美術室の亡霊

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 実際に熱はあった。  ぐちゃぐちゃで飛び込んできた私を見ると、保険医の佐原は黙って私の脇に体温計を挟み込み、糊でパリパリするベッドに寝かせた。三七度二分。号泣するほどの熱じゃないから安心してね、熱を測り終えそう言われる頃にはすっかり落ち着きを取り戻していた私は途端にばつが悪くなって赤面した。 「早退する?」 佐原にそう言われ私は首を振った。彼女はそう、と頷くとほほ笑んだ。 「まあ少し様子を見てみましょう。何かあったら声かけて頂戴ね、ここにいるから」    佐原の声は偽物みたいに優しい。  私は小さな声で、はい、と答えるとよそよそしい布団にもぐりこんだ。ひやりとしたシーツに制服ごとくるまれて私は背を丸めた。先ほどまでのこもったような熱はどこへ行ってしまったのか、今はぞくぞくする寒さが背中に覆いかぶさっているようだった。ごわついた布団の中で手足を動かそうとしても、制服のスカートが引っかかって身動きが取れない。一時間目はもう始まっているのだろうか。私は目を閉じる。確か数学だったはずだ。亜美は机の下に隠したスマホをいじってるだろうし、梨乃は席が後ろなのをいいことに寝不足を解消しているだろう。  保健室は嫌いだ。  布団の向こうで佐原が立てるかすかな音が聞こえる。学校の中でここだけが切り離されてるみたい。ちょっとでもはみ出れば置いて行かれてしまうような濁流の中で、保健室っていうものはシェルターみたいな顔して平気で流れをせき止める。ここに居れば安全ですよ、ここでは何もかもが許されますよ、滞って生ぬるく濁った空気の中に保険の先生の声が溶けていく。敏感さや鋭さといったものがじわじわと溶かされていく。このぬるさに私は慣らされたくなどない。私は身体の真ん中で右腕を抱きかかえるようにして体を丸めた。この、やたら真っ白な部屋の中で、右腕の椿の鮮烈さだけが信用できるような気がした。 「逃げたいときは、逃げてもいいのよ」  ねばねばとした優しい声が降ってくる。長い髪をふわふわとカールさせた保険の先生が私の頬に手をあてる。  ああ、またこの夢だ。  私は半ばあきらめたような気持ちで自覚した。  手で触れそうなくらいとろとろとした夕方の光が保健室の床に溜まっている。保険の先生の声は優しくて、「私」はそれに手を伸ばす。 「大丈夫。今は少し疲れているだけよ。またすぐに元通りになれるわ」 「私」は不安げな、信頼しきったような、後ろめたいような気持ちでいる。  この保健室には窓も扉もない。  継ぎ目のない真っ白な壁がぐるりと私を取り囲んでいる。  守ってあげるわ。  戻れないわよ。  保険の先生の声が二重に聞こえる。  頑張らなくていいの。  手遅れになる。  声は狭い保健室の中で反響し、とろとろとした金色の光は足元からあふれ出し私を飲み込んでいく。光は昼下がりの陽光のように暖かくてしっとりと重い。どこから湧いているのか、私も保険の先生も今や胸までとろけた光の中に浸かってしまっている。  保険の先生は両手で私の頬を挟んだまま顔をぐいと近づける。鼻先にかかる先生の吐息は花の蜜のように甘ったるい匂いがする。    それで変われたつもり?  私は重たい金色の光に頭まで飲み込まれ必死にもがいた。手当たり次第に縋り付いては、どれも頼りなく光の中に溶けだしてしまう。教科書やらボールペンやらセロハンテープやら、掴んだものたちは手に触れた瞬間かたちを変えて指の隙間からすり抜ける。息が苦しい。目から、鼻から、耳から、口から、光はどんどん流れ込んでくる。何か、何か――!  指先に、一輪の椿が見えた。  私は腕を一生懸命に伸ばした。金色の光が身体中にまとわりついてうまく動けない。椿はその赤を鮮やかに光の中を漂っている。私は必死に手を伸ばす。  届いた!!  指先に椿が触れた瞬間だった。金色の光は飛び散り、私は思い切り息を吸い込んだ。いつの間にか場所は保健室ではなくなっていて、私は右の掌を胸の前で握りしめている。何もない、ただっぴろい空間だ。風も、音も、明るさという概念すらない。味も匂いもない空気を吸い込み、吐きだした。力を入れすぎてこわばった指をゆっくりと開く。  右手の中で、茶色く枯れた椿が崩れていた。
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