三日目 さようなら、私の日常 その2

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三日目 さようなら、私の日常 その2

   「ふむ」     風が暗い路地に吹き付けている。その風が癖の付いた少年の髪をふわりと持ち上げ撫でるようにして、右から左へと通り過ぎていく。漂う香ばしい匂いはこれから朝食を摂ろうとする者をこの路地に誘いざなうが、立地の問題もあって客足は滞っている。  何気ない路地裏にポツリと建つ小さなカフェを前にして、一人の銀髪の少年は立ち尽くしていた。背丈はさほど高くなく、中高生の平均といったところ。しかし、あどけない容姿とその荘厳な相好は正反対と言える。  何よりもその双眸。どの絵画展でも、彼の者より美しい瞳を描いた絵は存在しないと断言できてしまう程に精巧で、自然で、比類なき眼球を持ち合わせている。幾つもの色を滲ませたような虹彩。真ん中にポツリと浮かんだ瞳孔は深淵を連想させる深みがある。  そんなまさしく美術品そのものである少年は、今し方目の前に広がる光景を見て頭を悩ませ、思わず顎に手を添えている。 「うーーむ」  一体どちらを指摘するのが正解なのだろうか。 「甘いの香りを辺りに充満させている店側が悪いのだろうか。それとも寝間着のまま店に凭れ掛かって涎を垂らして寝息を立てるこいつが悪いのか。…………いや、絶対後者だな」  少年はどうやら注意をする対象を選んでいるらしい。朝食を摂るために人気のないカフェに通っていた彼は、今日に限って扉に寄り縋る少女が邪魔で中に入れないのである。 「ううん…………」  ゴロリ。 「二秒に一回は寝返り打つな、こいつ」  玄関で右へ左へと身体を半回転する少女に呆れた声を発して、少年は悩んだ結果出来るだけ優しく肩を揺することにした。 「うあ、うあ、うあ」  肩を揺らす度に少女の口からは涎と、とても女性の声とは思えない声が出てくる。少年は少し面白くなって何度も揺してみる。 「品の無い声出してないで起きろ」 「ううん…………」  微睡の中、風香の胸中には懐かしい感覚が蘇る。  不器用な肩の揺すり方。少女が起きそうになるまで揺すり続けるその姿。霞む焦点の合わない視界は、彼を彼女と見間違えた。 「雅……………………乃?」 「やっと起きたか」  世界の輪郭がまだ揺らいでいる。しかし、徐々に明瞭になっていく視界で今し方肩を揺らしている者の正体が舘内 雅乃では無いことに気が付く。そうして、ここが寮のベットの上では無く、青い空の下だと気が付く。目の前に居る少年が少女の寝起きという痴態を覗き込んでいる。少女は神速で涎を吸って、口を拭った。もちろん、煙が出そうな程顔を紅くして。 「ど、どど。どちら様で?」 「それはこっちの台詞って……訳でもないが。まぁ、いい。自己紹介なんか後回しだ。俺はただ朝食を摂りにきただけなんだから」  肩揺すりに満足した少年は、少女が起き上がるのを確認すると、少年は私を持ち上げて寄り掛かったいた扉からポイッ、と離した。  黒い外套を羽織った銀髪の少年。年齢は、私と左程変わらない様に見える。目立った特徴と言えば、隠しようの無いほど禍々しい眼球が二つ付いていることぐらいだろう。背丈も私と大して変わらないが、中々の力持ちのようだ。私は軽い方だとはいえ、摘ままれるようにして放り投げられるのは、危うく人間としての尊厳が失いそうになる。やめてほしい。  少年は扉を開けて、爽やかな鈴の音と共に店内に入っていった。  「って、あれ?」  この店の扉は以前に見たことがある。木彫りの看板に洒落た字体のカフェ。  〝マジョリティ・シンクス〟  洋風と和風を折衷したような建物。路地に隠れているだけあって、とても大きいとは言えない。薄暗い雰囲気とは異なり、店内からは陽気な音楽が聞こえてくる。  少年に付き従う様にして、風香も店内に入る。そこでやっと、本来の目的を思い出し慌てて店内を見渡す。 「雅乃は…………居ない」  目的の少女は居なかった。それどころか店内には少年を除いて一人も居ない。この時点でもう完全な無駄足。独りごちる私を憐れむように少年は面白そうに目を向けてくる。何となく、いや、凄く沸々と怒りが湧いてくる。しかし、切り替えないと。雅乃が行くとしたら、あとはーー。 「おい」  踵を返して、店を飛び出す風香の動きはピタリと止まった。まるで獰猛な肉食動物が吠えた様な声だった。私の足を止めたのは、紛れもない畏怖だった。 「急いては事を仕損じる。コーヒーの一杯飲む時間で手遅れになるくらいなら、それはもう、最初から手遅れだったんだろう」  カウンターに座った彼は厨房に居る店員を呼んだ。奥から現れたのは年若い青年だった。以前来た時の店長は居なさそうだが、青年の髪色が店長と同じことから、もしかしたら血縁関係にあるのかもしれないと風香は思った。  少年の言い分は、暇ならコーヒーの一杯でも付き合えということらしい。朝からナンパ師に会うとは今日という日は珍しい。 「手遅れなんかじゃないっ!! 第一、貴方に雅乃の何が分かるのっ!!」 「勿論、何もわからない。だが、何も知らない訳じゃない」 「どういうことよ」 「それ以上先はこのカフェの店員に百八十円納める必要がある。情報量と思えば安いだろう」  ちらりとカウンターに立てられたメニュー表を見る。どうやら彼の言う値段はコーヒー、一杯の値段らしい。つまり、それを飲み切るまで話をしたいという訳だ。 