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船上での出逢い
とうとう私は船上の人となる。船が出る港までは、天宮校長も奥様と見送りに来てくれた。私の見送りにかこつけて、久しぶりに奥様を遠くへ連れ出し日頃の孝行をするのだと言っていた。それもまた善しだ。出汁にされたと分かっても、ちっとも悔しくない。奥様にはお世話になったのだし、むしろ善い事をした気分だ。
私は二人に礼を言って、わずかな荷物と共に船に乗り込んだ。港は、見送りの人で賑わっている。涙も笑顔も悲喜こもごもとは、こういった光景のことだろう。
船はゆっくりと港を離れてゆく。見送りの人影が次第に小さく遠くなる。ここぞとばかりに私も手など振ってみた。私はとうとう船上の人となった。
港を出た船は、大海原へと進んでゆく。どんどん港は遠くなり船は外海に出た。まだ日本の近くを進んでいる時は、不思議と安心感があった。時々見える島々も、日本の物だと思えば安心した。
ところが数日して見渡す限り大海原になると、急に心細さに占領された。私の視界一杯に広がる海。その真っ只中を一人進んでいく孤独感のようなものが心を覆い尽くす。
この時ふと、微細に色を変える海の青にあの朝顔を思いだした。太陽光の加減なのか? 深さや透明度の違いなのか? あの朝顔にそっくりな青を海が見せてくれる瞬間がある。それを見つけてからは、暇さえあれば海を眺めた。だだっ広い大海原にあの小さな朝顔の青を探していた。そして想った。今日は幾つ咲いたのだろうか? 真夏の太陽の日差しの下で咲いているのだろうか? 雨に濡れているのだろうか? 花弁は無事に開いているだろうか? そんな事を毎日想った。
「いつもそうやって、長らく海を眺めておいでですね。」
不意に声をかけられ振り返る。白いシャツに紺のベスト。幅広の濃い茶色のズボンに長羽織と、なかなかに独創的ないで立ちの青年が立っていた。今の時代の日本をそのまま衣服に取り込んだように、西洋と東洋が混在している。だが、それがとても好く似合っている。これで懐中時計でも持っていれば完璧だ。と私はその一瞬のうちに思った。
「あぁ、えぇ。海の青に魅せられてしまいましてね。つい一日に幾度も眺めに来てしまうんですよ。」
「そうでしたか。なるほど。確かに美しい青ですが、ご一緒のご婦人の着物の柄も海のような青をしている。あなたは秘密の二人旅のようですね。」
青年はにやりと笑った。私は呆気に取られてしまった。
「はっ? 何を仰っているんです? 私は一人旅ですよ。ほら、他に誰もいないでしょう。」
「はははっ。あなたはまだ、気づいておられないのですね。ならば、そのまま秘密にしておきましょう。ご挨拶代わりにこれを。では失礼。」
青年は一枚の名刺を手渡し、船の中へ入って行った。名刺には“幽霊探偵 成園三次”とあった。事務所の住所も書かれている。何とも怪しい青年に出くわしたものである。
それにしても、あの青年が言った“秘密の二人旅”とは、どういう事だろうか? 私はとても気になった。しかも、私自身がまだ気づいていないとはどういう意味なのだろうか・・・ そして、この名刺の肩書、幽霊探偵とはまた何とも怪しい。
彼の事務所は、私が住んでいた家の近くじゃないか。この住所の辺りなら、あの朝顔邸の事も知っているだろうか? 今度彼を見つけたら、思い切って聞いてみよう。ここは海の上、この船の中にいる限り必ず出くわすはずだ。
翌日の夕方近く、少し太陽が西に傾き始めた頃に私は、また海を眺めていた。すると、やはり後ろから声を掛けられ振り返ると、あの青年がいた。
「はははっ。これは成園さん。わざわざ私に会いに来られたのでは?」
「はははっ。ご名答。いささかあなたに興味がありましてね。それに一緒におられる美人にも。」
「ふふっ。昨日もあなたは、そんな事を仰った。ですが私は、一人で海を眺めています。これが二人に見えますか? あなたの仰る美人は何処にいるのです?」
「どうやら、本当にあなたは気づいていないようだ。今もあなたの右側に立って、海を眺めておいでですよ。美しい微笑みを携えて。」
「ほう、そうですか。では仮に、その美人が今ここに居るとして、その方は一体誰なのですか?」
成園さんは、少し首を傾げながらにっこりと笑った。
「お連れのご婦人が、はにかんでおられます。どうやら、あなたを慕っておいでのようだ。その方は、あなたのお知合いですよ。話をした事もある。あなたは縁側に腰かけてお茶を飲んだはず。ご婦人と一緒に、美しい朝顔の花を眺めながら。」
言い終わった成園さんは、手を広げ片手を差し向け私の反応を待っている。またも私は茫然としてしまった。顔は強張り温度をなくしている。
「なぜそれを? つい最近の事です。ほんの十日程前の事です。あなたもご存じないですか? あなたの事務所、この名刺の住所からも近いはずだ。並木大通りから奥へ入り蝶ヶ池公園へ向かう小さな急坂の手前にある、格子の垣根に青い朝顔が咲く家を。」
私は勢いよく一気に話した。
「ほう。そんな家があるのですか。残念ながら存じ上げません。あまり人様の家には興味がないものですから。」
「そうですか・・・ ですが、私がお茶を頂いたのはその朝顔の咲く家の縁側なのです。麦茶を一杯、頂いただけですよ。」
「えぇ、分かっています。あなたにやましい心など少しもなかったと。ですがその時、ご婦人はあなたを好きになったようです。十年ぶりに人を好きになったと仰っていますよ。」
成園さんは、私の後ろに向かって微笑んだ。
「私には訳が分かりません。あなたが偶然あの日、朝顔邸の前を通りかかり縁側で話す私たちを見かけたのかと思えば、成園さん、あなたは朝顔邸すら知らないと言う。」
「はははっ。私がお渡しした名刺を、もう一度よくご覧になってください。」
そう言われて私は、ジャケットのポケットから名刺を取り出し、まじまじと見た。出来る限り冷静に名刺を確かめた。その沈黙の中、私を答えに導くかのように成園さんは、
「私は幽霊探偵です。主に失くしものや人探し、奇怪な現象の解決をしていますが、自分一人で解決しているわけではないのです。ちょっとズルをしているというか、何と云うか・・・ いや、私の助手は幽霊さんなんですよ。」
私は目が点になった。たぶん口も開いていただろう。
「えぇ、皆さん。そのようなお顔をなさいます。この若造は何を言っているんだ? そんな想いでいらっしゃるのでしょう? ですが、これは真実であり事実なんです。」
「これは失礼。とてもすぐには理解できないお話だったので。よかったら私にも分かるように話して頂けないでしょうか?」
「もちろん構いませんが、少々長い話になるかもしれません。よかったら、場所を変えて話しませんか? 立ち話もなんですから。」
成園さんは、そう言って船の中へ私を促した。気づけば太陽は随分と西へ傾き、青く美しかった海は鈍い暗さを帯び黄金色の帯を携えていた。
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