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縁側デートの美人
七日目。いよいよ散歩も最終日だ。
今晩は天宮邸で壮行会があるので、いつもより少し早めに家を出る。まだ太陽が高い。空も蒼く夕方の雰囲気には少し早い気がする。
今日の朝顔邸は、九つの朝顔が見事に咲いている。さすがに九つともなると見応えがある。どれもこれもが、私に微笑んでいるかのように感じてしまう。通りの反対側まで行って離れた所から眺めると、全体が視界に納まった。青い波が立っているように美しい。そこだけ涼やかな風が流れているようだ。
今日でこの朝顔も見納め。この朝顔邸詣での散歩もおしまい。明日はもう、天宮邸の離れを発たなければならない。船に乗るために港のある町まで移動するのだ。
朝顔よ、美しい姿を見せてくれてありがとう。今年も大いに魅了されました。また来年に。そう心の中でさよならをして、私は天宮邸へ戻る。縁側の雨戸は、今日も閉められたままである。残念。
天宮邸に戻ると、校長が庭先で待っていた。
「やぁ、おかえり。待っていたよ。さぁ、君の壮行会を始めようじゃないか。」
「はい。ありがとうございます。」
私は明るく返事をし、校長について母屋の中へ入った。
すでにちゃぶ台の上には、予告通りの寿司が載っていた。そして、昨日食べたばかりの牛のしぐれ煮もあった。もちろん今日のは奥様のお手製だ。他に枝豆やとうもろこし、焼き胡桃や落花生があった。酒の用意もされ三人で乾杯を済ませると、奥様は台所の方へ下って行った。気を利かせてくれたのだろう。私は、御馳走の礼をひとまず簡単に奥様に伝えた。
「さぁ、さぁ。今日は日本の家庭の味を楽しんで。それに酒も。麦酒も日本酒も用意したぞ。向こうへ行けば洋酒ばかりだろうから、日本酒は存分に味わっていってくれ。」
「はい。ありがとうございます。いろいろとお気遣い頂き、お世話になりまして。感謝しています。こんなにたくさん御馳走まで。」
「ははっ。米はしばらくは食べられないだろう? きっと向こうではパンばかりだ。寿司が恋しくなるぞ。さぁ、食べて食べて。」
天宮校長は上機嫌だった。しきりに酒や料理を勧めてくる。私も腹は減っていたので、あれこれ手を伸ばし一通り味わった。
天宮校長は、とにかく体に気をつけろ。無事に元気で戻って来てくれ。帰って来たらまた、寿司を御馳走すると繰り返し話す。次第に酔いが回ってすぅーと沈黙が起きた時、私はふと、朝顔邸の美人を思い出した。
「あの・・・ 天宮校長。私の家の近くに朝顔が格子の垣根に咲く家があるのを御存じですか?」
と思い切って聞いてみた。
「あぁ、知っているよ。あの青い朝顔が咲く家だろう? 小さな急坂を上がった先の角を曲がった大通りへ向かう途中の・・・」
「えぇ、そうです。その家です。」
「そこに住んでいた家具職人の青年が、東堂のお嬢様に見初めらて婿に入るのだろう? 婚約して丘の上のお屋敷で一緒に暮らしているとか・・・」
「はい。よくご存じで。」
「ふふっ。お偉方というのは、案外噂好きでね。校長会なんかに行くと耳に入ってくるんだ。そういった富裕層のあれこれは私立の学校にとっちゃぁ大問題になりかねない。途端に寄付に影響が出るからね。それにそういった慶事や忌事は、学校としても一言申し上げねばならないからね。知らないわけにはいかんのだよ。」
「なるほど。それは確かに。校長や理事は大変ですね。学校の外の事にも気を配らなければならないなんて。」
「まぁ、まぁ。そういった事は、嫌でも耳に入って来るからね。その時その時、対応するまでだよ。だけど、あの朝顔邸がどうかしたのかい?」
天宮校長は、私の問いの核心がつかめぬ様子で聞き返した。
