美術室の亡霊

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「なんだか血液検査みたい」  向かい合って美術室の椅子に座り、まくり上げた右腕の内側を彼女に差し出すと私は言った。進藤まゆはくつくつと楽しそうに笑う。まだ絵の具が乾いてないから、と言って肩にかけただけのワイシャツがずり落ちそうになり、片手で直すとスカートのウエストにやわらかく折り重なった白い腹が小さく動いた。 「でも意外だな。由香ちゃん、なんか小学校の頃とは雰囲気変わってたし」  またここに来るとは思わなかったな。進藤まゆは小さな声でそう付け足した。私はなんと答えればいいのか分からずあいまいに笑ってごまかす。そりゃ変わったはずだ。私は努力したのだから。進藤まゆがちっとも変わらないで、私が全く捨ててしまったものたちを懐かしいにおいのする古着みたいに後生大事に抱えている間に。  進藤まゆの指が私の腕の内側を下からなぞるように動き、私は身体を震わせた。無防備なまでに薄い皮膚の下にかすかに浮かぶ血管をなぞり上げるように、彼女の指先は動く。手首から肘の内側を通り、まるで水を含んだかのようにふったりとした二の腕へ。目には見えない細い血管をつなぐかのように。思いのほか強い力で握られた手首はびくりともしない。動揺が去り、顔を上げると彼女のはだけた左胸の赤い椿が目に入った。まだ乾いていない赤い絵の具がぬらぬらと光っている。 「じゃあ、始めるね」  進藤まゆは真剣な声でそう告げると、ぽたり、と私の腕に筆先を落とした。 私は筆先の動きから目をそらすことができなかった。彼女が花弁の一枚を描き出す度、それはまるで私の内側から浮かび上がってくるかのように感じられた。手首を舞い、腕の内側に少しずつ姿を現していく、赤い、赤い、椿の花。  同じだ。  私は彼女の指先を、しなやかな腕の動きを、駆動する肩を、かすかに突起を見せる鎖骨を、そして左胸に咲き誇る大輪の椿を見た。進藤まゆの椿は流れ出し、葉脈のような彼女の青い血管を伝い、筆の毛先の一本一本を通り抜け、手首で私の生暖かい血と混ざり、引き裂けばあふれ出しそうな皮膚の上で同じ赤い花を咲かせている。私は進藤まゆの身体に、そして今や私の腕の頼りない皮膚の下にぎっしりと詰まった赤い椿を想像した。 「はい、終わったよ」 かたり、という音を立てて彼女が筆を置いた。思いのほか時間が立っていたようで、左胸の椿はすっかり乾いている。進藤まゆは肩に羽織っていたワイシャツに袖を通すとボタンを留め始めた。 「乾くまでもう少しかかると思うから。袖、下ろしちゃだめだからね」  進藤まゆはそれだけ言うと、パレットと黄色い絵の具バケツを拾い上げ、すたすたと美術室を出て行ってしまった。洗い場へと向かったのだろう。私は、まだ血液のようにてらてらとした腕の赤色をぼんやりと眺めていた。  女子トイレで化粧を済ませ教室に戻ると、ホームルームは既に終わっていた。誰かに会うことを警戒して旧校舎の古ぼけたトイレを選んだことを少し後悔する。あそこは床も鏡も白っぽく汚れていて生徒は滅多に使わないのだ。 「遅刻なんて珍しいじゃんー」  梨乃が小さく手を振りながら声をかけてきた。私は荷物を置くと彼女の席に向かう。 「寝坊?」  さして興味もなさそうな亜美に私はまあね、と頷いて見せた。右腕をブレザーの上から握る。なんだか熱を持ったみたいに熱い気がした。 「っていうか、聞いた? しーちゃん先生の話」 「聞いた聞いた! まじやばい」  梨乃が結婚話で話題の体育教師の名前を出すと亜美が興奮した面持ちで答えた。何かあったのだろうか。一人だけ要領を得ない様子の私に気が付いた亜美と梨乃が茶化す。 「うそ、知らないの?」 「由香はほんと何も知らないよね」  何気ない言葉だった。しかし私は自分の表情が硬くなるのを感じた。ああ、まずいな。右腕の椿が気になって、いつもみたいに上手くしゃべれない。黙っていると梨乃が慌てたようにフォローを入れてくれた。 「しーちゃん先生、デキ婚だったらしいんだよ」 「イメージ崩れるよねえ。清純そうなキャラしといてさ」  二人の会話が遠く聞こえる。ああいうタイプの方が裏でやりまくってるっていうよね、男子は全員騙されてるよね、私は何かあると思ってたよ、相手すごい年上らしいよね、うわあ、ますますエッチだ。亜美と梨乃の声が頭の中でガンガン響く。右腕から熱が身体中に広がっていく。体の内側ばかりが熱くて、何か吐き出してしまいたいのに口から出てくるのは自分の物じゃないみたいな滑らかな言葉たちだ。誰が喋っているんだろう。私は誰としゃべっているんだろう。こんなにたくさん言葉を紡いでいるのに、これじゃまるで何も言ってないのと同じだ。亜美と梨乃は誰としゃべっているのだろう。どうしてこんなに熱いのだろう。私はこんなに冷静なのに。 「ちょ、由香どうしたの?!」 「へ――?」  慌てた梨乃に言われて初めて私は自分が泣いてることに気が付いた。涙はどうしようもないくらいに勝手に流れ出して、目から鼻から吐き出す息から何もかも熱い。 「え、なに、ごめん、なんか、勝手に――」  やってしまった。亜美と梨乃の顔が見れない。どうしよう、こんなことしたらまた――。必死にブレザーの袖で顔を拭いながら私は慌てた。涙は意思に反して勝手に流れ続ける。まるでやっと出口を見つけた私の中の熱たちがこぞっ てそこから脱出しようとしているみたいだ。 「熱、朝から、熱、あって、それで」  なんとか言い訳をしながら私はあとずさった。水みたいな鼻水が垂れてきて拭っても拭ってもどうにもならない。顔じゅうぐちゃぐちゃで化粧なんかもう涙と鼻水にまざってひどいはずだ。保健室行ってくるから、ってたぶん何とか言えたはずだとか考えながらそれすらもよくわからなくなって私はとにかく教室を飛び出した。
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