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一日目 とてもありふれたモノ その4
「さっ、寒いわね…………」
「やっぱり、部屋に居て安静にしてた方が良かったんじゃない?」
「別に、平気だけど。というか、言い出したのは貴方だけどね。寮の門限を超えてからコッソリ外出するなんて、寮母さんにバレたら打ち首ものよ」
後ろで肌寒さ故に小刻みに震えている雅乃を心配しながら、風香は目的地へと歩き続ける。目的地と言っても、寮から歩いて数分の河川敷なのだが。
夜は人の気配が薄れていく感じがして、気持ちが良い。必要最小限の人類だけが生存しているかのようで。世界が落ち着いている。澄んだ空気が肺を通って全身を潤わせる。
「着いた……………………けど」
「あぁ~~、もう散っちゃってるわね。桜」
数段の階段を登り、見えた河川敷の景色は一帯が緑に落ち着ついている。まさに自然の光景だが、私達が探している色を宿したものは見当たらない。
「はぁ~~」
深いため息を付いて、風香は気品さの欠片も魅せない様子で、地に落ちた花弁が風に乗って作られた絨毯に胡坐をかいて座る。それに応じて、雅乃も女の子座りで無造作に座る。
「あ、でもあと一枚残ってる」
風香がそう呟いた瞬間に、最後のひとひらは風に乗って何処か遠くに消えてしまった。ピンクの花弁は緑色に染まる。時間の経過の残酷さを聳え立つこの大樹は伝えようとしているらしい。今・というのは本当に一瞬で過・去・に置き換わるものだ。世界は永遠を否定している。
それでも、風香は悔しそうな顔をしながらも嬉しそうにその大樹を見上げていた。
最後の色を無くした桜の木は、ただ緑でそこら辺に生えている街路樹と区別もつかない。まさに、うつろう世界の現実を身に染みて感じる。過ぎ去ると言うのは、無情な無常さを暗に示している。
それでも、時間の経過が必ずしも残酷とは限らない。風香はそう考えている。
「ねぇ、雅乃」
「何?」
「空、見て」
頭上には先の分かれた枝木が蜘蛛の巣のように入り乱れている。その隙間から、僅かな月光が降り注ぐ。その光を浴びて、思わず雅乃は一瞬だけ目を瞑った。そうして、再び瞼を開ける。
すると、
空は途端に広大な、果ての無い幻想へと生まれ変わった。
満天の星空と降り注ぐ箒星。見上げる視界には雲が一つも無い。まるで雲が意図的に避けたようだ。淡い光を浴びて、雅乃は小さく、声を上げた。感嘆と驚きと喜びを混ぜ合わせたような声。人魚の歌声を思わせるその声に耳を傾け、風香もまた空を見上げた。
どうして今まで気付かなかったのか。
星が瞬く、風が吹く、寒気は既に眼前の絶景のおかげで忘れてしまった。この景色を前にしたらどんな物事もどうでもよくなる。
「とってもきれい、ね」
いつもよりも甲高い声。翳りの無い紫色の瞳には、大きな月が反射している。雅乃は肩を震わせた。
「うん。ねぇ。雅乃?」
「……………………何よ?」
雅乃は首を傾げて聞いた。少女は恥ずかしがる事無く、息を吸って、言った。それは何気ない日常の発音でありながら雅乃の耳には異国の言葉のように聞こえた。
「私、彼氏が欲しいな、って」
「……………………はぁ!?」
およそ、一分ほどの間を開けて、雅乃は顔を真っ赤にして答えた。首の上から額の先まで。およそ全ての肌が沸騰した湯の様な蒸気をあげて、風香の告白を聞き遂げた。
「雅乃?」
風香は予想外の雅乃の行動を訝しむ。
「……………………っ!!」
風香のこちらを真っ直ぐ見据える瞳が、雅乃の身体を痙攣させ、足の爪の先まで熱を帯びさせる。女子座りから体育座りに組み方を変え膝の内側に顔を埋める。雅乃はその状態のまま、返事をした。
「で、でも!! わた、わたしはお、女だし!? そりゃ、お、女が男にだってなれる世の中になってきてるけど!! で、でも。そんな、ゆ、勇気が居るわっ!!!!!」
ここ一年で培った彼女の優雅さを全て崩せるくらいには、動揺を全身で露わにしていた。
「どうしたの? 雅乃? 大丈夫? やっぱり体調が悪い?」
「だ、だって!? あなたが変なこと言うからっ!?」
裏返った自分の声に驚いた様に顔をあげたが、横目で風香を見つめてすぐに膝の内側に顔を戻した。
「…………私が彼氏が欲しいって、そんなにおかしい?」
「おかしいというか……ええと、私的には女の子のままがいいっていうか…………」
落ち着く様子が無く、もじもじと二本の人差し指の先を擦り合わせている、そんな親友を訝しむ風香の視線。お互いに何か食い違いが生じているようだと理解してきた。
「で、でも、風香がいいならっ!! わ、私頑張るからっ!!」
「雅乃が頑張る必要はないから。私はただ、彼氏が欲しいだけだから」
「え、…………でも、この学園に男子生徒なんて居ないじゃない」
風香は視線を再び空に向けて、消え入りそうな声で呟いた。
「まぁ、ね。でも、いつか、好きな人とこの桜と夜空を見上げたいなぁ。それが、出来たら死んでもいいかも、なんてね」
「……………………」
雅乃は頬を膨らませて睨む様な視線を向けたが、やがて愛らしく、それでいて諦観の籠った微笑みに表情を変えた。
「はいはい。私とのデートはつまらないですよね~~」
「そんなことは言ってないけど……」
「それよりも、どうしてこんな遅い時期に桜を見ようと思ったの?」
「それはーーーー」
次に続く言葉は、喉に引っ掛かり上手く出なかった。だから、そこで風香は黙ってしまった。雅乃は呆れた様な顔をして、風香と同様に呆然と天を仰いだ。
言える筈がない。喉に詰まった言葉は、私の意思と反対でありながら、私が最も大事にしているような考え方な気がするからだ。迂闊に離してはいけない気がする。そんな理性が、込み上げる本能を押し留めたのだ。
【終わる瞬間、が一番綺麗だから】
風香はその言葉を嚥下して、身体の内側に戻した。
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