美術室の亡霊

1/14
11人が本棚に入れています
本棚に追加
/14ページ
「亡霊?」  そう私が聞き返すと亜美はスマホをいじりながら、そーそーと答えた。細い指には大学生の彼氏とおそろいだという華奢なリングがはまっている。 「っていうか由香知らないの?じょーじゃくだなあ」  じょーじゃくが情弱に変換されるまで時間のかかった私はあいまいに頷くしかなかった。  いうて、と短く前置きして梨乃が会話に加わる。 「普通にうちの生徒らしいんだけどね。朝とか放課後とか授業で使わない時間はずっと美術室にいるんだって。気味悪いじゃん、だからボーレイ」  ブレザーのポケットから取り出したリップを塗り直しながら梨乃が続ける。自撮りモードにしたスマホに映した形の良い唇を偏光ラメの入ったオレンジが染めていく。  あ、それ新しいリップ?と尋ねると、梨乃はスマホから視線を外さないまま、インスタ見て、と短く答えた。 「そんなの、ただの陰キャじゃん」  真里亜の低い声が鋭く話題を切った。艶のある黒髪の隙間からのぞく薄い耳には小粒のピアスが光っている。細く整えられた眉を軽く上げて紙パックにさしたストローを咥える。 「真里亜さまは手厳しいなあ」  さま、にイントネーションをつけて梨乃が意味ありげな目線を亜美に送る。私は思わず真里亜の方をうかがったが、薄暗い夕方の影に入ってしまった真里亜の横顔はよく見えなかった。  そもそも美術室の亡霊の話が出たのは私が校門を出たところで化粧ポーチを忘れたことに気が付いたからだった。三人に取りに戻ると伝えたところだった。    そこで亜美が言い出したのが例の「亡霊」である。 「でも取りに行くのだるくない? 明日でいいじゃん」  少し鼻にかかったような声で亜美が言う。  今日は帰りに駅前のスタバに寄って、新発売のフラペチーノを飲んでいく予定だった。 「やっぱ置きっぱなしはちょっとね。野田に見つかっても面倒くさいし」  生活指導教員の名前を出すと亜美は明らかに顔をしかめた。毛髪検査と持ち物検査で何度か野田に呼び出されているのだ。 「亜美は野田に目つけられてるもんね」  梨乃がくすくす笑いながらからかうと亜美は頬を膨らませた。 「梨乃はいいよね、地毛が明るくてさ。私が髪色落としたら絶対ダサくなるもん」 「中学の頃の黒髪ショートボブも可愛かったよ?」  よしよしと頭をなでる素振りをして見せた梨乃を亜美が軽く小突く。  二人は同じ中学校出身で元々仲が良かった。そこに高校で出会った真里亜と私が加わる形でこのグループはできている。 「ごめん、わたし戻るね」  そう言って軽く手を振り私はそそくさとその場を後にした。  亜美と梨乃の機嫌が良いうちにこの場を去ってしまうのが賢明に思えた。 「由香ってまじめだよねえ」  背中に届いた亜美の声に心臓の奥がどきんと跳ねるのを感じた。  三人の視線が背中に張り付いているような気がして、私は振り向かずにそのまま校舎に向かった。駆けだしてしまいたい気持ちを抑え、歩き方が不自然にならないようにわざとゆっくりと歩く。そんなことを考えている自分が惨めなように思えて、背筋を伸ばして顎をひいた。  幼いころから、母にはよく「顎をひきなさい」と叱られた。みっともないから、と。その頃はよく分からなかったが、中学高校と成長し友達と写真を撮るようになって確かに私は顎を上げてしまう癖があると気付いた。顎が上がると顔の形が崩れ四角く大きく見える。友達と自撮りした写真の中の私の顔はどれもマシュマロみたいに四角く膨れていて、小さすぎる目と鼻と口が申し訳程度にくっついていた。それからはなるべく顎を引くように気を付けているのだけれど、ふと学校やショッピングセンターの大きな窓に自分のぼやけた姿が映る時、やはり私の顎は上がってしまっている。まるでおぼれた人が必死に空気を吸おうとして水面から顔をだしているみたいに。  なんだか本当に息が苦しいような気がして、私は学校の玄関に着くとげた箱に手をつき大きく息をはきだした。ちょうど部活動の時間だからか、玄関には生徒が一人もいない。昼間の騒がしさを失ってしまった玄関はしんとしてなんとなく薄暗かった。  今頃三人は私の話をしているだろうか。付き合い悪いよね、なんか違うよね、ってか普通取りに戻る? 三人の会話が頭の中で勝手にシミュレーションされる。 「インスタ見て」  梨乃の一言が頭の奥で繰り返される。あのやりとりは完全に間違いだった。リップについて、私はもっと違う言い方をするべきだったし、もっと丁度良いタイミングで返事をするべきだったし、黙ってしまうなんて最悪だった。もっとうまく、もっと――。喉の奥が詰まったようになってうまく息がすえない。頭の芯がじんじんとしてきて、私は冷たいコンクリートの床に屈みこんだ。いつの間にか死人のように冷え切った手で顔を覆う。胸を冷やしていく不安を無理やり押さえつけながらローファーを脱いだ。化粧ポーチを回収したらさっさと帰ろう、と心の中でつぶやき、私は立ち上がった。  薄暗い玄関を後にし、いつまでたっても仮設のような渡り廊下を進む。美術室があるのは旧校舎で、他には使われていないいくつかの空き教室と理科準備室があるだけだった。旧校舎は去年改装された新校舎と違いどこもかしこも古ぼけていて、床のリノリウムだって元の色が分からないくらいに剥げている。部活のポスターなんかも何年も前のものが貼られたままで、理科準備室の向かいにある水飲み場はカルキで汚れ白っぽくかすんでいた。いくつかの教室を通り過ぎ、突き当りにある美術室の前で立ち止まる。スライド式のドアに手をかけ力をこめるとがらがらと場違いな音を立てながら扉が開いた。
/14ページ

最初のコメントを投稿しよう!