美術室の亡霊

10/14
前へ
/14ページ
次へ
 寝る前、部屋着姿でベッドの上に寝転がりながらスマホを触っていると、緑色のランプが点滅しLINEの通知が入った。  真里亜からだ。  私は起き上がると一瞬ためらい、それからすぐにトーク画面を開いた。かすかな緊張と予感めいた興奮を感じていた。 『いま時間ある?』  シンプルな文面だった。真里亜は普段から絵文字やスタンプをあまり使わない。サバサバ系女子というポジションを確立している真里亜にはそのスタイルがよく似合っていた。いつも語尾に何かしらの絵文字を入れてしまう私はそれが少しうらやましかった。きっと真里亜は、相手に送る前に文面を見直したり、送ってから不安になって追いかけるようにスタンプを送ったりしたことなど一度もないのだろう。 『全然大丈夫!どうかした?』と絵文字をつけて打ち込んでから、少しためらい私は絵文字を、それから『全然大丈夫』のあとのビックリマークも消した。そのまま紙飛行機のマークをタップして文章を送信する。 『ちょっと話せないかと思って』  白い吹き出しが軽い音を立てて現れた。私はすぐにスタンプを送信する。OKと書かれた札を掲げるひよこのスタンプだ。 『通話する?』  続けて送信してから、私はそうだったら嫌だな、と思った。通話は苦手だ。途中で無言になってしまうことや切るタイミングを推し量るときのことを考えるといつもげんなりしてしまう。 『いや、由香の家のとこ行くよ。十五分くらいで着くから』  真里亜の返信にほっとしながら私は自分が興奮していることを感じていた。このタイミングで真里亜が私に会いに来るなんて。話は十中八九今日の亜美たちのことだろう。スマホの画面を閉じ、私は薄いカーディガンを手に取った。音をたてないように部屋の扉をそっと開け、廊下に滑り出る。足音に気を配り玄関に向かいながら、私は「机に人を集める人間」のことを考えていた。  母にばれないようこっそりと家を抜け出した私はマンション共有の廊下を通りエレベーターでエントランスに向かった。スチールの郵便受けが全く同じ様相でいくつも並んだホールを抜け、オートロックの自動ドアを抜ける。その先に中庭と呼ぶにはおそまつな、背の低い生垣で区切られた小さなスパースがあった。地面には砂と砂利が敷かれ、やけに明るい電灯が一本とアルミでできたベンチが一つ置かれている。そこにはすでに真里亜がいた。  灰色のパーカーを頭から被り、暗い色のショートパンツからは細く青白い脚が伸びている。長袖の片腕を太ももの下に隠し、もう片方の手でいじるスマホが不健康に明るい。さっきのLINEもここで打っていたのだろう。 「真里亜」 声をかけると、驚いたように砂利の音を立てて真里亜が立ち上がった。スマホの明かりを落とし、ポケットにしまう。気まずそうに小さく手を振ると、真里亜は頭にかぶっていたフードを脱いだ。    真里亜の髪は背中のあたりで大きくうねっていた。元からさらさらのストレートなわけではなかったらしい。私は真里亜が毎朝アイロンを当てて髪を伸ばしていることを知った。今夜は化粧もしていない。真里亜は私の視線に気が付いたのか、居心地が悪そうに何度か手櫛で髪をすいた。私はなんだか拍子抜けしたような気持ちで真里亜を見ていた。真里亜はこんな顔をしていただろうか。思えば、すっぴんの彼女を見るのはこれが初めてだった。 「えと、話なんだけど」  落ち着きなく視線をさまよわせながら真里亜が口を開いた。普段は真っ赤なリップで縁取られている彼女の口元は今は色が悪く乾燥しているようだった。ところどころにできた小さなささむけを指でしきりにいじっている。私は何も言わずに先を促した。 「その、亜美たちからさ、何か聞いてない?」  私は目の前で背を丸めている真里亜を見つめた。口の中が乾いて、私は唾を飲み込んだ。これが、本当にあの真里亜だというのだろうか。細く不安げな声を出し、私とすら目を合わせることができない。何もない茂みにちらちらと視線を送っては口元や湿気た毛先をせわしなく指で触っている。