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タマゴ
間違いなく夢だと、改めて認識した。
さっきまで何もいなかったはずなのにどこから湧いたのか、すぐそこにタマゴが立っていた。
手足がある。腕腿は紐のように細い黒色で、手は白い紳士手袋、足は黒い革靴そのもの。
顔はない。卵らしい、白いつるりとしたのっぺらぼう。
服を着ている。シャツを着込みタキシードを羽織り蝶ネクタイを結び、頭には黒のシルクハットを載せている。
大きさは人間と背くらべができそうなくらいで、その身なりは執事かホテルマンのように見える。
言葉を失い、タマゴをじろじろ見ていると、
「ワタクシ、ここの支配人でございます。お客様のお好きなようにお呼びくださいませ」
タマゴが喋った。口がないのにどこからどう声を出しているのかわからないが、確かにタマゴは声を出した。
未だに固まったままの私を見て、卵はふぅむと鼻を鳴らした。鼻ないけど。
「さて、お客様はさぞ驚かれていることと思います。ですので、まずは質問をお受けしましょう。なんでもお聞きください」
ご丁寧に質問タイムを設けてくれるらしい。ならば聞きたいことは聞いておくべきだろう。
「これは夢よね?」
「お客様にとっては夢でございます」
何やら含みのある言い方だ。
「どういうこと?」
「ワタクシからすれば、ここはワタクシたちの世界、卵の世界なのです。お客様の世界とワタクシの世界が、夢を通じてつながっている、とでも申しましょうか。まぁ、ぶっちゃけてしまうとどうでもいいことでございますよ」
最後、タマゴの言葉が急に雑になったがその通りかもしれない。結局は夢の中なのだから、ここがどこかなんて気にしても仕方がない。
「それで、なんで私が卵の世界なんかに?」
もともと卵とは縁遠い私。卵の世界に招待される心当たりも思い当たる節もない。
タマゴが、よくぞ聞いてくれましたと言わんばかりに紐の手をばっと広げる。
「ワタクシたちは百年に一度にひとりだけ、訳あって卵を食べることができない方をこの世界にお招きし、卵の素晴らしさを体験していただいているのです。つまり――」
いったん言葉を切って、タマゴはタキシードの胸を張り、
「あなたはとても幸運な、選ばれし卵を食べられないお方なのでございます」
本当におめでとうございますと、タマゴはひとり拍手喝采。ぽふぽふと、手袋を打ち合わせる間の抜けた音が響く。タマゴからすればめでたいことのようだが、私には何がどうめでたいのか、そもそも本当にめでたいのかもわからなかった。
「それで? 卵を体験って、何をしてくれるの?」
「簡単なこと。好きなだけ卵料理を食べていただけます」
思わず、眉間にしわが寄った。タマゴは簡単なことと言ったが、私にとっては決して簡単なことではない。
「私、卵を食べると死にかける、というか冗談抜きで下手すりゃ死ぬんだけど」
「ご心配には及びません。ここは夢の中、どうして死ぬことがありましょうか」
あっさりと言いのけるタマゴ。
まぁ確かに言われてみれば、と思う。万が一、死んだとしてもここは夢の中、現実に死ぬことはあるまいて。そんなことが起こるのは、漫画や映画の世界くらいだろう、たぶん。
そんな風に自分を納得させた私は、卵を思う存分に体験することにした。
「メニューは?」
「ございません。お客様のお望みのままにお出しします。さて、ご注文は?」
卵料理、卵料理、食べてみたい卵料理。
あれこれと次々に沸き上がる中――その名が急浮上した。
「――プリン」
「かしこまりました」
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