「おあいにく様。財布を持ってないわ」 「そうか……………………よし」  少年は小さなメモ帳らしきものを外套をポケットから取り出した。そうして、必要な分だけを千切る。そうして、スラスラと文字を綴ったと思えば、それをこちらに差し出してきた。 「これに名前を書け」 「なにこれ」 「借用書。即席だがな」 「たかが一杯で!?」 「お金を舐めるな七光り。たかだか一杯だが、毎日飲んでれば年間で六、七万はかかる」 「でも、未成年はお金を借りちゃダメって法律で…………あぁ、もう面倒くさいから書くわ!! だから、さっさとコーヒーください!!」  突然怒りの矛先を向けられた店員は逃げるように厨房に入っていった。そうすると、二人だけの何とも言えない気まずい雰囲気になった。ちらりと彼の横顔を盗み見る。彼はモデル顔負けの容姿ではあるが、橘 風香という人間は『彼氏が欲しい』なんて豪語する割には、男の容姿に頓着など無いのである。 「で? 何を教えてもらえるの?」 「あぁ、そうだな。お前が知りたいのは舘内 雅乃について…………でいいのか?」 「……………………まず、どうしてその名前を知ってるの?」 「魔術師の名前なんざ、その手の者に聞けば幾らでも分かる」 「っ!?」  驚いた風香はカウンターから転げ落ちるようにして、少年と距離を置いた。少年は少しだけ愉快そうな表情をこちらに覗かせていた。 「別に警戒しなくてもいい。なんたって俺もそっち側だ」 「あ、貴方も魔術師ってこと!?」 「うーーん。広義的には、多分そうな筈だ」 「曖昧ね」  風香は警戒しながらもカウンターチェアに座った。なお、少年との距離は座席一つ分空いている。 「近頃は、魔術の定義だって曖昧じゃないか。まぁ、それも過去の話。恐らく、これからは魔術の時代が来る」 「? そんなことないでしょう? だって、科学は既に魔術を超越した存在になってきてるじゃない」 「あぁ、その通り。科学は魔術よりも優れている。だが、全てにおいてじゃない。科学は文明に支えられ、そして、文明は魔術によって支えられている。この点において、科学が魔術を上回ることはできない」 「よく分からないけど、話が脱線してるわ」 「まぁ、いい。それよりもお前が知りたいのは舘内 雅乃行方だろ?」 「えぇ」 「。道端で大の字で寝ていたお前をドアに寄り掛からせたのは、他でもないお前の探している彼女だ。まぁ、お前を起こすことなく道を帰っていったが。俺はその一部始終を見届けて、尚且つ舘内 雅乃本人とすれ違っているから見間違いじゃない」  「へ?」  呆気に取られている風香の目の前に先程の店員が恐る恐るコーヒーを運んできた。多大な情報に当惑して真っ白になった脳内。それがコーヒーの香りによって、奥の方から整理されていく。私は一瞬だけ迷いながらも意を決したように、今し方注がれたコーヒーを一口の内に嚥下した。 「あっづいっ!?」 「何がしたいんだお前」 「と、兎に角雅乃は道を戻っていったのね? 癪に障るけど、感謝するわ!! ナンパ師と店員さんも」  少女は立ち上がり、破城槌の如し力で扉を開けて、その言葉を残して駆け出した。 「おい」 「なに!?」  すると少年はポケットからまた小さな紙を取り出す。そうして、風香に向けて投げた。それは先程のメモ帳よりも固い素材で、空中を漂うことなく真っ直ぐ風香の手元に落ちてきた。 「名刺だ。返しに来てもらわないと困るからな」  「分かったわよっ!! もうっ!!」 「因みに利息は千パーセントだ。返済は早めの方がいい」 「法外な」  少女は走り去っていった。扉をから微かに聞こえる鈴の音が静寂に沈む空間に木霊する。先ほどまでの戦々恐々とした雰囲気が立ち去って、店員静かに胸を撫で下ろした。 「騒がしい嵐が去っていったな。いや、まだだが。珍しいじゃないか、女の客に声を掛けないなんて、蘇芳」 「そうっすねーー。流石の俺もあんなに必死な形相をした少女に声は掛けられなかったし。あと、苗字で呼ぶのやめてくださいよ」 「煤孫ならともかく、俺はその苗字の知り合いは一人しか居ないからな」 「あぁ、アイツ元気にしてます?」 「ふむ、一日に一度でも笑えるのなら、それは元気と言えるだろう」  少年は何気なく暴論を口にした。 「でも、珍しいなぁ。が店にやってくるなんて」 「まぁ、灯台下暗しという言葉もあるからな。ここに居るのは都合がいいんだ」 「?」  赤毛の青年と銀髪の少年。傍から見れば背丈を見れば間違いなく赤毛の方が年齢は上だが、彼はどういう訳か敬語を使っている。もう少し留まっていれば、橘 風香が疑問に思い問いただしてくれただろうが、生憎彼女は多忙を極めている。  橙色の髪を揺らして少女は来た道を戻っていた。時計を見ると、何故か思ったよりも時間が経っていない。計算すると、。千五百メートルの世界記録が…………どのくらいだったか。兎に角、その次元の速さで移動したことになる。  これ以上考えるのは良くない気がした。だから、先程貰った名刺に目を落とした。走っているので、ハッキリと見えないが、そこには組織名らしきものがあった。 【一瞥】  それが、彼の所属する組織らしい。  何故か風香は浅からぬ因縁を感じた。それはある種の未来視的な予見だったのかもしれない。だって、僅か数時間後に、この名称を再び見ることになるのだから。
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