ファンデーションで普段隠されている肌は乾燥していて、顎の先に赤く膿んだニキビがいくつか密集していた。小さく形の良い鼻も、明るすぎる電灯の下で見ればぷつぷつと角栓が飛び出しざらついている。  真里亜は私の答えを待っているようだった。私は真里亜の鼻先を見つめながら、自分の中に息の詰まるような高揚感とぞくぞくした残酷な気持ちがせりあがってくるのを感じていた。 「何かって、なに?」  ゆっくり、私は問いかけた。高揚感はねばねばとした生暖かい声となって喉の奥からあふれ出す。真里亜は一瞬私を見ると、すぐに目をそらし悔しそうに唇をかみ押し黙ってしまった。いよいよ慈愛と言ってもいいような気持ちが胸の中で膨れあがり私の肺や心臓やのどを飲み込んでいく。私は今優しく微笑んでいるはずだ。小学生の頃、教室の隅で、女子トイレで、渡り廊下で、水飲み場で、何度も向けられてきた、あの優越感と哀れみが混ざった笑顔で私は今真里亜を見ている。  ふと、真里亜に進藤まゆの姿が重なった。小さな文庫本に掴まるように身を縮めていた進藤まゆ。やぼったい眉毛や小さくて厚い唇は小学生の頃から変わっていなかった。短い手足、サイズの合わない制服、むくんで凹凸のなくなった白い脚、処理されていない産毛の生えた腕。それなのに。 それなのに、進藤まゆの胸に描かれた椿を、私は美しいと思ってしまった。 白い肌に浮かんだ椿の鮮烈な紅色を思った時、私は自分の中をじんじんと侵す熱が急に冷めていくのを感じた。  私は一体何に復讐しているのだろう。  私は急に息が苦しくなって慌てて口を開いた。おぼれた人が必死に息継ぎをするように、私の口は勝手にしゃべりだしていた。 「その、私は何も聞いてないけどさ、何かあった、とかなら、三人でちゃんと話してさ」  真里亜の表情は見えなかった。強い光の下で、色の濃い影が私の脚にまとわりついているのが気になった。冷え込んできたのだろうか、なんだか腕がすうすうして私は自分の胸の前で抱いた。心臓が早く打っている。 「亜美たちも機嫌悪かっただけかもしれないし。なにか私にできることがあったら言ってくれて全然いいしさ」  私は何を必死に言い訳しているのだろう。口だけが加速度的に回転していく気がする。私の知らないところで勝手にしゃべっている私がいる。呼吸が苦しい。 「だからその、しばらく、距離とか、置いてみてもいいかもしれないし」  「わかった」  真里亜の声が、なんだかとても清潔に響いた。真里亜は私を見つめていた。アイライナーに縁取られていなくても真里亜の黒々とした瞳は強いのだとその時初めて気が付いた。違う、違うの! 私は今にも叫びだしてしまいそうだった。先ほどとは違う熱が一気に肌の上を駆け上がる。やけに頬が熱かった。心臓がせりあがってきて、私は逃げ場を求めるように口を開いたがかすれた空気がのどから押し出されるだけだった。 「ありがとね、こんな時間に」  真里亜はすっきりしたような声でそう言うと一歩身を引いた。スポットライトのような電灯の光から真里亜の姿が消える。私は一歩も動くことができなくて、ただ小さな声でうんとかなんとか言ったような気がする。 「なんか、ごめんね」  真里亜はそれだけ言うとくるりと踵を返し、生け垣を抜けていってしまった。パーカーの背中で左右に揺れる真里亜の髪はストレートアイロンで伸ばさなくても十分きれいだと私は思った。そして突然、もう一生真里亜のような黒髪は手に入れられないような気がした。肺の中で行き場を失っていた空気を口から一気に吐き出し、私も振り返るとアパートをに向かって歩き出した。雲が出ているのか、月も星も見えない。つい先日、秋口に入ったとニュース番組の天気予報が伝えていたことを思い出す。もう少し、何か着てくればよかったかな。風呂上がりに外で話し込んでいたせいか体はすっかり冷え切ってしまっていた。嫌な寒さだ。両腕で身体を抱くようにして私は背中を丸めた。しんと冷えたアスファルトを踏みながら、私は初めて真里亜から私に向けられた「ごめんね」を、いつまでも反芻していた。
/14ページ

最初のコメントを投稿しよう!

15人が本棚に入れています
本棚に追加