「えぇ、あの家の大家さんの事なんですが・・・ まだ借り手がつかないようで、先日手入れに来ていたんです。朝顔が咲きだしたので、夕方の散歩の楽しみに通りかかったらお茶に誘われて御馳走になったんですよ。とても美しい人で緊張しました。」
言い終わって、私はうつむいてしまった。きっと緩んだ顔をしていたに違いない。そう思って恥ずかしくて。
しかし、天宮校長は何も言わず空を見ている。さっきまでのほろ酔い加減が失われ、心持ち血の気が引いているようにも見える。
「まさか・・・ だってあの家の大家さんだったご婦人は、二年前に亡くなられたんだよ。確か夏だった。だからあの家の管理は今、橘家から東堂家が引き継いだはずだよ。」
「まさか。そんなはずは・・・ 私がお茶を頂いたのは、一昨日ですよ。縁側で一緒に朝顔を見たんですよ。そんなはずは・・・」
私も酔いが醒めた。続けざまに私は、
「白い着物の似合う、とても美しい優しそうな方でしたよ。微笑んだ顔がとてもチャーミングな。」
「なるほど。確かにご婦人は、白や青藍の着物が好きでよく着ていたそうだ。可哀想な方で、青山石鹸の若旦那との婚約が突然破談になってね。その後、青山石鹸と椿紅との合併が発表されたら、若旦那と椿紅の令嬢が婚約したんだよ。だけどその後も、橘の令嬢は誰とも結婚せず独身でいたそうだ。」
「えぇ、その話なら私も知っています。新聞に大きく出ましたから。」
「うん。あのご婦人は、丘の上の教会の隣に在るお屋敷に住んでいたはずだよ。橘家は、東堂家の親戚で、確か今はそこも東堂家が管理していると。そうそう、あの青年たち夫婦がそちらに住むという噂もある。」
「それは本当ですか? だとしたら私が会ったあの美人は・・・ 一体誰だったのでしょう?」
「うーん。東堂家の者かもしれないし、橘家の関係者かも。もしくは・・・ あのご婦人の幽霊かもな。はははっ。」
天宮校長は笑い飛ばした。きっと幽霊など信じてはいないのだろう。私が会ったあの美人は、東堂家の関係者だと決めてかかっているに違いない。
「それにしても、その美人によほど魅せられたようだな。本気で照れているように見えたが・・・ もし気になっているなら、東堂の関係者に聞いてみようか?」
私の気持ちを見抜いている。そして、少し面白がっている。
でもやはり、天宮校長は好い人だ。私の事を気にかけて、美人の事を聞いてくれようとしている。幽霊かもだなんて脅かしておきながら、あの美人が実在する婦人だと思っているのだ。
「あぁ、いや。そこまでは。ただ、あんなに美しい人は、そうそういないと思ったものですから。気になっただけで・・・ 特に名乗りもしなかったので誰だったのかと。」
「そうか、そうか。それならそっとしておこう。ところで橋本君は、結婚はしないのかい?」
「あぁ、そうですね。結婚はしないと決めている訳でもないですが、しないままこんな歳になってしまいました。もう男一人も楽になってきましたし、一人でもいいかなと思ってます。」
「そうか・・・ 結婚は、したらしたで好いものなんだがね。日々こうしてちゃぶ台を囲みながら、たわいもない話ができる。風邪を引いてしまった時などは、随分と心強いものだし・・・」
天宮校長は、少し私を心配している様子だった。いつもは言い出せずにいたのだろうが、こんな時だからこそ好い機会だと言ってくれたのかもしれない。
「えぇ、そう思います。私も善いご縁があれば、きっと結婚もすると思います。ご心配ありがとうございます。」
「そうだなぁ。さぁ、まだ時間も早い。さぁ、さぁ、飲んで。」
それから二人で、随分と遅くまで飲んでしまった。私は楽しくて話ばかりして日付が変わる間際に酔い酔いの好い気分で離れに戻ったように覚えている。
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