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翌日、私はいつもより一時間早く家を出た。家の前の道路を行く人は少なく、スーツ姿の男性や犬を散歩させるおばさんなんかがちらほらいるだけで、やけにしんとしている。秋に入ろうとしている街の空気は冷たく、鼻の奥をつんと刺した。私はブレザーの袖に掌を隠すようにしていつもの登校路を辿った。
いつものようにコンビニのトイレに寄るのはやめてそのまま歩き続ける。化粧ならクラスメートが登校する前に学校のトイレで済ましてしまえばいいだろうし、なんだか今朝はそういう気分になれなかった。昨晩の真里亜のすっぴんが頭をちらついた。そういえば、化粧をせずにこの道を歩くのはいつぶりだろう。しっとりと冷たい風が無防備な頬に心地よかった。学校に着いたのは七時ごろだった。朝練をしているのか、新校舎の上の階からは吹奏楽部のならす楽器の音がまばらに聞こえる。いつもより朝早いというだけでなんだか違う場所に来てしまったような心地がする。私は少し早足になりながら玄関をくぐった。靴箱の前で上履きに履き替え、渡り廊下へと出る。真っすぐ教室に向かうつもりはなかった。私が今日いつもより早く学校に来たのは、あの美術室で進藤まゆに会うためだ。
がらがらと古めかしい音を立てて引き戸を開けると、美術室は空だった。私は詰めていた息を吐きだす。そりゃそうだ、「美術室の亡霊」だなんて口伝えに膨れ上がったうわさに過ぎない。四六時中美術室にこもり切りというわけではないのだろう。私は何を期待していたのか。――期待、していた? 用意していた言い訳やなんかが私の中から零れ落ちていく。
「由香ちゃん?」
急に声を掛けられ、私は飛び上がるほど驚いた。振り向くとちょうど後ろに黄色い絵の具バケツを下げた進藤まゆが立っていた。
どうやら水を汲みに行っていたらしい、すれ違っていたはずなのにお互い気が付かなかったなんて。私は気まずさが余って進藤まゆを恨めしく思った。
「また忘れ物?」
そう言うと進藤まゆはいたずらっぽく笑う。私はうまく返事をできず黙って道を開けた。
彼女は特にこちらを気に留めることもなく、初めて会った日と同じように大きな姿見の前に立った。窓は開け放たれていて、朝の清潔な風が吹き込んでくる。進藤まゆの髪が肩のあたりで大きく揺れた。
するり。
彼女の肩からブレザーが滑り落ちた。白く糊のきいたブラウスが心なしかまぶしい。そのままぷちぷちとボタンを外すと躊躇なくブラウスを床に落とした。丸く無防備な背中が露わになる。私はどぎまぎしながら何も言えずにその様子を眺めていた。
「今日はしてないんだね、お化粧」
絵の具をパレットに絞り出しながら進藤まゆが言った。いつものどんくささからは想像できないほど、進藤まゆはなめらかに動く。まるで水を得た魚みたいだ。教室やグラウンドでは口をぱくぱくさせて痛々しく鱗を散らす可哀そうな魚。それなのに美術室で会うときだけ進藤まゆは違って見える。なんだかしどろもどろになってしまうのはそのせいだろう。調子が狂う。
「うん、まあ、朝早かったからさ」
進藤まゆは、そっか、とだけ答えると手を動かし続けた。私はなんだか恥ずかしいような気がして口を噤んだ。
姿見の中で、進藤まゆの腕が動いた。
筆に載せられた絵の具は彼女の身体に赤々と曲線を描いていく。やはり、椿なのだろう。あの日、初めて進藤まゆの秘密を目撃した日、彼女が描いていたのと同じ赤い椿。私は彼女の指先から目をそらすことができなかった。筆を振るう彼女の迷いない腕の動きに、確かな意思を持って描き出される線に、私はひどく憧れた。
「それ、私にもやって」
気が付くと私は口を開いていた。進藤まゆが半身をこちらに向ける。つかの間の静けさの中で心臓の音が彼女に聞こえてしまうのではないかと気が気ではなかった。進藤まゆは少し考えた風にしていたがすぐに、いいよと言って小さく笑った。
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