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だれかの悲鳴を聞いたような気がして私は飛び起きた。心臓がばくばくいっている。聞き耳を立てるが人の気配はない。汗をかいているようで、髪やワイシャツが身体に張り付いて気持ちが悪い。私は息を落ち着けると右腕を抱き寄せた。
ガラリと音を立てて保健室の引き戸が開いた。何人かの話声と気配がなだれ込んでくる。
「生活指導としてね、それは認められないんだ、進藤」
進藤、と聞いて私はびくりと身を震わせた。カーテンに仕切られたベッドの上で息を押し殺す。はい、と消え入るような進藤まゆの声が聞こえた。
「俺はもう行くから。あと頼みます、佐原先生」
「わかりました」
野田が出ていったのだろう。引き戸が再び開閉される音がして保健室には沈黙が降りた。佐原は私がまだ寝ていると思っているようだ。
「進藤さん、どうしてこんなことしたの?」
佐原が猫なで声で尋ねる。進藤は答えない。椿のことだと思った。気まずい沈黙が流れる。佐原はふう、と息をついた。
「とにかく、これは消して頂戴ね。このタオル使っていいから」
「でも、あの、あの」
喘ぐように進藤が言う。私は右腕をきつく抱き寄せた。椿がまるで熱をもったように脈打つのを感じる。私は今や怒りのようなものすら感じていた。
「何か悩みがあるなら私が聞くから。自分の身体をこんな風に汚してしまってはダメ」
汚すだって! 私は叫びだしそうになるのを必死にこらえた。何も分かっていない。進藤の椿の美しさを、私たちがどんなにたった一つの正解を欲しているのかを!
「わかりました」
進藤まゆがそう答えた瞬間、私はカーテンを思い切り開いた。
ああ、なんだ。
ワイシャツを脱ぎ、左胸の椿を拭おうとしている進藤まゆの姿を認めたとき、私は自分の中に膨れ上がっていた熱さが急速にしぼんでいくのを感じた。
そして自嘲気味に思う。私は何を勘違いしていたのだろう。
蛍光灯の白々しい明かりの下で、進藤まゆの椿はひどく滑稽に見えた。
私はずんずんと歩いた。
熱が上がってきたのか頭の中がもうろうとしてどこをどう歩いているのか分からない。
ただ、歩くことはやめなかった。ブレザーも保健室も亜美も梨乃も進藤まゆも放り出して私は歩いた。保健室で見た進藤まゆを思い出す。ざらついた肌を晒しわき腹やへその下に溜まったぜい肉を折りたたむように体を丸めて、保健室の簡素な椅子に座っていた進藤まゆ。
そして椿でさえ!
私はいまいましく思った。彼女の左胸にはパリパリに乾いてこすれた落書きがへばりついていた。私はあの瞬間おぞましいとさえ思った。あれを美しいと思った自分を? あれを醜いと思った自分を?
歩き続けるうちに気が付けば小学校の前に出ていた。
秋晴れのあっけらかんとした青空に白い校舎がすこんと浮かんでいる。私はほとんど引き寄せられるようにきれいに塗られた校門を通り抜けた。コンクリートの敷きつめられた駐車スペースを横切り、土足のまま玄関に上がる。授業中だからか校舎内はがらんとしていて、誰に見とがめられることもない。よく磨き上げられた廊下を、固いローファーで踏みつけながら私は進んだ。突き当りは空き教室になっていた。低い位置にある取っ手に手をかける。扉は思いのほかすんなりと開いた。
こんな、だっただろうか。
私は拍子抜けした気持ちになっていた。そろそろと背の低い机たちの間を抜け、教室の真ん中に立つ。寒々しいくらいに広く感じていた教室は私が声を張り上げれば隅々まで届いてしまいそうだし、私を隠して有り余った机はこんなに小さい。壁に貼られた大きな時間割表だって今ではただの紙切れだ。友達の印だった交換日記、永遠に順番の回ってこない形のいい箒、誰が今でも覚えているというのだろう。
私は窓に歩み寄った。今では背伸びをする必要もない。両手で力いっぱい押し上げていた鍵は片手で難なく外すことができた。軽く力を籠めれば意外なほど簡単に窓が開く。その瞬間、冷たい風が吹き込んできた。両脇にひかれた白いカーテンが大きく膨らみ、舞い上がる。グランドの砂っぽいにおいが鼻をついた。鼻腔を抜けた懐かしさが身体いっぱいに広がり、途端なんだか堪らない気持ちになって私は胸を掻き抱いた。しんと冷えた薄いワイシャツの下で熱っぽい身体がじんじんしてる。私は身体を起こすと力任せにワイシャツの右袖を引き上げた。ボタンがぶちぶちと嫌な音を立てる。私は露わになった椿を左手でめちゃくちゃにこすった。赤い絵の具は肌にしみこんでしまったみたいにとれなくて、薄い皮膚の方ばかりがこすれてひりひりしてくる。爪を立て、歯を食いしばり、力をいれて乾いて張り付いた椿を引きはがす。ぷつぷつと赤い斑点が爪の下に浮かぶ。私は教室を飛び出した。
低い蛇口を思い切りひねり、勢いよく水を流す。水しぶきを跳ね上げながら私は顔を洗った。何度も何度も水を掬い上げては、全然好きでもない色の薄桃色のリップを、亜美にすすめられて買った新色のチークを、梨乃とおそろいのアイシャドウを、真里亜に憧れたマスカラを、ばしゃばしゃと洗い落とす。水なんかでは簡単に落ちなくて、ファンデーションやら下地やらがどろどろに溶けて顔の上に溜まっているのをそれでもどうしても今落としてしまいたくて無理やり拭った。いい加減皮膚が痛くなって、私はやっと顔を上げた。教師たちにばれたのか、遠くからばたばたと足音が聞こえる。息を落ち着けながら正面を向くと、きれいに磨き上げられた鏡に私の顔が映っていた。
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