している。 「まぁ、本当に朝顔がお好きなんですね。よかったら来年は、ご自身でも育ててみたらいいのに。」 「いやいや、男一人のやもめ暮らしですから。とても植物の世話など出来ませんよ。」 「あら、意外と朝顔って強いのよ。お日様にも雨にも強いわ。特にここの朝顔は、ほとんど何もお世話をしていないのだけど毎年立派に花を咲かせるわ。」 美人は初めて悪戯っぽく笑った。 「確かに・・・」 私は言葉の続きを飲み込んだ。  実は以前、帰宅途中に朝顔邸の前を通った時、青年からの聞きかじりで私が蔓先を摘んでいたのだ。そうしてやると脇芽が出て蔓が密集し葉も茂り、蕾もたくさん付いて花が多くなると聞いていたから。今年は主をなくして新しい主もまだ越して来ないままで、朝顔が気になっていた。だから私はつい・・・ 「秋になったら自由に種を採ってもらって構いませんので。格子の外にもお花が出ているから通りからでも採っていただけるでしょう。」 「えぇ、ありがとうございます。ですが、間もなく私は、イギリスへ行くんですよ。帰ってくるのは、ちょうど一年後ぐらいです。だから残念ですが、種を採ることは出来ないのですよ。」 ちょうどよい言い訳だと思った。嘘ではないし誰も傷つかない。どうにも条件が合わない理由を持っているのだから仕方がないのだ。 「あら、そうでしたの。まぁ、イギリスへ・・・ それは長旅ですわね。どうぞお気をつけて。」 「はい。ありがとうございます。」 「もし、帰国されてまたこの辺りにお住まいでしたら、朝顔を見にいらしてくださいね。一年後ならきっとまた、花の時季ですわ。」 「えぇ、そうですね。ぜひ、その頃また・・・ では、そろそろ私は・・・」 そう言って立ち上がると、美人はにっこりと微笑んで見送ってくれた。私は帰り際にもう一度、垣根の朝顔を見た。そして、蕎麦を食べに大通りへと歩いた。  今日で六日目だ。昨日は何とも幸運なことに雨が止み虹が出て、あの美人にまた会えた。今日は、夕焼けが始まりそうな美しい空の下を歩いている。朝顔は七つ。昨日の一つから大躍進だ。昨日麦茶を頂いた縁側は、雨戸が閉められひっそりとしている。今日は誰もいないのだろう。    昨日の蕎麦と天ぷらは美味かったが、やはり今日は出発前の一人飯の最後なので、家でのんびり食べる事にしよう。明日の晩は天宮邸での壮行会だから、きっと気を使って豪勢な食事なのだろう。だから今日は、これぞという食べたい物をたべよう。そう心に決め大通りへ向かう。  やっぱり醤油がいい。こってりと醤油の効いた物にしよう。  さて・・・ 鰯の甘露煮、牛のしぐれ煮・・・ 今朝、天宮邸の奥様に麦茶と一緒に頂いたきゅうりと味噌が、まだ離れにあるなぁ・・・   よし、両方買っていこう。魚と肉で醤油を食うぞ。それに塩むすびを買って帰えろう。  私は十分に自分に甘くして、生姜の効いた鰯の甘露煮も牛のしぐれにも両方を食べ、大いに日本の醬油を堪能した。海を越えてしまえば、しばらくは醤油も味わえなくなる。
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