美術室の亡霊

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――亡霊が、いた。  比較的大きくとられた窓からは午後のにじんだような光が漏れ、白く薄いカーテンがかすかな風をとらえてゆったりとひるがえる。  その光の中に彼女はいた。  彼女のしなやかな腕の先には一本の筆が握られている。キャンパスはない。代わりに彼女の前には一枚の大きな姿見が置かれていた。鏡にはその女子生徒のふっくらと白い裸体が映りこんでいる。目を捉えたのは、鮮烈な紅だった。今まさに彼女の握る筆により描きこまれていく大輪の、おそらく椿。ささやかにふくらんだ乳房の上に、禍々しいほどの鮮やかさで鎮座する赤い華。彼女の筆は彼女自身の身体の上をすべっていた。紅色の花弁が右の肩口から細い腰にかけて降り注ぎ、黒くつややかな葉の連なりが緩くたるんだわき腹に曲線を描く。今、筆は軽く伸ばされた左腕の内側を滑っていた。赤い絵具をたっぷり吸った筆先が、薄く柔らかい肌にふわりとした花弁を描き出す。  なんて、美しいのだろう。  思わず身を乗り出した瞬間、足先が机に当たり場違いに大きな音を立てた。 「だれ」  緊張した声が響くのと同時に彼女がこちらを振り向いた。裸の上体がこちらに向けられ、私は慌てて目をそらした。そのまましどろもどろに続ける。 「えっと、そのう、邪魔しちゃってごめんなさい。あの、私ちょっと忘れ物しちゃって」 言いながら、おそるおそる顔を上げる。女子生徒は上裸のままだった。私は慌てて顔を隠す。 「せ、制服! とにかく制服着てもらえないかな!」  やけに大きな声が出てしまった。彼女は初めて自分が裸であることに気が付いたように、あ、と小さく漏らし、がさごそと音を立て始めた。衣擦れの音がやむのを待ち、慎重に手を下ろす。目の前にはワイシャツの前を軽く手で合わせこちらをじっと見つめる女子生徒が立っていた。 「あ、じゃあ私、ポーチ探すから」  語尾を適当にごまかしながら自分が座っていた席のあたりに向かう。普段の教室と違って荷物なんかも置いていないので自分が座っていた席が分からない。検討をつけていくつかの席をあたるしかなさそうだ。机の中を手で探りながら、私はさっき見た彼女の胸の椿を思い出していた。 「もしかして」  声をかけられたとき、私は三番目に試した机で化粧ポーチを探り当てていた。ショッキングピンクに派手なメタリックロゴが印字されたこのポーチは今月号の「mimi」の付録だった。体を起こし振り向くと彼女が続けた。 「もしかして、由香ちゃん?」  私はあいまいにうなずいた。どこかで話したことがあったのだろうか。私が? 美術室の亡霊と? 「私、進藤まゆ。東小で一緒だった。放課後とかたまに遊んでて……覚えてない?」  彼女の顔に幼い少女が重なった。それと同時に記憶の底に押し込めていた思い出が引きずり出される。砂っぽい校庭、薄暗い廊下、小さな教室の隅に追いやられた一組の机――。私は目の前が揺れたような気がして思わず机に手をついた。ひんやりとした木の感触が私を現実に引き戻す。 「――おぼえてる、よ」  かろうじて言葉を紡ぐ。頭から血の気が引いているのが分かる。目の奥がぐらぐらと揺れ、呼吸が早くなる。  どうして、今更。  逃げなくては。  私は乱暴に鞄を掴み上げポーチを突っ込むと、進藤まゆをおしのけるように教室を後にした。
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